顛末

三十二話

 明かりを感じた。


 ぼやけた視界に、うまく聞き取れない声。


 男の声だった。


 野太く、たくましさすら覚える、男の声だった。盛大に無邪気に、笑っていた。


「お父さん……?」


 かすれた視界を必死にこすりながら、俺は声をかける。


 ――俺?


 いや、その声はあまりに幼く、とても愛らしい女の子のものだった。


「おお、瑞緒子か。おはよう」


「おはよう……ございます。……誰とお話ししてたの?」


「人見知りの友人だ。瑞緒子が起きてきたから恥ずかしがって隠れてしまったようだ」


「へぇ~~」


 体格の良いその男は甚平から垣間見える素肌は筋肉が浮き彫りになる程で、よく日に焼けていた。強面にも見えるが、笑った顔はどこか少年のようだった。


 そんな折、大きな声が玄関から聞こえてくる。


「大沢が来たようだな。瑞緒子、出迎えてあげなさい」


「はいっ!」






 場面が転換する。






 後ろ姿を目にする。


 トントントンと軽快な音と、グツグツと美味しそうな音を立てて。


「お母さん?」


 声をかけると 後ろ姿だった女性が振り向いた。


 こちらに気付くと、にこやかに問いかけてきた。


「お腹すいた?」


「うん」


「もうちょっと待っててね。すぐできるから」


「うんっ」


 重いまぶたを必死に持ち上げ、女性に背を向けて駆けた。






 場面が転換する。






「ああ」


 太い男の声が耳につく。


 布団を出て、蚊帳をめくり、ふすまの隙間から隣の部屋をのぞき込む。


「だが、娘をおいてなど――」


「仕方ないさ、兄さん。次男坊の宿命だからな」


「だからって、今が可愛い盛りだってのに……何も今軍に入らなくたって――」


「戸主は兄さんなんだ。そんな弱音を吐いてると、家が潰れるぞ。それにこれだけ戦争が長引いているんだ。兄さんの人脈はたしかに凄いし、そのおかげで猶予されていたのは知っている。だが、兵役は臣民の義務だ。それに、他の者達へ示しもつかない」


「哲……俺は親父の付き合いを継いだだけだ。だがこの村の者はそんな俺より、お前を信頼しているんだぞ」


「だったらなおさらさ」


 難しい言葉だった。


 ――何をお話ししてるのだろう?


 そんな疑問を抱いているのに気づいた。


「兄さん、外ではそんな弱腰を見せないでくれよ。相沢家の長男――戸主として」






 場面が転換する。






「おめでとう!」


「おめでとう」


「おめでとー」


 村の人たちが大勢集まってきた。


 母親に手を引かれて、背の高い村人を見上げる。


 みんな一様に軍服を着た父親を褒め称える。


 首を傾げた。


 皆の言葉が静まると、一歩前へ町長が出てきた。


「相沢哲次郎君の出征を祝して、万歳っ!」


 すると、今度は皆一様に「万歳」と叫んでいたので、再度首を傾げた。


 その後、周りに讃えられ、中年の軍人に連れられて姿が見えなくなった。






 場面が転換する。






「お母さん」


 一人減った食卓で、口を開いた。


「なに?」


「お父さんはどこに行ったの?」


「……今ね私達のために頑張ってるのよ」


「お仕事?」


「……そうね」


「いつ帰ってくるの?」


「……いつでしょうね……お母さんにも分からないわ」


「そう……」


 何度聞いてもそう帰ってくるだけだった。


 そしてそのたびに、どこか言葉に元気がなかった。






 場面が転換する。






「あなた!」


 昼下がり、母親は血相を変えて玄関から飛び出していった。


 その先には、木の棒を脇に抱え、片足で歩く父親の姿があった。


「ただいま、瑞代」


 父親の言葉を聞いた母親は、ただ泣きじゃくっていた。


「瑞緒子はちゃんといい子にしてたか?」


「――はいっ」


 母につられるように半泣きになりながら答えた。


 久々に触れる父は、少し元気がなかった。


 足下を見ると、片方の足がなかった。


 




 場面が転換する。






 日々の食べ物が次第に減っていった。町では自由な物の売り買いはめっきり減り、家の物の多くが徴収されていった。


『大本営発表――』


 ラジオでは華々しい戦果を伝えていたが、生活は次第に困窮していった。


「瑞緒子、怪我のないよう、気をつけてね」


「はい」


 母の言葉に見送られつつ、私はいつものように工場に働きに向かった。 


 本来であれば住み込みの工場で働くところを、相沢家の一人娘という事で特別視してもらっている。


 伯父は少し前に戦地に行った。


 父は毎日のように街中を駆け回り、母も婦人会で伯母さんと共に街の人たちを支えている。


 ならば私にできることは精一杯お国のために働くことだった。


 それ以外の選択肢など、なかった。






 場面が転換する。






 夜。疲れて寝静まった深夜。静寂を切り裂く音が町中に鳴り響く。何度目だろうか。空襲警報で起こされるのは。


 父と母と防空壕へ入る。


 けたたましく響く空襲警報の合間を縫って聞こえてくるエンジン音が耳につく。


 死神の音だ。


 私はそう思った。


 次第に音が近づいてくる。少しずつ、確実に。


 ……。


 音が上空をすぎ、次第に離れてゆく。


 それでも空手警報は鳴り響き続ける。






 場面が転換する。






 夢の中で死神の羽音を聞いた。


 地震かと思った。


 夢とうつつを彷徨っている最中に、それは舞い降りてきた。


 怒号なんて比にならない程の轟音。混じるのは枝分かれした炎が降り注ぐ音。そして、死神の足音だった。掻き消えるのは悲鳴。人の命。夢ではない。


 布団から飛び起きる。


 まだ我が家までは爆弾も火の手も来ていない。逸れている。いや――音のする方には、確かに工場の……私と同じくらいの子が働いていて、その多くが、実質住み込みで……。


 いつもは気が滅入りそうな空襲警報が鳴っていない。


「いや……そんな……」


 昔から見知った顔も、最近疎開してきて知った顔もそこにはいたはず。それが……既に……。


 悲しみは感じなかった。


 悲しみではなく、恐怖を感じた。


 死神の爆弾が、確実にこちらの方にも近づいてきていた。


 何も持たず慌てて外へ飛び出した。


 防空壕へ飛び込み、頑なに扉を閉ざした。




 少しして、扉を叩く音がした。


 母だ。私を呼んでいる。震える足がなかなか言うことを聞いてくれない。


「いま……今開けるから……!!」


 そう強く叫んで必死に扉に手をかける。だが扉は頑なに閉じて、開かなかった。


「嘘……いや、そんな……」


 震えが体中の力を奪っていくのを感じた。


 爆音がすぐ近くまで迫っていた。衝撃で壕全体が響き揺れる。


 気付けば扉の外に気配がない。


 なんとか震えを押さえ込み扉を開けた。


 飛び込んで来た光景は、地獄の業火だった。


 その中で理解した。


 今目の前で燃えているもの。すでに指先一つも動かなくなったそれが、先ほどまでそこにいたはずの母であることを。


 直後。私は吹き飛ばされ、衝撃と傷みが全身を襲った。






 場面が転換する。






 目を覚ます。日の光が差し込んできて、目を覚ました。


 何人かが防空壕に出入りしていた。


 ――助かった。


 そう思った。


 だが、再び扉は固く閉ざされた。






 場面が転換する。






 どれだけの時間が経っただろうか。


 一年か、二年か、三年か――


 暗闇の中で過ごした。お腹が減ることもなく、眠くなることもなく、出る事もできず、最後に助けを呼んだのはいつだっただろうか。最後に扉を叩いたのはいつだっただろうか……。


 何もできずただ地に伏した。






 場面が転換する。






 扉が開いた。


 どれだけの時間が経ったかわからない。


 ともかく扉が開き、人が数人立っている。


「あっ、あの……」


 いつ以来動かしていない足腰に鞭を振るい、私は彼らに声をかけた。


 だが、返事は帰ってこない。けれど、ようやく扉は開いた。


 私は外に出た。


 ……。


 そこに私の知っている町はなかった。


 更地になった家と、新しく建とうとしている家。私の知っている家はほとんど残っていない。そしてそれは、私の家も例外ではなく……。


 私は浦島太郎になってしまったのだろうか。


 そう思わずにはいられなかった。


 そして、扉の代わりに謎の青い光と衝撃と痛みが私を閉じ込めた。防空壕からほんの数歩しか動くことは叶わなかった。


 その日は紅葉も終わった晩秋の事だった。


 その夜は風が冷たかったので防空壕に戻って風をしのいだ。






 場面が転換する。






 ある日、作業服をきた男たちがゾロゾロとやってきた。


 よく分からない機械を使って、私のいた防空壕を埋めていった。


 やめてもらおうと何度も声をかけたが、誰も見向きもしてくれなかった。


 無視されているのとは違う。


 むしろ私に気づいていないような、そんな仕草だった。


 それは自然が身支度を終える初冬の事だった。


 私は寒さをしのぐ術を奪われ、凍える冬の夜を外で過ごした。


 寒さは感じた。


 寒さは苦痛だった。


 風邪を引くことは珍しくなかった。


 だが、どんなに極寒の夜でも凍え死ぬ事はなかった。

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