二十五話「恐怖」

 登校後、学校の図書室に向かった。当時の、昭和二十年の記録が何かないかと思ってのことだ。だが学校の図書室には、日本史についての本ばかりで、地元の歴史について触れている本がなかった。

 俺は昼休みから早退し、市立図書館に足を運んでみる。色々と当時の資料を見てまわるが、やはり特にこれといって見当たらない。

 そもそも、何を探しているか曖昧な上に、総当りなので時間ばかりが過ぎてゆく。

 夕暮れ前、少し離れたところにある地元の歴史資料館に足を運んでみたが、今のところ有益な情報は何もない。

「何か気になることはありますか?」

 話しかけてきたのは資料館の従業員。一応公的な施設らしいが、客の姿もなく暇をもてあましているのか向こうから声をかけてくる。

「この近くに高校ありますよね? 丘の上にある。あそこにかつて防空壕があったらしいんですが、詳しく分かりますか?」

「あー、ちょっと待ってくださいね」

 営業スマイルなのか、暇を消費できてうれしいのかは定かではないが、従業員はにこやかに奥へ消えていった。

「お待たせしました。確かにありますね。でもそんなに資料は残されてないみたいです」

 従業員が戻ってきたのでそちらに視線を移しなおすと、相当に古い資料書のようなものを手にして。

「あそこは、元は私有地だったらしくて、そこに住んでいた方が作られた防空壕のようですね。記録によれば、浅い洞穴があったようで、そこを防空壕代わりに使っていたようですね」

 そう解説してくれる横に行き、俺も資料を覗き込んだ。

「七月の二十七日深夜から翌早朝にかけて、この地区ははじめて空襲に襲われています。空襲後、ここに避難していたと思われる方一名が死体で見つかったとの記録は残っていますね」

 澪か――そう直感が言っていた。

「そのことについて、もう少し詳しく分かりませんか?」

「そうですねぇ、これ以上は書いてないですね。他の資料も探してきましょう」

 そう言い、俺は再び従業員を待った。だが、なにぶん個人で使われていたものだから――と、それ以上の進展は結局見られなかった。

 俺の感情は、落胆と焦りだけが頭の中を跋扈する。

 これ以上の情報はないものか。この後どうするか。などと考えていると、ふと目に留まったのは狐の姿を象った石像だった。

 石を彫って作られたらしいその像は、紅い染料で目が描かれてある。尾は四本だろうか。左右に二本ずつある。

 今朝の光景が頭をよぎる。

 考える前に体が動いていた。

 プレートに書かれた説明に目を通すと、戦前から戦中にかけてこの地区一帯で祀られていた稲荷神だと書いてあった。

 俺は視線を落とす。死んでも死にきれない魂がこの世にあって、神はいないのだろうかと。もしいるなら救ってほしいと思う。

 だが、神なんているはずがない。

 簡単に神が問題を解決してくれるのであれば、何の苦労もありはしない。

「おや、この石像が気に入りましたかな?」

 振り返ると、かなり年のいったお爺さんが声をかけてきた。齢八十を超えているだろうか。一応に生えている髪は真っ白で、髭も同色だ。皮膚はシワだらけで、体は老体を象徴するかのような猫背だった。

「あの――」

 俺が口を開く前に、その老人は既に喋りだしていた。

「この石像はの、四縁と言って、それはもうたいそうな毛並みをこしらえていたそうな。その金色で優雅な狐の姿をした神様で、かつてこの地を豊かにしてくれた。人々はそれを忘れないために、この石像をたくさん作って町中に置いたのじゃ」

 四縁という名前は、今朝のお爺さんの話と符合した。従業員に聞いてみようかと思っていたが、当時を知るこの老人の話を聞いてみる。

「もっとも稲荷神と言っても農作物や商売を司る訳ではない。無論そのような言い伝えももあるにはあるがの。今では主に、縁結びの神、縁起直しの神、芳縁の神、合縁奇縁の神。四つの縁(えにし)を司るとされておる。」

 ――間違いない。今朝出会った老人と同じだ。

「人の縁は異なもの味なものじゃ。引きとめてすまんの、若いの。なにぶん、こんな老いぼれの話に聞く耳を持ってくれる者が少なくなったものでの。じゃが、これも何かの縁じゃと、ワシは思いたくての」

「いえ――」

 この人も、きっと戦争を知っているに違いない。もしかしたら思い返したくない記憶かもしれない。だが、俺は少しずつ口を開く。

「ご老人は、よくここへ?」

「うむ、毎日の日課じゃ」

「毎日?」

「靖国で会おうと戦友とは交わしたものじゃが、毎日参拝することは難しい。この年になれば遠出をすることもままならなくての。ここに来れば、かつての戦友に少しでも会える気がしての」

 老人の瞳はどこかうつろで、遠くを見据えているような気がした。

「何せ、最近はこのような場所に人が来ることはほとんどなくてのぉ。若いのが来るのを見かけるのなんて、何年ぶりか」

 だから、ついつい声をかけてみたくなったのだと言う。

「戦争など知らぬほうがよい」

「ご老人、お尋ねしても?」

「ワシでよければの」

「ご老人は、昔からこの町に住んでらしたんですか?」

「生まれも育ちも、そうだの」

「かつてこの街が空襲を受けた時の事を調べているのですが、もしご存知のことがあれば――」

 俺の言葉を聞いて、即座に老人は残念そうな顔をする。

「すまんの。ワシは台湾にいた故。その時のことはわからないの」

「そう、ですか」

 だが、落ち込む暇はない。

「差し障りなければお聞きしたいのですが、当時、この街に相沢という苗字の人がいた記憶はございませんか?」

 その言葉に、老人は狼狽したように目を丸くする。

「ああ、知っている。よく知っているとも」

「相沢澪――と言う人に心当たりは?」

「ミオ――はて。……瑞緒子と言う人ならおったの」

 まただ。また、澪ではなく瑞緒子と言う名だ。

「では、哲次郎という方は――」

「知っているとも! 全くもって憎らしい男じゃ」

「憎らしい?」

「そうとも! 学生時代に、ワシのほうが二つも年上だったのに、喧嘩で一度も勝てんかった」

 喧嘩が強い――再び符合する。だが、澪と苗字が同じだけで、どうつなげる?

「その上あんな麗しい人を妻にめとりおって……」

 ふと、この老人に聞いてみたい疑問が頭をよぎり、俺はポケットを探る。

 幸いにして、ルーズリーフが見つかり、目的のものが見つかった。

「失礼でなければ――このような容姿に心当たりはありませんか?」

 ルーズリーフに描かれたのは澪のバストアップのスケッチだった。

 ダメ元の案だった。だが、お爺さんは目を丸くしていた。

「おぉ……。これは……。瑞緒子ちゃんじゃ……。よく似ておる。特に、目元が、瑞代さんにそっくりだ」

 その言葉で、瑞緒子イコール澪と言う仮説が立った。

「しかし、若いの、どうしてこんなものを――」

「親戚の持ち物でして。興味本位で調べてみているんです」

 方便をつき、当時の状況を探る。

「差し支えなければ、どんな女性だったか聞かせてくれませんか?」

 そう言うと、少しばつが悪い顔をするが、すぐに口を開き始めた。

「長く戦地へ赴いたのでワシの知る限りで話すが、この子は哲次郎と瑞代さんの子だ。母親の瑞代さんと同じで、清楚で、淑やかで、ちょっと体は弱そうだったの。勉学が特別出来たというわけではないが、感の良い子だったの。それでいて、哲次郎のように素直で実直だった」

「それで、戦争後は……」

「空襲で亡くなったの――まだ色も知らぬ年端のいかない子だった。あんたとそれほど年も変わらんだろう。戦争とは、惨いの……」

 その後も、色々と当時のことを聞いた。

 お爺さんは、俺が知ることはできない当時のことや、戦争のことを語ってくれた。

 澪の生きた時代は、今とはとてつもなく違っていて、その隔たりに心が萎縮してしまいそうだった。結局、俺はなにも澪の気持ちなんて解っていないのかもしれない。いや、解っていると思うほうが自惚れだ。

「では若いの、また縁があったらな」

「はい。ありがとうございました」

 話を終えると、そう老人は満足そうに笑みを浮かべながら去っていった。

 俺は一呼吸おき、石像に再び目をやった。

「四縁――あんたは、いったい何者なんだ? 澪のことを、知っているんだろ? ……。なぁ……本当に、神様なのか? もしも神様なら――」

 ――澪を何とかしてやってくれ。

『これもまた縁と呼ぶべきか――』

 不意に声が聞こえた。今朝聞いた例の声だ。

『おぬしも頑固な男だな。止めておけと言っておるだろう』

「……本当に、神……なのか?」

 驚くべきところなのだろう。だが、その余裕すら今はない。神でも仏でも何でもいい。澪を救う手立てがあるのならばそれに縋るしかない。

『そうだな。神と、呼ぶ者もいるな』

「じゃあ、頼む――澪を……澪を助けてやってくれ」

『それは出来ない』

「なんで、だよ」

『力を失い、朽ち果てようとしている神に、いったい何が出来ると言うのか』

 その言葉を理解できた。だが、とっさに理解したくないと頭が乱雑に言葉をかき混ぜる。

『これも、時代の移り変わりだ』

「いったい――」

『人々が神を必要としなくなった。神より、科学を信じる時代となってしまったのだよ。ならば神は力を失い消え逝くをただ待つだけの存在だ。特に、儂のように田舎者の神はな』

 だからって――何もしないというのか……?

『小僧、よく聞け。相沢澪という地縛霊の根源は儂だ』

「地縛霊……原因が……」

『儂の力が、否応なく彼女を縛っている』

「……じゃあ、なんとか出来るのか?」

『無理だ。否応がない。否応なく、力の一部が彼女に流れていく』

「じゃ、じゃあ、どうすれば――」

『簡単なことだ。儂が朽ち消え果てれば、力の根源はなくなる』

 ――あと二十年としないうちに消え去る。

 四縁の言葉が頭をよぎる。

『神の力とは主に信仰心だ。信仰が薄れれば、神の力も弱くなり、信仰者がいなくなれば、神は消える』

「じゃあ、信仰者って……」

『今おぬしが話していたような老人だよ。彼らは律儀に、今でも信仰心を持っている。だが、皆年老いた。数十年とせずに、儂に対する信仰は途絶えるだろう。そうすれば――』

 ――そうすれば、澪は成仏できる?

『ああ、成仏できるだろう。だから、残りの時間を少しでも苦しまないようにしてやれ。だからこそ、救おうなどとするな。止めておけ。成仏するまで、彼女はずっと背負うことになるのだぞ』

 理解したくないと心が叫んでいた。

 だが、頭は何故か冷静にこの神の言葉を理解していた。

 何も言い返す言葉が思いつかない。

 結局俺はただの一人の、ちっぽけな人間で、幽霊でも、神でもない。なんの力もない、無力な人間だ。

「俺は――」

『当たり前のような、なんでもない日々の相手をしてやれ。それが一番の救いだ』

 自身の歯ぎしりが、よく聞こえた。

 遮るように、それに――と四縁は言葉を和らげた。

『おぬしまで囚われることはない。儂もいろんな人間を見てきたが、死者に固執した輩の末路は悲惨だ。おぬしは生者であり、彼女は死者だ。これは決して揺るがぬ現実。死者は決して生者に戻ることはない。それが理。生者が死者に干渉するなど……ましてや救いたいなど、愚の骨頂だ』

 歯がゆさのあまり、歯ぎしりが大きくなる。だが、諦めたくはない。諦めるわけには、いかない。俺が諦めてしまっては……

『それでも尚――』

 神は唸るような酷く低い声で静寂を破る。

『そこまでして、彼女を救いたいようだな』

「当たり前だ。澪は俺の家族だ。もう、失わせはしない」

 その答えに、石像はため息にも似た笑いを発した。

「な、何がおかしい」

『頑固者は嫌いだ。言い出したら全く話に耳をかそうとしない。稀におぬしのような輩が現れる。……これだから、人間が嫌いになれない……』

 石像の発する笑いは、自虐にも似た代物だった。

『相沢澪に伝えろ』

 声のトーンを上向けながら、そんな言葉を発する。

 もしかしたらこの石像は、俺のことを試していたのだろうか。そんな疑いすら抱くほど、口調の切り替えが早かった。

『勘違いをしている――と』

 その口調に圧倒されていると、石像は間髪をいれずに言葉を続けた。

『罪があるのは相沢澪ではない。彼女は、この地に囚われているのは生前の罪で、償えていないからこそ囚われているのだと、そう思っている』

 後者は澪の言っていた台詞と同じで、前者はそれを否定するものだった。

「違う、のか?」

『相沢澪に抱える罪など、ありはしない』

 俺は澪の言葉を思い出す。

「だが、あいつは言っていた。親を――」

 俺の言葉を遮るように、否定する言葉を放つ。

『それは違う。彼女の母親――名を相沢瑞代と言う。瑞代は、自分の命よりも娘の澪の命を選んだ。壕に澪が居ることを確認すると、自ら扉を開けさせないように立ちふさがったのだ。すでに火の手は逃げ道も空気も奪っていた。わずかでも、澪を生かそうとして』

「じゃあ腰が抜けて、扉が開かなかったというのは……まさか」

『腰が抜けて開けられなかったのではない。澪助けるために、身を賭して守ろうとしていたのだ』

「……その時父親もいたのか?」

『いや、哲はその場にはいなかった。爆弾がすぐ近くまで降り注いでいた。避難が間に合わないと悟った彼は瑞代に、澪を優先しろと防空壕まで見に行かせたのだ。そのまま避難させるつもりで。自分は自力でなんとかする、と言ってな。それが、澪の両親が命を落とすまでの真実だ』

 かいつまんで話をする四縁に対し、俺は呆気にとられていた。いや、想像だに出来ず、どう受け止めていいか分からない。

『知らぬ方がいいこともある』

 俺の気持ちを悟ってか、神はそう続けた。

『人が蒸発する光景など、苦しみ悶え炭になっていく様など、知らぬに越したことはない』

 語るその口調は、とても悲しげで、思わず俺は視線を落とす。

「知る必要はない。だがこの真実を、届けてやれ」

「……分かった。伝えておく」

 せめて自分の出来ることを、自分に訪れた機会だけは、決して逃してはならない気がした。

「二つ、教えてくれ」

『なんだ?』

 どこまで俺の心を読んでいるかは知らないが、神は応じてくれた。

「澪に、直接言ってやれないのか?」

 かつて、俺に声をかけたことがあるはずだ。あの時は酷いノイズがあったが、それでも言葉として聞きとることはできた。

『それほどの力も残っておらんのだよ』

 そう、まず釈明する。

「だが、俺には声を――」

『距離の問題だ。学校までは無理だが、おぬしの住まいと、儂のいるこの場所は、学校よりも圧倒的に近い』

 そう、弁明する。

『見渡すだけならば、たいした力はいらぬ。例えるなら、遠山を見ることは容易だろう。あるいは空になびく雲を見ることは容易だろう。だが、そこまで聞こえる声で話すとなるときわめて困難だ。その場に向かうこともとてつもなく大変で、途方もなく労力がいるだろう。寝たきりの老人に遠山まで歩いて行かせ山を登れと言っているほど、難しい問題だ』

 なんとも理不尽な状況だ。見ることは叶っても、何も出来ない。

「だがあんたは六十年以上も、何もしてこなかった。何かできたはずだ」

『そうだ。戦争が終わればかつてのように人々が戻り、信仰が戻り、儂の力も戻るであろうと、安易な予測をしてしまった儂の失態だ』

 神の力の根源を知っているか? と、石像は問いかけてくる。

「信仰――か」

『嗚呼。人々の神を――否、土地や自然の恵みを敬い畏れ、祀る。人が求めるからこそ、そこに神が生まれ、育つ。または神となりえる存在が其処に居つく』

 それが、我々の真理だと、石像は語る。

『人が求めるから、神がいる。神とは、人が生きる為に生み出した。人間にとって都合のよい象徴なのだよ。人々の願いから神が生まれ信仰心と人々の魂から成長する。物の怪や妖かしもそうだ。人の恐怖から生まれ、畏れや恐怖心、魂を喰らうことで成長していく。両者の根源を辿れば行きつくのは同じところだ。故に神は他の動物を差し置いてでも人間に加担しがちであり、物の怪は人を好んで祟る』

 忘れされるというのは寂しい――老人の言葉が頭をよぎった。まさに、四縁の言葉がそういった雰囲気をまとっていたためだ。

『あの戦争で、この国は変わった。八百万と言わず居たはずの、儂のような小さな神々は、めっぽう減った。神だけでなく、妖かしや物の怪も例外なく駆逐されていったよ。人は森を切り開き、開拓し、文明を発達させた。土地が肥えるよう願う事も、明日の天気を祈ることもなくなり、今まで神が人に与えてきたものの多くが文明の利器で事足りてしまう』

 その言葉は、妙にか弱く思えた。

『神などいない。そんな無神論を唱える者は多い。……いや、神がいるかどうかなんて関心がない、考えたことすらない輩も増えてきた。そんな中、廃れた信仰が蘇る筈もない。ならば儂に何ができる? 確かに、現代に至る予測を出来なかった儂の失態だ。だが、過去を悔いても、決して戻れはせぬ。それは人間も神も同じだ』

 俺はどう言葉を出していいかわからなかった。

「すまない」

 気付けば、そんな言葉を発していた。

 浅はかなことを聞いたことへの言葉だったのか、無神論者と言っても過言ではない生活を送ってきたことへの謝罪の念だったのか、それは、自分自身でもよくわからなかった。

『だから相沢澪には、せめて真実を教えてやれ。それが今出来る唯一の救いだ』

「……分かった」

 俺は小さく頷いた。

『もうひとつ、聞きたいことがあるのだろう?』

「瑞緒子――と言う人物だが――」

 その問いに、ああそのことか――と、思わせぶりに言葉を発する。

『澪の本名は、相沢瑞緒子だ。だが、彼女自身が、途中で澪と名乗り始めたのだよ』

「自分で?」

『そう、自分でだ。澪標(みおつくし)という言葉を知っているか?』

「みおつくし?」

『航行する船に、通りやすい水路などを知らせるために立てた杭のことだ。杭を標として、船を導く』

 聞いたことはなかった。

『彼女にとって船とは、周りの人のことだ』

 聞いたことはなかったが、なんとなく、理解できた。

『船は、浅瀬にきてしまうと座礁してしまう。故に、船は常に深い場所を通らねばならない。だが、時折、迷ってしまう船がある。どこが浅瀬か、どこが水路か、分からないでいる船がいる。そんな船を導くのが澪標。人生という船旅で、そんな船を見つけては知らせる。ここを通ることができるぞ――と』

 澪は、確か言っていた。自分のことを忘れ去っても、自分がきっかけで友達ができれば、その関係は忘れない、と。たとえ、きっかけが忘れされれたとしても。

『自分がその標に、そして水路そのものであると、そうありたいと思っている。澪標の杭とは、自身の罪の意識に対する悔いだ。そして、みおつくしとは、身を尽くすとも字をあてはめることができる。身を尽くすことによって、少しでも罪を清算しようと。そして、自分はもう死んでいるのだと自分に言い聞かせるための、戒名代わりとして名乗り始めたのだ』

 あの澪が……普段は明るくて、無邪気で、ドジばかりのあの澪が。名前ひとつ取っても、これほど重いものを背負っているのかと。

 それは裏を返せば、俺の覚悟の足りなさを物語っているのだろう。

 本当に、俺は澪のことを救おうと覚悟を決めていたのか?

 ――くそ!!

 反吐が出るほど自分を殴りつけてやりたかった。

 なんと短絡的なまでに、澪を救うなど口にしたものだ。

 本当に、自分自身の無能さに嫌気が指す。

 神はそんな俺を諭すかのように柔らかい口調で言葉を綴る。

『気に病むことはない。お前に出来ることはせめて、彼女の重荷を、少しでも軽くしてやることだけだ。いや、ここまでたどり着いた者などお前が初めてだ。お前にしか出来ないことだ』

 そして――

『居るべき場所へ帰れ。帰って、生者として今を生きろ』



 本当に、俺はバカだ。

 無知だ。

 無能だ。

 無力だ。

 何も変わってなどいない。

 あの頃と、何も。

「くそッ」

 吐き捨てるように口にする怒号は、間違いなく悔しさから来たものだった。



 自室に戻る。

 俺は、何もやる気が起きず、ただただ、ベッドに寄りかかるように座っていた。

 日が傾き、月明かりが差し込み始める。

 俺には何もできない。

 俺には選択の余地などない。

 俺には……。

 俺がまた忘れてしまえば、澪はどれほど悲しむだろうか。

 自分の名を偽ってまで、その覚悟を刻んだ。

 それすらも犠牲にして、澪は今俺といる。

 単なる今までの繰り返しとは違う。必要以上に深入りしてしまった澪は、いったい後どれだけ悲しまなければならないのか。

 分からない。

 だがそれだけではない。

 ――俺も、昔みたいに戻るのか?

 誰も信じられず、受け入れられず。ただ独りで人生を浪費する、惰性の日々に。

 そのことが脳裏によぎった時、俺は身の毛もよだつほど背筋が凍った。

 怖い。

 本気で、そう思えた。

 独りが、こんなに怖いものだと、初めて自覚した。

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