一年生
一話
二〇〇六年晩春。
ここ二数週間ほど、季節外れの高い気温が続いている。
羽化する時期を間違えたのか、一匹の蝉が教室近くの木にとまり鳴いている。
だがそれは死期を悟った蝉の断末魔だったかもしれない。
しばらくすると、ジジッ――と鳴き、そして聞こえなくなった。
「よし! 昨日出した宿題を回収するぞ! 後ろの人は集めてくるように!」
そんな蝉に誰も関心を向けず、教師が教室に入ってくるなり蝉よりバカでかい声で響かせる。
通い始めた公立高校にはエアコンが設置されている。だが稼働を開始する日付と温度は厳格に定められており、異常気象とも言える暑さのなかでもエアコンは決してつけられない。
そして教師は口をそろえて生徒に繰り返す。「エアコンに頼っていると軟弱になる」「忍耐力と根性が養われない」と。無論、職員室や校長室は例外だ。
学生からの不満は当然のように圧殺し、学生服についても気温に関係なく冬服の期間は厳守させられる。
そんな時代錯誤の「古き良き伝統」を頑なに手放さないのが今通っている高校だ。
「教科書の六十七ページからだ! 予習はやっているだろうから、まずは問い三まで解いてみろ!」
そんな中、熱血教師の授業が開始されては、誰しもやる気を失ってしまう。生徒との温度差に気付いていないのは教師だけだ。
俺は教師が嫌いだ。
教員免許を持っているというだけで、自分の感性を生徒に押し付けるクズな教師。
勝手に盛り上がって、置いてけぼりをくらう生徒に対し勝手に冷めて怒り出すアホな教師。
社会に出たときのため云々言っているくせに、自分は大学からそのまま教員になったために、とどれだけ世間とズレているか気づいていないバカな教師。
そもそも生徒などすでに眼中にないダメな教師。
真に生徒のことを考えている教師なんてそうそういない。
だがそんな教師に聞こえる形で不平不満を口にする者はほとんどいない。
まず、この高校には漫画やドラマで見られるような典型的な不良やヤンキーはいない。
教師に反発する者はたいてい内申点がなくなり、留年の可能性が極端に高くなる。加えて進学校であるために大学受験や推薦に大きな影響を及ぼす。
すなわち教師は教育指導という名目の脅迫が容易に行え、教師にとって都合のいい方に更生する見込みのない生徒は留年や休学に追い込まれる。
そんな型に押し込める教育方針のため、生徒は画一的な勉強ができる者が多いわけだが、正確に言えば勉強しかできないとも言える。
常に受け身で自分から考えて行動する事はない。なにせ、たとえ良い結果を出したとしても、教師の定めた事以外を行えば評価はマイナスにされるからだ。
「義務教育ではないのだから自主的に予習してくるのは当然」などといいながら、舌の根も乾かぬうちに「まだ教えていないやり方を使うな」と説教をしてくる。
まるで軍隊教育、あるいはロボット製造か、奴隷育成とでも呼ぶべき教育体制だ。
それが戦後から続く「和を
俺は教師が嫌いだ。
大人が嫌いだ。
学校が嫌いだ。
「――野! 黒野! 何ボ~っとしてやがる」
「すみません」
「まったく、何をやってるんだ! 一年生だとしても、今からきちんと勉強してないと大学受験のとき大変な思いをするぞ! 分かったな!? じゃあ問い二を答えてみろ」
「はい」
毎日。
毎日同じ。
繰り返し。
一緒。
変わらない。
そんな日々。
教師は大学に行けという。
レベルの高い良い大学にいけば勝ち組になれるという教師もいる。
だがそこでも毎日同じことを繰り返すだけ。
就職しても、社内で昇進しても出世しても同じ。
何も変わらない。
自分たちは国や社会、経済を回すための消耗品で、自由に生きる術はない。
出る杭は打たれ、排斥される。
そのことに気付いたときから、すべてが嫌いだ。
「黒野、すまないがそこのプリント、教員室まで一緒に持っていってくれ」
「……はい、分かりました」
「いつも悪いな」
教師と言う人種は、従順で隷属的な生徒を好む。
少なくともこの学校にいる奴らのほとんどはそうだ。
「そういえば黒野」
「はい」
「入学直後に出した進路希望だが、地元大学の法学部になってたな」
「はい」
「大学を出た後の進路まで考えてそこを選んだのか?」
「……いえ、まだそこまでは決めていません。進路希望も、とりあえず……といった感じです」
「そうか。まぁまだ入学したばかりで難しいと思うが、入試やこの前の中間考査の結果もかなりよかったからな! 性格的にも弁護士とか向いてそうだと思うぞ!」
「……そういうのも、いいかもしれませんね」
「おお、そうかそうか! じゃあこの三年が勝負だな! そうなると志望はもっと偏差値の高い大学がいいぞ。今度司法試験に強い大学一覧を持ってきてやろう!」
「……はい、ありがとうございます」
だから、いつも猫をかぶる。
この閉鎖されたコミュニティの中では、ひたすらに「教師にとってのいい子」として過ごすのが無難で楽だからだ。
俺は他人が嫌いだ。
俺は大人が嫌いだ。
俺は世の中が嫌いだ。
そしてなにより、
無力な自分が、大嫌いだ。
ある日の午後、移動教室の時間になると生徒たちはそそくさと移動を始める。
駄弁りの中に教師に聞こえないよう不平不満を含ませながら。
それでも機械のように一様に移動する、
「やぁやぁ黒野君! 調子はどうだい?」
美術室に入るやいなや、教師に絡まれる。
丹波と言う美術の教師で、ウェーブのかかったくせっ毛はワカメのようにも見える三十ほどの男性教諭だ。
「まあまあ、です」
相変わらず猫をかぶりはにかみながら無難に答える。そんな俺の返答はお構いなしに自分の話を進める。
「じゃあ授業前にちょっと見てくれ、君の感想が聞いてみたい」
丹波は変わっている。この学校の教師には似つかわしくない。どこか抜けているというか、頼りないというか……。
しかし困るのは、入学して以来丹波にずっと目をつけられている事だ。
初回の美術の授業で「どんな絵を描けるか見てみたい」と特に何もテーマを設けずに思い思いに絵を描かせたことがあった。どうやらその時に目に留まってしまったようだ。
その絵は画用紙いっぱいに描かれた木炭画だった。
「とても、いいと思います。自分なんか口出すレベルではないくらいに」
「いやいや、お世辞はいいよ~」
言葉とは反対に非常にうれしそうな口調で丹波はさらなる感想を催促する。
描かれているのは学校の教室で、まだ真ん中が白く描かれておらず途中のようだった。
「じゃあ黒野君が今画廊に来てるとしてだよ? 数ある作品の中からこの作品の時に足を止めると思うかい?」
どう答えるのが波風立てないか考えていると、丹波からそうたとえ話を持ち出される。
「どうでしょう……まず画廊に行ったことないので」
「まぁまぁ、こういうのは深く考えず直感に従ってくれていいんだよ?」
これは答えるまで解放してくれそうにないな……あるいは授業が始まるまでの数分間を耐えるべきか。いや、そちらの方が面倒だな――そう観念し、できるだけ荒波を立てないよう気をつけ言葉を選ぶ。
「目に
「なるほど、まあそうだよね~」
丹波は苦笑するような笑みを浮かべつつ、くせっ毛の髪を触りながらさらに続ける。
「じゃあもし売っていたとしたら、買いたいと思うかい? お財布事情とか細かいことは抜きにして」
「値段にもよりますが……何万とかは出したりしないと思います。書店で画集として並んでたら買うかもしれません」
なるほど――と呟くと、丹波の視線は教室の外、遙か彼方を泳いでいた。
「じゃあ黒野君なら、どう描き直す?」
視線と意識がこちらに戻ってくると、そう無茶ぶりを続けられる。
「中央の空白は、これで完成なんでしょうか?」
「うん、そうだね」
クラスメイトの一部から視線が向けられているのを感じ内心でため息をつきつつも、無難だと思う考えを答える。
「……強いて言うなら、少しここと――この机とか、不規則な並びを意識しすぎて逆に違和感を覚えました。放課後の教室は直前に掃除がありますから。それと、中央の空白はあまり好みではないです。空白なら四隅にして、真ん中にはしっかりテーマとなる『何か』を描いた方がいいと思います」
丹波は他の教師のように褒めたり謙遜したりしていれば良いタイプではない。
聞かれたことに対してははっきり意見を言ってしまった方が無難――それがこの数ヶ月で理解したことだ。
「なるほどなるほど――」
丹波は一呼吸間を置くと、描かれた絵をキャンバスから手に取りそのまま破いた。
「あの、俺の感想なんかで……」
「いや、黒野君の意見を聞いて僕もそう思っただけさ。なに、僕の技量が及ばなかっただけであって、君が気に病むことはないよ」
変わった教師だと思う。良いか悪いかは定かではないが、この学校の中では異質な存在だ。
破かれた画用紙を片付けるように机の下に忍ばせる丹波を見て、自分の席に戻ろうと思い背を向けたその時、丹波は小さく投げかける。
「黒野君はその『何か』を描けるようにね」
丹波の事が嫌いなのかと考えるが、抱く感情は少し違う。
どれだけ猫をかぶってもどれだけ演じても、丹波の眠気眼の虚ろな瞳は、心の奥底を見透かしているのではないか――そんな荒唐無稽な事を思わせるほどの異質な教師。
それが丹波だ。
その直後、始業のチャイムが響いてくる。
「よ~し、始めるよー。ほらほら、話してもいいけど席には着いてね~」
丹波がそう大声で言いながら教壇に向かう。
おとなしく自席へ戻ると、丹波は授業を始める。学級委員が号令をかけ全員が着席するのを確認して話し始める。
「さて、先週までは球体のデッサンだったわけだが……正直なところつまらないだろう!? 少なくとも僕はつまらない!」
周りはざわざわと小言が飛び交い始める。規律に口うるさい教諭の授業ならば誰も彼も沈黙したままだろうが、丹波の緩い授業では私語をしてもどやされないと生徒はすでに学習しているようだ。
「で、先生は思うんだ。やはりデッサンでも、スケッチでも、油絵でも、楽しまないと面白くないってね。だから、いろいろ考えてきたよ!」
紙を高らかと掲げた。
辺りはいっそうざわめきが増していた。
「ペアになって互いの似顔絵を描いてもらおうと思う」
ざわざわとした教室は気づけばがやがやとした声で溢れていた。
「ペアはあみだくじで決めるよー。今からまわすから、好きなところに名前を書いて何本か線を引いてくれ~」
まわってきたあみだくじには上下に名前を書くところがある。
はじめから生徒の名前を書いておいて線だけ足せばいいのに――と思ったが、おとなしく自分の名前を書くことにした。
黒野翔――と。
十分後、ようやく紙が回り終える。
「ん? 誰か名前書いてない人はいないかい? ひとつ余ってるけれど……このクラスは四十人だよね?」
一つ一つ数え始めたとき、生徒の手が挙がった。
「あのっ……たぶん書いてないです」
「んーと、相沢さん。じゃあ余ってるところでいいかい?」
「あ、はい」
丹波のことだ、もし嫌だって言ったらもう一回やり始めたかもしれない。
そういう性格をしている。
しかし幸いにしてそういった事態にはならなかった。サボりたい一部の生徒としては残念だっただろう。
丹波があみだくじに苦戦する中、教室は私語に包まれる。まったく関係ない話もちらほら。ただ、周囲の男子は「あの女子と一緒になりたい」といった下心丸出しの話で盛り上がっていた。
彼らにとっては面倒な主要教科の間の休憩気分と言ったところだろう。
「はいはーい、では発表していくよー。静かにねー」
順々にペアが発表されていく。
好まない人とあたった人は小声で友達に嘆き救いを求め、友人とあたった人は喜び合い、かわいい女子とペアになった男子は発狂しそうな勢いだ。
「で、次が……黒野君と相沢さん。最後に――」
俺は視線だけをその女子に向ける。
その女子のことは――よく知らない。正直、クラスにいたのかどうかも怪しいレベルだ。
よほど影が薄いのだろうと結論づけるが、その根拠はそれ以上の関心がなかったからだ。
「はーい、じゃあペアごとになるように移動してねー」
丹波の号令とともに、ペアごとに席替えをし始める。
美術室は他の教室と違い、机は壁沿いに並んでいる。
これは教室内でイーゼルを立てたり石膏像を配置したり、様々な状況に対応するためだ。美術部員の為にそうなっているのだろう。
本来であれば授業では机を出し、部活では机を端に片付けるのだろうが、終始机は壁沿いに並んでいる。
机を出す必要があるのは美術史だろうが、それは教室で事足りるというのもあるだろう。まぁ最大の要因は丹波の緩い性格だろうが。
生徒はガヤガヤと移動を始める。
俺も席を立とうと腰を浮かせたところで、ペアの相沢の方が椅子を持ってこちらに近づいてきているのに気付いた。
大事そうに両腕で椅子を抱えている。
それが災いしたのかも知れない。
相沢は足を絡めてバランスを崩す。
前方に倒れたその姿は、ヘッドスライディングでも決めたかのような体勢をしている。
俺はそれを終始見ていたが、教室中の視線が彼女に向いたのは、こけた拍子に椅子が大きな音を立てて転がったからだ。
相沢は二度ほど周囲を見渡すと、何事もなかったかのように立ち上がり椅子を拾い上げる。
目の前まで寄ってきた相沢は、こけて注目の的になったことが恥ずかしかったのか、顔が赤い気がした。
「あのっ、えっと……ふつつか者ですが、よろしくお願いします!」
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