三十四話

 場面が転換する。






 これは――澪の、記憶?


 混濁した意識が、わずかに覚醒した気がした。


「その通りだ」


 四縁の声が頭に響く。


 いや、頭部という感覚は残っていなかったが、そのように感じられた。


「今、相沢澪の楔を解いた。その折に、あの子の記憶がお前にも流れ込んできたようだな」


 ――そうか。澪は解放されたのか。


 四縁の言葉で、深い安堵を覚える。


 よかった――これで――。






 場面が転換する。






 夕暮れまぶしい屋上で、俺が丹波のアイフォンを使っている。


 それを澪の視点から見ている。


 その視点からは何を見ているのか分からないが、丹波がこちらを描いているのをいちべつし、はにかみながらその横に腰を下ろした。


 ――ただ今こうして横に居られる。私はそれが嬉しい。


 そう感じていた。


 その心は安定していて、すでに俺の記憶が失われる事を覚悟し、受け入れ、そして今この瞬間の幸福を享受しようとしていた。




 丹波が絵を描き終わりその絵を受け取ると、私は顔がにやけるのを止められなかった。


 これまで翔君に描いてもらった事はあっても、翔君と一緒の絵画を描いて貰ったことはなかったからだ。


 ――もっと早く頼んでおけば良かったかな。


 そんな事を思いつつ、翔君に視線を向ける。


 まだ彼は私との別れについて受け止め切れていない様子だった。


 それでも良かった。


 私も翔君の年の頃は今のように達観できていなかった。


 私はこのまま時間が過ぎてもいい。


 そう覚悟を決めていた。


 ただせめて、この後の翔君の人生が私のせいで狂わないか、それが心配だった。


 だから思い残すことはないように、翔君のためにやってあげられることはないだろうか――と最近はずっとその事を考えている。




「ちょっと行かなくちゃ行けないところができたので、今日はこれで」


 翔君はいつもと違う表情で告げ、屋上を出て行った。


 ――なんだろう。


 嫌な予感がした。


「それなんですか?」


 私は丹波先生に返されたその機械について聞いてみた。


「新しい携帯電話だよ。画面が大きくてね、直接触って操作ができる優れものなんだよ⌇⌇」


 玩具を見せびらかす子供のように無邪気に丹波は教えてくれた。


「翔君はこれで今何してたんですか?」


「調べごとしてたらしいけど、見てみるかい?」


「はいっ!」


 なにかな⌇⌇と心を躍らせていた。


 もしかしたらプレゼントか、あるいはサプライズかも知れない――そんな考えが頭を過ぎったからだ。


「んー、何でこんなもの調べてたんだろう」


 丹波が履歴から見せてくれたページを見て、私は胸を抉られた気がした。


 ――供物。しんせんひとくう


 そして、土地神に――四縁に会ったと言っていた事が瞬間的に繋がった。




 私は思わず駆けだした。


 翔君を止めようと。


 階段を飛び降りた。


 昇降口を抜けた。


 グラウンドの脇を駆け、校門まで来た。


 だがすでに翔君の姿はなかった。






 視界が暗転する。






 深夜。


 だれもいない校舎の屋上で、私は力なく夜空を見上げていた。


 ――勘違いであってほしい。


 それだけが頭の中に廻り続けていた。


 ――きっとあれは勘違いで、翔君は明日も普通に登校してきて、今のこの馬鹿げた考えを笑い話にする。


 そうであってほしかった。




 雲の切れ間から満月が出てきた。


 月明かりが辺りを照らし出し、ふと気配を感じた。


 体を起こし気配のした方角へ視線を向けると、一人の男がたたずんでいた。


 その男は狐のお面を付け、御幣を手にし、そしてなにより屋上よりもさらに高い空中に佇んでいる。


 そしてその服装が、この学校の制服と同じである事に気付いた。


 その体格が、私のよく知っている人と変わらないことに気付いた。


 


 男が狐面を取ると、顔に朱色の紋様が浮かび上がっている。


 だがその容姿は間違いなく翔君のものだった。




「なんで……」


 どうして――そんな思いが頭の中を駆け巡った。


 これは夢で、悪夢で、覚めたらまだ残りの時間を翔君と過ごせる日々に戻る。  そうだと。そうであって欲しいと魂が訴えていた。




 黒野翔の体を持つ何者かは、空中から降りてくると私に近づいてくる。


「時間がない。始めるとしよう」


 その声は間違いなく翔君の声質だった。


 だがその口調は彼のものではない。


 そうすぐに理解できた。


「待って!」


 だから私は声を上げた。


「あなたは、何者なの?」


「名を、四縁という」


「四縁――あなたが?」


「今は、黒野翔の体に降りている」


「つまり、翔君の体を乗っ取ったの?」


「その言い回しには少し語弊があるだろう。こやつが儂を受け入れたのだ。そなたを助けるために」


「助ける……?」


「ああ」


「私を……?」


「ああ」


「ここから、抜け出せるの?」


「ああ」


 自然と涙が溢れてきた。


 六十年以上の積もり積もった感情が、一気に溢れてきた気がした。


 だが、その感情は、その涙はすぐにせき止められる。


「――翔君は。……翔君は、どうなるの?」


「肉体は残る。だが、その魂は失われるであろう」


 感涙は、一転して悲涙へと変異する。


「嘘――」


「真実だ。黒野翔はそなたを助けるため、己の命を引き換えにした」


 慟哭が夜空に流れる。


 止めどなく溢れてくる感情と涙を、私は押さえる事はできなかった。






 俺は心を痛めた。


 想像していたとはいえ、澪を深く傷つける選択をしたことに。


 慟哭はしばらく続いた。


 だが。


 だがこれでいい。


 これで澪は救われ――




「――それ、私も同じ事できますか?」


 澪は口を開く。


 涙は枯れ、その瞳には深く覚悟の色を浮かべて。


「『それ』とは、黒野翔が行った『己の命と引き換えに何かを成す』ことか?」


「そう」


 ――っ!


「私も同じように魂を捧げれば、翔君を助けることができますか?」


 ――やめろッ!


 俺は叫んだ。


 ――ダメだ! 澪は生きろッ!


 魂の叫びを上げた。


 だが声になることも伝わることもなく、四縁の降りた俺の体が答える。


「まずはそなたの解放が必要だ。この地に囚われたままでは、その魂を用いる事は不可能だ」


 だが――


「解放された魂であれば、その力を取り込み黒野翔を助けてやれる可能性もあるだろう。保証はできぬが」


 ――待て!


「分かった。私の魂を使って」


 ――待ってくれ!


「それは、そなたが代わりに消滅すると分かった上での決意か?」


「もちろん」


 ――ダメだ待ってくれ!


「その場合、黒野翔とは永遠の別れとなる。黄泉においてもだ」


「それでも。お願いします」


 澪の言葉は、即答だった。


「良いであろう。かの者は――黒野翔は『どのような結末になっても受け入れる』と言っていた。この結末もまた、受け入れるであろう」


 ――ダメだやめてくれ……。


 ――頼む……。


 自分のために命を投げ捨てるなど、やって欲しくはなかった。


 だが、それは俺が言えた義理ではない。


 分かっている。


 わがままだというのは分かっている。


 その上で、それでも受け入れられなかった。


「ただし、上手くいく保証はできぬ。たとえ黒野翔の蘇生が上手くいかなくとも、その結末を受け入れるがいい」


「はい」


 ――頼む、待ってくれ。やめてくれ。


 俺は失意の中でうなだれるが、その光景を止めることはできなかった。




 俺は、後悔した。


 後悔という言葉では言い表せないほどの、自責の念を抱いた。


 親が死んだ時、妹が死んだとき、俺はどうした。


 絶望と悲しみと嫌悪の狭間で、俺は何を感じた?


 大切な人が死ぬ辛さは、何より自分が解っていたはずだ。


 なのに。


 なのに、俺は――。


 俺は本当に馬鹿だ。


 大馬鹿野郎だ。




「では始めよう」


 四縁がそう告げ、光景はそこで途切れた。








 これで、澪は俺の為に死ぬというのか。


 俺は、失うのか。


 家族を失うのか。


 最愛の人を失うのか。


 俺の身勝手な行動の為に。


 また。














 視界が、暗転する。












 何も感じない。




 何も存在しない。




 何も分からない。







 ただ在るのは、虚無だけだった。


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