二十六話

 その日の放課後になり、澪と合流し屋上へ向かう。


「それで、確認したい事って何ですか?」


「澪の父親の名前について聞いていいか?」


 なぜそのような事を聞くのか分からない様子で首を傾げるが、それでも澪はすぐに答えてくれる。


「哲次郎ですよ」


「……っ!」


「ちなみに母は瑞代みずよです」


「じゃあ、瑞緒子という名前は知っているか?」


 目を丸くし言葉を詰まらせるが、遠い過去に想いを馳せるように続ける。


「……そういえば、言っていませんでしたね。『澪』というのは言ってしまえば戒名かいみょうです。まぁうちは仏教ではなかったので偽名と言った方が正しいかもしれません。それで、瑞緒子と言うのが、本名です」


「――なぜ、違う名前を?」


げんかつぎ――と言うのが一番正しいと思います」


「――と言うと?」


「澪という文字は『川や海で船が航行するときの水路』という意味があるんです。だから、私も、私自身が『進むべき順路が分からなくなってしまった人を導く』という贖罪の意味を込めて、そう名乗るようにしたんです。もう、四十年くらい前の話ですが」


「なるほど。それで戒名か」


 おそらく澪にとって「澪」という名称は、偽名とは違う。


 確かに自ら違う名を名乗った。


 だが、俺が手紙で澪の事を知ったとき、確かにその名前は消えていた。


 本名とはまったく無関係の名前であれば、あの文字は消えることなく単に澪との関連付けが忘れられるだけだからだ。


 すなわち、この澪を閉じ込める元凶となっている「何か」にとっては「澪」という名前もまた、彼女の正当な名前だと認識している。


「まさか、瑞緒子の方を翔君から聞くとは思ってもみませんでした。どこで聞いたんですか?」


「今日、偶然知り合った老人に聞いたんだ。名前は大沢――確か大沢勇太、だったかな」


「大沢先生に、会ったんですか!?」


「知っているのか? ――そういえば、ここで教鞭を執っていたと」


「はい。この学校ができてから――途中で難度も転属がありましたが、長い間数学の教師をしてました。もともと父の後輩で旧知の仲だったと聞いています。それに――」


「それに?」


「大沢さんも、その昔、今の翔君と同じように私をなんとかして助けようとしてくれた方です」


「そう、なのか?」


「はい。その頃はまだ、戦後の間もない頃でしたし、大沢さんは父と交流が深かったようなので、私を見るなりすぐに気付いてくれて――そして行く年も協力してくれました。大沢さんのおかげで分かったことも、たくさんあります」


「そう、だったんだな」


「まだご存命だったんですね……。私より、確か五歳年上だったので、もうだいぶ年だと思うのですが――」


 五歳年上なら、今は八十五歳くらいか。その割にはずいぶんと精力旺盛だ。


「今回、哲次郎という人物が澪の父親かどうか確認したかった。もしかしたら、そこから新しい可能性が見えるかと思ったから。でも、大沢さんがすでに同じような事をやっているのなら……可能性は低いかもしれないな」


「そう……ですね。今、私も思いつく限りでも……その頃の出来事でヒントになりそうなことは思いつかないです……」


 ただ、澪は懐かしさを噛みしめるように微笑んだ。


「翔君からそんな昔の話が出てくるとは思ってもみませんでしたっ」


 その笑顔に罪悪感を覚え、目をそらしながら謝る。


「悪い。あまり昔の事は思い出したくないよな」


 澪は距離を詰めてくると俺の手を取り、にこやかに否定した。


「そんな事はありませんよ。私の過去を踏みにじるために聞いているわけではないと知っています。私のために、私の力になりたくて口にしてくれている言葉だって、私は知っています」


「ありがとう。何としてでも、俺はここから君を――」


「はいっ! ただ、あまり気負いすぎないでください。もちろん翔君のためもありますけど、焦って視野を狭くすると判断を誤ることがよくあります」


「ああ、そうだな」


 すると澪は目を閉じて期待した面持ちでこちらの動きを待つ。


 だがこちらからの反応がないとみると、まったく――とその意図を教えてくれる。


「ありがとうのチューをお願いしますっ」


「――まったく」




 その日も特に何の成果も上げられずに下校の時間が迫ってくる。


 再び屋上に上がってきたとき、澪から会話を切り出した。


「そういえば翔君――」


「――ん?」


「気になってる事があるんだけど、聞いても良いかな?」


「うん」


「翔君の、家族について、なんだけど……なんとなく、触れない方がいいのかな――って思ってたんだけど、そのままの方が、いいかな?」


 澪からそんな言葉が出るとは思わず、どう返すべきかまとまらずろうばいする。


 だが澪の家族について聞いたのだから、澪も俺の家族について聞いてみたいと思ったのは何ら不思議ではないか。


「――澪は、知りたいのか?」


「好きになった人のご家族がどんな方なのかは、やっぱり気になっちゃいますね」


「あまり、楽しい話じゃない」


 予め察していたのか、優しい口調で帰ってくる。


「はい。でも、翔君は私の大変なことを、一緒にたくさん背負ってくれました。だから――出過ぎたまねですが、私も翔君が背負い込んでいるものを背負ってあげられるようになりたいって――そう、思っています」


 そう言われては、話さないわけにはいかないだろう。


 だれかれ構わず話す内容ではないが、澪にならいい――そう想い、重たい口を開いた。


「父は、とても愉快な人だった。底抜けに明るくて、いつも周りを笑顔にしていた。


母はいつも優しくてお淑やかだったけど、怒ったときは誰よりも怖かった。一歳年下の妹は、とても聡明で――」


 ああダメだ――内心ではそんな感情が芽生え、すでに先行きは怪しかった。


「けど、俺が小学五年生の休日に、交通事故で死んでしまった。俺が――。俺がせがまなければこんなことにはならなかった。家を出るときに俺がもたつかなければ回避できた……。事故には遭わなかった……」


 俺の苦悶の表情を見てか、澪は座っている俺の前で腰を下ろし、手を取り優しく包み込む。


「事故の相手はどっかの運送会社で、ドライバーの居眠り運転だった。だから慰謝料と、あと両親の保険金が入ってきた。けど小学生にとってそんな事よりも両親を失った事だけで頭はいっぱいで……。そんな俺たちの事を、伯父と伯母が引き取ってくれた。けど今にして思えば、見ていたのは俺たちじゃなくて保険金の方だった」


 今となっては怒りよりも吐き気や虚しさの方が強い。


「はじめこそ優しく接してきた。ただ、なんとかしてお金を使わせようとしてきた。不動産を巡ってみたり、車の展示場に足しげく通ったり。今ならその露骨さが分かる。けどその頃の俺はずっと塞ぎ込んだままだった。何に対しても興味がわかなかった。だから買う気が起きなかっただけだ。けど、妹は違った。あいつは聡明で、その企みに気付いていたんだと思う。だからきっぱりと断ったのだと思う」


 その時に俺が先にノーを突きつけておけば――そう考える自分がいたが、それは飲み込んだ。


「そしたら奴らはやり方を変えてきた。力ずくで屈服させて従わせようと――早い話が虐待だ」


 ああ、本当に反吐が出る。


 下を向いていたらそのままむせかえりそうだったので、天を仰いだ。


「俺はそれまで野球をしていたから、少しは力もあった。それに聡明な妹の方が邪魔だったみたいで、奴らは妹を集中的に狙いやがった。それに気付いて護ろうとしたけど、子供一人の力ではどうすることもできなかったし、俺の見えないところで功名に手を出していたようだ。――今思えば、他の大人に助けを求めるべきだった。けど、子供だった俺はそこまで頭が回らなかった」


 全て自分が悪いんだ。


 自分が無力で、無知で、無能だから起こったことだ。


「結局、妹は六年生の時に、学校から飛び降りて自殺した」


「――っ」


「後から知ったのは、学校でもいじめられてたらしい。そして、いじめられるよう仕向けたのが伯母だった」


「ごめんなさい」


「――ん?」


「私、嫌な事を思い出させてしまいましたよね。ここから飛び降りたとき」


「――いや……」


 思い出していないと言えば嘘になるか。


「その時俺は、とにかく伯父と伯母が許せなくて、思いっきり手を出した。何度も殴った。けどそうしたら今度は、俺が警察に連れて行かれた」


 ひどい――澪の呟きがかすかに耳に届いた。


「その時俺は、とにかく理不尽だと思っていた。虐待はお咎めなしで、こっちは手を上げたらすぐに捕まえられた。だからその時は警察が嫌いだったし、言うことにちゃんと取り合わなかった」


 ――今思えば、そういうところが浅はかで、薄汚い大人のつけいる隙になっていたんだろう。


「だからもう、自暴自棄にこのまま施設でもどこでも行ってしまえばいいと思っていた。でも結局、少しして伯父と伯母は訴えを取り下げた。『短期間で家族を全員失って、冷静でいられなかっただけ』『これは家族間の問題』とかなんとか言って。とどのつまり、俺が家庭裁判所で余計なことを喋ったり、施設に行ったら保険金が手に入らなくなると思って取り下げたんだ」


 ――ああ、本当に反吐が出る。


「釈放されてから、直接的な虐待はなくなった。その代わりに、本当に、糞みたいな事を言ってきた」


 その言葉を自分が口にしたくはなかったが、それでも歯ぎしりしながら吐き出した。


「妹の遺品……形見を、『お前の持ってるお金保険金で買わせてやる』ってな」


 ――ああ、本当に反吐が出る。


「今にして思えば相続権的には奴らものじゃ無かったけど、当時の俺は――いや、たぶん今も法律的な事は分からなくて……。それに、こんな不幸を呼び寄せるお金なんていらないと思った。だから俺は、俺の持っていた金を全てくれてやった」


 ――そうしたら、あいつらは大喜びで関わってこなくなった。


「生きている意味なんてないと思った。俺も、妹の後を追うべきだって。本気でそう思っていた。思っていたはずなのに、いざ実行に移そうと思うと、怖くなってどうしても無理だった。俺はどうしようもない臆病者で、愚かで――」


 握った手を離すと、ゆっくりと同じ目線の高さで抱きついてきて耳元で囁いた。


「でも、その時死ななかったからこそ、私は翔君と出会えました」


 澪の言葉は深く、深く体の奥底に浸透する。


 そして体から心に達し、深く凝り固まった深層を揺らす。


 だからだろう。俺の視界が涙で歪んだのは。


「生きててくれてありがとう。――とても、辛かったよね」


 澪の慈愛に満ちた言葉はさらに俺の心を揺らし、涙腺は意思による制御を失った。


 俺は澪の腕に引き寄せられると、優しく包み込まれるように抱かれる。


 まるでそれは亡き両親のような暖かみと安らぎを覚え、彼女の制服の胸元をとめどなく濡らした。


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