二十一話
これは夢だ。
夢の中の俺はそう思った。
一面闇の世界なのに、自分の体ははっきりと目視できた。
「深入りはせぬことだ」
そう聞こえた気がする。
追いかけるように視線を動かすが、気付けば現実に引き戻されていた。
日の昼食時。中庭のいつもの場所で昼食をとっていると、不意に声をかけられる。
「相変わらず確保が早いですっ!」
そう言って俺の視界に入ったのは澪だった。
「よくここが分かったな」
俺が言葉を返すと、澪は笑みを零していた。
「ここによく来てました。翔君はたいてい美術室かこのベンチにいます」
行動パターンを把握されているのは、単にその時の記憶が俺にないためだろう。澪にとっては常識なのだと、その口調から読み取った。
「本当に、俺と一緒にいたんだな……」
しみじみと思う。
欠片も思いだせない自分がいて、それに罪悪感を抱いてしまう自分もいて、俺は少し視線を逸らしていた。
「一度忘れたことは、もう思い出せないみたいです」
俺の言動を見てか、澪はそう哀しそうに言葉を漏らした。
だが、すぐに元気な笑みを取り戻す。
「翔君!」
「ん?」
「絵を描きませんか? リハビリもしておかないと!」
だが今は罪悪感を抱いている場合ではない。
「ああ、そうだな」
俺自身が最も驚いてしまうくらい表情をほころばせ、柔らかくそう答えた。
その表情は自然と表に出てきた。
他人に対しては距離を取り、荒波を立てないように猫を被る。そんな生活をしてきたのに。
澪という存在は、自分の中で「他人」とは呼べなくなっていたのだと実感する。
ふと、手紙の文面を思い出す。
――妹の代わりではない。
そうだ。代わりではないが、どことなく、あいつに似ている気がする。
子供っぽくて不器用なくせに、その無邪気な笑みを見せられるとなんでも許してしまいたくなるような、そんな妹に――。
それから一週間ほどが経過する。
澪の置かれている状況を打開するための妙案は出てこず、行き詰まる。
なんとかしたいと気持ちだけが先走る。
澪はそんな俺の姿を見て「今日は絵でも描きましょう」と提案し、今日の放課後は無心に鉛筆を走らせることにした
「よし、完成っと――」
画板を用いてグラウンド近くで澪を描いていた。
「そろそろ日も傾いてきたし、今日はこの辺にしとくか」
夕日が地平線に沈みかけているのを見て提案すると、澪は嬉しそうにその絵を受け取った。
「相沢、ちょっといいか――」
そんな最中、澪のクラスの担任が近づいてきて声をかけてくる。
「え、あ、はい」
戸惑いながら同意し、教師の方に駆け出す。
「じゃあ今日はここでっ! また明日!」
澪は大きく手を振り別れる。
「お帰り、黒野君」
画板を返却するために美術室の扉を開けると、丹波がそう声をかけてきた。
「今日も彼女を描いてきたのかい?」
「ええ」
「いやー若いっていいねぇ」
俺にそんなことを言っていると、下校しようとしていた女子部員からスケベオヤジと罵られていた。
子供のように弁明する丹波を尻目に、画板を戻すため準備室に入る。
「じゃあ、お先に失礼しまーす」
準備室をでた時、先ほど丹波を罵っていた女子部員たちが下校し、今日はこれで全員帰ったらしい。
「いやはや、最近の女の子はパワフルだね……」
いったい丹波がどのように罵られたのかはちゃんと聞いていなかったので知らないが、どうも愚痴りたそうな顔をしている。
なので面倒くさいことから逃げるように、俺も美術室を出ようとする。
「じゃあ丹波先生、俺もこれで」
「ああ、黒野君、ちょっと待って――」
引き止められた。
面倒なきがしたが、その口調には愚痴を漏らしたい雰囲気は感じられなかったので立ち止まった。
もっとも、丹波は呼び止めるだけ呼び止めて、準備室へ消えていったけれど。
帰ってしまおうか――なんて脳裏によぎる最中、ようやく丹波が戻ってくる。その手には画用紙が一枚握られていた。
「ちょっと君にも意見貰いたんだけど、時間大丈夫かな? 急ぐのならまた今度で良いけど?」
わざわざ持ってきておいてそれを聞くのはどうかと思う――と、ため息とともに鞄を入り口に置いた。
机に広げた絵を覗き込むと、それは教室を描いたものだった。この学校の、どこにでもあるクラスの風景。誰も生徒はいない、ただの風景だった。それを、木炭でデッサンしている。
「とてもいいと思います。……ただ好みをいうなら、ちょっとパース効きすぎてる気もします……ただそういう画風もありだと思います」
「んーなるほど。いやね、これでも結構パース抑えたんだよー」
「どうでしょう。どうせやるからには徹底的にやった方がすっきりするかもしれません。魚眼レンズみたいに――いや、その場合は中心となる被写体がいないと厳しいですかね?」
「なるほどなるほど」
そう言って丹波は腕を組み考え込んだ。
「ん、ありがとね。わざわざ時間とってすまなかったね」
「いえ。そういえば――」
俺のふと脳裏に疑問がわいた。それは押し込めてもいい程度の疑問だったが、中途半端に口にしてしまった手前、聞いてみることにした。
「丹波先生は、よく教室とか学校とか描いてますね」
「そうだねー」
「人物画もとても上手いのに、なんか理由とかあるんですか?」
何かしらのコンテストに応募する時は、必ず学校関連の絵を描いていた気がする。
「言ってなかったっけ?」
「記憶にはないですね」
「じゃあ、僕はここの卒業生だってことは知ってる?」
「一度そんな話を聞いた気がします」
「まぁ、ここに通ってた時にね……言うなれば青春時代! 今思えばあっという間に過ぎていったけど。その時に、この学校に忘れ物をした気がしてね――」
「忘れ物?」
「んー、自分でも良く分からないんだけど、凄く、大切なモノを落とした気がするんだよねー。だから、ここで美術の教師をしながらそれを探してるつもりなんだけどねぇ」
「何を落としたんですか?」
「さぁ、何だろう。少なくとも、ここに来て八年になるが、まだ見つからないね」
苦笑いを浮かべながらそう自虐めいて話してくれた。
「僕もね、黒野君みたいに結構無口で他人と距離を置く性格だったんだけどねぇ。なんか、気付けばこんなふうになっちゃってるよ。クールでいたら、もしかしたらもうちょっとモテたかもしれないのにね~」
より大きく苦笑いを浮かべる丹波。
「見つかると良いですね」
「うむ、そうだね。――黒野君も、なくさないようにね」
「俺がですか?」
「黒野君は最近いい意味で変わってきていると思うよ。相沢さんのおかげかな? 恋人っていいよねぇ」
「そ、そういうのでは――」
屋上での記憶が脳裏に蘇りながら、とっさにそう否定する。
ニタニタするその表情は確かにスケベオヤジ呼ばわりされても仕方ない気がした。
「じゃあ、これで」
俺は逃げるように退散した。
「恋人、か――」
深夜、月明かりの中ベッドで俺は丹波の言葉を思い出す。
友達を失うのは辛いと、澪は言っていた。
だがもしそれが恋人だったなら、その心の痛みはいったいどれほどのものなのか――。
俺が、救わなくては。
そう逸る気持ちを落ち着かせ、今は睡眠に落ちる。
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