二十二話
さらに一週間が経過しようとしていた。
今のところ澪を救うための手掛かりはまったくない。
「じゃあ、また明日」
西日を背に、澪が小さく手を振りながら校門で立ち止まる。
ただの挨拶。
だが、それがあと何回交わせるというのか――。
その事を考えると、歯痒い思いが心の奥底に
敷居を跨ぐ。
声はあれ以降聞こえることはなく、何か雑音を聞き間違っただけだろうと結論づけた。
離れ家に戻っていると、母屋から出てきた男と鉢合わせする。
「おい」
そんな言葉をかけてきたが、俺は無視して離れ家に向かった。
背後ではわざわざ俺に聞こえるよう舌打ちをしていたが、それも無視した。
夢とは違う感じがした。
夢のようで、夢ではないこの場所に、俺は立っていた。
景色はない。
ただ、闇色に染まった世界。
そこに黄金色に光る箇所があった。
俺は恐る恐る近づいてみる。
近づくに連れ、光の塊は造形が見て取れるようになる。
「澪!!」
光の中にいたのは澪だった。すぐに駆け寄り手を伸ばす。
だが光に触れたか触れないかほどの所で、光は急速に霧散し始めた。
「これ以上の深入りは止めておけ。おぬし自身の為にもな」
そう低い声が聞こえ、光は消失した。
――時間がもったいない。
翌日、授業を受けていてそう思った。
この間にも、刻一刻とタイムリミットは迫ってきている。
それなのに悠長に授業を受けるのは、時間を無駄にしている事に思えてならなかった。
「――先生、進路について相談があります」
その日の昼休み、進路指導の教師を捕まえ、そう持ちかける。
――本気で東大を目指したいと思いまして。
そう告げたときの教師の喰いつきは尋常ではなかった。
ただ、俺の希望を口にすると、眉をひそめる。
なにせ、教室で一律に授業を受けるのは時間の無駄。教室外で個別に自習させてほしい――という内容だったからだ。
画一的な方針を是とする高校にて、そういう枠の外に出る行為は、それだけで評価を下げる。
それでも、これまで培ってきた――いや、猫を被り「教師にとっての良い生徒像」に徹してきたこともあって、すぐにダメだと言えない様子だ。
正確にはそういう意図を含ませた言葉を言ってきたが、こちらの意見に対してどう説得するか悩ましいようだ。
なにせここでむげに否定して受験のやる気を失えば、進路指導の教師にとっては悩みのタネが残り、かといって認めれば他の生徒に示しがつかない。
「確か、教頭先生が力を入れていましたよね。『今年こそは東大合格者を』って」
その一言が大きかったのか、生徒指導の教師は教頭を呼んできた。
「しかしなぁ――」
教頭もはじめはそう渋っていたが、本人のやる気が出たうちに試しにやってみて、考査や模試で成績が伸びないようだったら戻すと言う事で、概ね合意を得られた。
ただし、自習するのであれば、誰か教師が監督できる状況でのみ――という制約がついた。
「そういうわけなんで、お願いできませんか?」
美術室にて、俺は丹波にお願いする。
「うーん……」
自習における監督を丹波にしてもらいたかったからだ。
「まぁ、僕としては構わないんだけど、他のクラスが美術の授業してる時はどうする気だい?」
「その時は他の先生にお願いしますし、見つからない場合はおとなしく教室に戻ります」
丹波はしばらくこちらを見て、「分かったよ」と快諾してくれた。
「黒野君には絵の感想を聞かせてもらってるしね~」
ホッと胸をなで下ろししていると、「ねぇ黒野君」と、丹波に真面目な口調で呼びかけられる。
「はい?」
「これは、まぁ教師としてではなくって、どちらかといえば同じ絵を描く事が好きな同志として聞くんだけど」
「なんでしょうか」
丹波はいつもと何一つ変わらない口調で告げる。
「――東大を目指すのって、嘘でしょ?」
あまりにいつも通りだったので言葉を窮していると、丹波は苦笑いを浮かべて弁明する。
「そんな気がしただけ。間違ってたらごめんよ」
でも――と、丹波は言葉を止めない。
「本当に東大を目指すなら、別にクラスで授業を受けていても問題はないと思う。黒野君の実力ならね。これは過大評価じゃないと僕は思ってるよ?」
「そんなことは――」
言葉を返そうとすると、でもね――と丹波の言葉に遮られる。
「東大を目指すにしても目指さないにしても、ひとつだけ言えることは――」
丹波は、ここからは教師としての言葉だけれど――と付け加え、さらに言葉を続ける。
「何もしなかったという後悔だけは、絶対にしちゃダメだよ」
丹波の目はひどく真剣に思えた。彼らしくない教師らしい目だ。
「――先生は」
「うん?」
「丹波先生は、後悔しているんですか?」
「そうだね。――いや、僕に限らず大人はみんな思っていると思うよ。『どうしてあのころ頑張らなかったんだろう』『あの時に諦めなければ。逃げ出さなければ』『戻ってやり直したい』ってね。そうやって、やらなかったことに対する後悔を」
それが丹波の言っていた、青春時代の忘れ物なのだろうか。
「だから、黒野君にこれだけは聞いておきたいんだ」
俺はただ丹波の次の言葉を待った。
「これから黒野君がやることは、何をおいてでも、やるべき事なのかい?」
丹波は、美術の時間に他の勉強をしていた生徒には何も言わなかった。
だからこの問いかけは丹波にとって、とても重要な意味があるのだと思えた。
故に、ここで嘘を加えるべきではないと、そう感じた。
「はい」
だから俺は正直に、丹波の目を見て答える。自然と口調は力強くなっていた。
「それは、自分の意思なのかい?」
「もちろんです」
「今じゃなきゃ、今やらなければ、後悔するかい?」
「絶対に」
視線と視線が重なりあう。次に丹波が口を開くまでの数秒間の静寂を、俺は一切視線をそらすことはなかった。
ふっ――と、丹波が笑みをこぼす。
「じゃ、僕は何も言わないよ。何かほかの先生に言われても、適当にごまかしておくから、安心して全力でぶつかってきな」
丹波という先生は、教師らしくない。
少なくともこの学校の教師としては異質だ。
だが俺は思う。
この高校で会ったどの教師よりも、教師らしいと。
俺は自然に、ただただ頭を下げた。
それは学生生活を無難に過ごすための演技ではない。
心の底から丹波先生に対し感謝を伝えようとして、自然と頭が下がっていた。
「ああ、もうひとつだけ」
俺が背を向けると、再び丹波が口を開く。
「どう? 今の僕、すごく教師っぽくなかった? かっこよくなかった?」
子供のように聞いてくる丹波は、どこか澪にも似ているものがある気がした。
――まったく。
と、俺は肩をすくめながら、呆れと笑みを織り交ぜて言葉を返した。
「それを言わなかったら完璧でしたよ」
おかげで自由に動ける時間が間違いなく増えた。
だが――
「何もないか……」
あれから一週間ほどが経とうとしていた。
一歩――それどころか全く進展が見られない現状に、思わずため息混じりの言葉を漏らす。
そんな弱気な自分に気付き、すぐに内心で叱咤し澪へ視線を移すと気付いていない様子で、ホッと胸をなで下ろす。
澪は何も言わずついてきた。
澪が出られる穴はないか境界線を探した時も、何度も痛い思いをさせてしまった。
調べれば調べるほど、八方ふさがりになっていく現状に苦しい思いは増しているはずだ。
それでも澪は、文句の一つも言わず、俺を信じてくれる。
そのことが嬉しくもあり――だからこそ、俺は強く焦りを覚えた。
現実は常に非情だ。
そんな事は知っていた。だが、それでも俺は歩みを止めるわけにはいかない。
だからこそ、進展のない現状に苛立ちを覚えて仕方がなかった。
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