三十三話
場面が転換する。
少しして、見えない壁がなくなっていることに気づいた。
私は思わず嬉しさから辺りを駆けた。
しかし見えない壁は広がっただけで、家のあった敷地より外には出られなかった。
かつての住まいはもう跡形も残っていなかった。
代わりにボロボロの椅子や台の置いてある場所があった。
場面が転換する。
朝になると、幼子から上は私と同い年くらいの子までがその場所に集まってきた。
そして、大人が何人か来て子供達に勉強を教え始めた。
そこでも誰も私には気づいてくれないので、隣から、ある子供の教科書を覗き見てみると、なぜか黒く塗りつぶされた箇所がたくさんあった。
場面が転換する。
ある時は変な人がきた。
目の周りがへこんでいて、肌は血色が悪いのか白っぽく、目は不思議な事に青い人がいた。
彼らは厳つい自動車に乗ってきて、始めて見た時は何だか不気味な気がしたが、ここに来ていた子供達は彼らをみると嬉しそうに駆け寄って何かを言っていた。
それを受けた変な人は笑いながら子供達に何かを渡していた。
その何かをもらった子供達は次々とその何かを食べていた。
場面が転換する。
季節は巡り、春の陽気が体への負担を減らしていった。
次第に桜も散り終え、青々とした葉で枝を覆う頃になっていた。
この日は同じくらいの年齢の生徒たちの教室にいた。男の子は戦中にかろうじて徴兵されなかった年頃で、女の子は私と同じように工業で働いていたであろう年頃。皆十四、五歳だ。
そして、それが起こったのは、前触れなく唐突だった。
「この問題は――相沢さん、わかる?」
自分と同じ苗字の生徒がいた記憶がなかったので、私の辺りを見渡した。
しかし、それらしき生徒は見当たらない。先生の顔に視線を向けると、先生も私を見ている気がした。
いや、見ていた。
「わた……し?」
半信半疑で問いかけると、先生は「ええ」と頷いた。
「私が……見えるの?」
次に首を傾げるのは先生の方で、何を言っているのか理解できない様子だった。
涙が溢れて止まらなかった。
場面が転換する。
その先生は、別の先生を連れてきた。
その顔は、見知った顔だった。
「まさか――そんな事が――」
大沢という、父がよく面倒をみていた男性だった。
彼はこちらを見るなり私が誰なのか気付いた様子で、感涙にむせんだ。
場面が転換する。
幾ばくもしなうちに、私はその生活に打ち解けられた。
いや、私は――というより周りが私のことを受け入れてくれた。
この年は昭和二十五年。五年前に空襲で亡くなったと思われていた女の子が突然現れた。そんな私の存在を奇妙がる人、恐れる人も少なからずいた。
「きっと神隠しだろう」
そんな人々に大沢は言った。
「皆の知っての通り、相沢家の方々は長年皆の為に身を粉にして尽くしてくれた」
その言葉に反論するものは誰もいなかった。
「そんな家の一人娘だ。きっと神隠しによって災いから守ってくれていたのだろう」
この土地に古くから根付く神、四縁が相沢家の一人娘を救った――その噂はすぐに町中に広まった。
だが、見えない壁は無くなることはなかった。
場面が転換する。
町は戦中に比べてずっと豊かになっていた。
朝鮮特需と呼ばれた好景気は、この町の小さな工場にも及んでいる。
人々は戦時の傷跡を乗り越えようと頑張っている。
大沢は親切だった。
多くの村人も私に親切にしてくれた。
この場から出られない私を懸命に助けてくれた。
それでも、見えない壁が消えることはなく、そのためだけに多くの人の労力を割いてもらうのは忍びなかった。
「私は大丈夫です」
だからいつもそう口にした。
場面が転換する。
「ここを……学校に?」
私の住んでいた家があった場所は更地となり、仮設の青空教室があった。
そこに、ちゃんとした学校を建てたいと話が舞い込んできた。
国内を見れば、青空教室はかなり解消されつつあるという。
都会を中心に学校の復旧が進んでいるらしいが、この町ではまだそこまで手が回っていなかった。
それがようやく目処がついたと大沢は嬉しそうだ。
「ここから出られない理由は分からないけど、他にもたくさんの子供達と学べるなら寂しくはないだろう? それに、僕も教師としてこのまま働けることになったからね」
大沢は嬉しそうに鼻を高くしていた。
私はすぐに承諾した。
場面が転換する。
季節は巡る。
紅葉が舞い降る秋のことだった。
学校の建設はかなり進んでいた。
私も手伝った。
大工仕事はできなかったが、昼食や飲み物の差し入れはとても喜んでもらえた。
「どうぞ」
「……ん? ああ」
だが次第に、大工の反応が変わっていった。
はじめは疲れているのだろうと思った。でも、その症状は次第に悪化していき、まるで私のことが見えていないようだった――
場面が転換する。
小雪が舞う季節になると、誰も私に気付かなくなった。
声をかけても、触ってみても、反応がない。恐ろしかった。
しかし何もできないまま時間だけが過ぎてゆく。
場面が転換する。
新年を迎える頃には校舎は出来上がった。
相変わらず誰も私を気にもとめない。
そんなある日、久しぶりに大沢がやってきた。大沢ならきっと私が見えるはず、と思った。
「立派な建物ができましたね」
大沢は他の大人達と校舎を見上げ談笑していた。
「やはり子供は宝。子供は未来そのものです。無理してでも子供達のためにしてあげなければ」
大沢の言葉に、同調する言葉が上がる。
「もし、哲次郎さんが生きていたら、遅いと叱られたかもしれませんね」
大沢が自虐すると、軽い笑いが起こった。
「本当に偉大な人でした。そんな方と、罪のない子供が犠牲となる。この悲劇は繰り返してはなりませんね」
「ええ」
そして次に彼らが口にした言葉に、私は耳を疑った。
「――せめて瑞緒子ちゃんが生きていればよかったのですが……」
私は大沢の言葉が信じられなくて目の前に出る。
私はここにいる――そう訴えたが、誰も私に気づくことは無かった。
場面が転換する。
思えば、私は食事をとらなくても空腹にならない。飢えることがなく、餓死することはない。
――それは『生きていたら』絶対にありえないことだ。
わかっていた。なんとなくそんな気はしていた。けれど、一時でも私に気づいてくれた事によって、もしかしたら――と期待してしまっていた。
でも多分……私はもう、死んでいるんだ――
場面が転換する。
何度も視界が歪み、場面が転換する。
繰り返した。春が訪れると周りの人々に認知され始める。
しかし冬に差し掛かると人々は忘れてゆく――。
――それでも俺の知っている時期より長かった。入学式が行われる頃には認知されていたし、十一月の末ごろまで忘れない。
場面が転換する。
時代が加速していく。
次第に生徒の数が急増し、再び校舎が建て替えられる。
途中から小中学校は移転し、高校だけとなる。
はじめこそ忘れられる悲しみに萎縮するも、澪は次第に周りの生徒に積極的に関わっていくようになる。
あるときは親に勘当された少女であったり、あるときは自分を見いだせないでいた不良であったり。
うまく行かないこともあった。
それでも澪は、来る年も来る年も贖罪を続けた。
場面が転換する。
「いいんです。僕に関わってると、相沢さんもいじめられますよ」
ある年の贖罪は、いじめられている気の弱い新入生だった。
破かれたノートが辺りに散らばっている。
その紙きれを拾いながら、もとの形に戻していくと、ノートに描かれた絵が浮かび上がってくる。
「私は丹波君の絵、とても好きですよ」
「でも――」
「大丈夫、私が何とかして見せますっ!」
その青年は気が弱く、いつも物怖じしていた。
だが澪との関わりの中で、少しずつ自信を付けていった。
でも別れの時――。
次第に思い出せなくなる現象に、困惑しながらも彼は声を上げる。
「僕が何とかしてみせます! 今度は、僕が相沢さんを助けてみせます!」
だが彼の――丹波の覚悟は虚しく、時間が過ぎていった。
場面が転換する。
「お話しするのは初めてですね! 相沢澪といいますっ! ……えーっと、黒野、何君だっけ?」
「黒野翔」
「じゃあ翔君ですねっ! 今日は頑張りましょう!」
俺と出会った。
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