二十話

 それから休日を挟み三日が過ぎ去ろうとしていた。


 あの日から夜はうなされるし、絵は手につかないし散々だ。


 ただ、三日かけてようやく見たものを現実と認識しつつあるのは事実だった。


 俺は考えた。


 何も無かったことにして、何も見なかったことにして、今まで通りに過ごす。


 そんな選択肢も見え隠れする。それが一番楽な選択肢だ。あいつの声が脳裏で何度も再生される。かつて聞いた最期の言葉が――。


 ちょっとだけ、関わってみてもいい気がしていた。


 少なくとも相沢の話では、俺たちは仲が良かった。


 このままなかったことにして、また取り返しのつかないことになるのだけは避けたかった。


 誰のためでもなく、自分自身が悲劇を繰り返すのは嫌だからだ。


 それだけは是が非でも避けたい。




「俺は……何やってんだ?」


 そう自分に言い聞かせながら、三日ぶりに相沢に会いに行くことにした。


 今日から試験が返される。授業は通常通り夕方までだ。


 教室に夕日が滑り込む。閑散とした教室。一年四組のそこに、相沢は窓辺に立ちつくしていた。


 一つだけ開かれた窓辺にいると、そよ風がかすかに髪の毛を揺すっている。


「相沢――」


 俺の声に、ピクリと体を反応させ、彼女は振り返る。


 目と目が合う。


 何から言ったものかと頭を巡らせている間も、絡み合う視線の間を、ただ時間は流れ続けた。


 頭が真っ白になっている。


 何から言っていいのか分からない。


 そのことを察してか、そんな笑みを彼女は零した。


「翔君がどんな答えを持ってきても、私は受け入れようと思います。それが、どれだけ嬉しくても、辛くても」


 背中を、少しだけ押された気がした。


 だらしない――俺は自分自身をそう評した。


「正直なところ、まだ信じられないと言う気持ちの方が大きい。今思い返してみればいくつか心当たりがある。絵を描いている時のことを、不自然に思い出せない気がする。それに、失った記憶に囚われて――なんと言ったらいいのか――喪失感みたいなものを、ここ最近ずっと抱いていた」


「そう、でしたか。私の責任です。私が余計なことをしたから、翔君の人生が狂いかけてしまいました」


「いや、いい。その事は気にしなくていい。……ただ俺としては、この状況で、あんな物を見せられて日常生活に戻れるとは思えない」


「そう。そうですよね。ごめんなさい」


「……でも、なんだろう。しっくりくる」


「しっくり……?」


「相沢さんを前にしていると、落ち着くというか……言葉でなんと言うべきか分からないんだが、漠然とした喪失感が和らぐ気も……いや、俺は何を――」


 自分でも言いたいことがまとまらず、一呼吸して落ち着かせる。


「俺は、君のことを知りたい。こうやって目の前で話している今ですら、相沢さんのことは思い出せない。だから……そんな状況で言うのははばかられるかもしれないけど、もっと詳しく知りたいと、思っている」


 相沢の表情が揺れる。


「もし、相沢が……俺が嫌なのであれば――」


 その言葉は、そこで遮られた。


「嫌なわけありません」


 少し気恥ずかしそうにうつむきつつ、言葉だけははっきりと口にする。


「むしろ、翔君じゃないと、嫌なんです」


 腹をくくろう――そう覚悟を決めることにした。


「本当に、まだ何も思い出せない。けどもう少し、一緒に居てみても……いいだろうか?」


 たじろぎながら、それでも俺は相沢に近づいた。


 彼女は嫌な顔をすることもなく、逃げ出すこともなかった。


 ただ、その頬に涙がこぼれ落ちていた。


 俺は無意識に、彼女の頬に優しく指を添え、涙を拭き取った。


 その直後、相沢が胸に飛び込んで来て、俺に抱きついてきた。


「夢のようです――」


 彼女の声は震えていた。


 それはうれしさをこらえきれないという心境が伝わってくる。


「本当に、すまない」


「私こそ。私こそごめんなさい」


 そして、相沢は再び涙を流した。




「ほら」


 自販機で缶ジュースを買い、屋上に場所を移すと、相沢に渡す。


「ありがとうございます」


 確かにここから相沢は飛び降りた。


 その光景が蘇る。だからこそ、ここに場所を移した。


 その時の記憶をもって、相沢の話が現実なのだと自分に認識させるために。


「タイムリミットは、十月頃――だっけ?」


 屋上のフェンスにもたれかかりながら、確認するように口を開く。


「はい。早いときは九月中頃から始まったりします。どれだけ頑張っても、十二月まで覚えていた人はいません。去年の翔君も、十一月の中頃まででした」


 猶予は、おそらく四~六ヶ月。


 それが過ぎれば、これまでのように相沢に関する記憶が失われる。


 そうすれば俺は卒業し、二度と会うことはないだろう。


「翔君――お願いがあります」


「ん?」


「私を救おうとしないで下さい。きっと私を救おうとして、できなかった無念が、翔君の心の奥底に燻り続けると思うんです。だから、強い喪失感を抱いたんだと思うんです」


 だから、あえて相沢を救うのを断念するべきだと提言する。


「私は……私は翔君との最後の半年を、楽しい思い出で埋めたいです。そうすればきっと、来年の贖罪も――ううん、いつ終わるともしれないこの半永久的な贖罪を、乗り越えていけると、そう思うんです」


 半永久的――少なくとも、相沢はすでに六十年以上も繰り返している。この狭い学校の中で。


 相沢の言うことも一理ある。


 去年の俺は、決して何もしていないわけではなかったらしい。


 考察し、仮説を立て、実証する。


 それでもこれと言った成果は上げられなかった。


 今年の俺も、同じ道をたどる可能性は――悔しいが、高いだろう。


 ならば、はじめから相沢の希望を叶えることに注力した方が、彼女の為になるのではないか――。


 そう思い込もうとした。


 だが、それではダメだと自分の魂が訴える。


「手紙の俺は、相沢さんを救ってくれと言っていた。救いたい切に願っていた。その執念が、確かに喪失感を生み出していたのかもしれない。でも、その時の俺と、今の俺は同一人物だから。事情を知った上で、きっと……去年抱いた想いと、今考えるている想いは一緒だと思う」


「……はい」


 否定されるかと思った。


 けれど、相沢はただ相づちをうつ。


「俺は、相沢さんを救いたい。この境遇を、なんとかして脱する術を探したい。そう思っている」


「……十中八九――いえ、九割九分、無理だとしてもですか?」


「可能性がゼロだとしても。……すまない。独りよがりばかりで」


 謝罪すると、むしろ嬉しそうに笑みを浮かべる。


「翔君のそういうところを、私は大好きになったんだと思います」


 だから――と、相沢は俺の胸に顔を埋めて「その代わり二つお願いがあります」と続ける。


「合間合間で構わないので、また、私の事を描いて下さい」


 かつての澪の絵を見れば、相沢を描くと言う事が心を通わせるのにどれほど必要なのか分かる気がする。


「もちろん、時間のかからない方法でいいので」


「――ああ。分かった」


 相沢の頭をなで、快諾する。


「それで、もう一つはなんだ?」


「キスしてみても、いいですか?」


「――!?」


 そのお願いは、あまりにも唐突に思えた。


 自分からしてみれば、まだ知って数日の女子だ。


 ……だが。


 相沢からしてみたら、二年間想い続けた相手なのかもしれない。


 ならば受け入れるべきか――そう考えたが、その前に確認しておかなくてはならない。


「去年の俺は、相沢とそんな事を?」


 過去の自分が何をしたのか記憶にない以上、どこまでの関係だったのかが分からず当惑を口にしていた。


「いえ。待ってましたが、そこまでは……」


「えっと……それは……。すまない――」


 待っていたと言われてどう反応するべきなのか分からず、最終的に謝罪を口にした。


「翔君は、とても奥手です。そういうところも素敵ですが」


 なので――と折衷案を提示される。


「翔君の、私を救いたいという気持ちを尊重します。だから、私の気持ちも――翔君との幸せの記憶を、私に残してほしいんです」


「それが……キス、なのか?」


「もちろん他にもいろいろ思い出を作りたいです。でも、時間的に両立は難しいと思います。なので、短時間で済んで……その、印象に残ると言ったら……その、他に思いつかなくて――」


 言葉にしていて恥ずかしくなってきたのか、相沢は赤面しつつ顔を埋めた。


「その、なんだ……」


 女性との交際経験などない為、こういう時にどうして良いか分からない。


 こんな時に限って、古い丹波の言葉を思い出す。


 学生の間に恋愛しておいた方がいい。学習機会が奪われたまま大人になると、どうしたらいいか分からない――だったか?


 つまり、今のこの状況だ。


「でも――」


「翔君。できれば――できれば澪って呼んでほしいです。去年まではそうでしたので」


 ダメだ、避けられない。相沢の――いや、澪の声音を聞いて、それを悟る。


「……俺なんかで、いいのか?」


「――翔君が、いいんです」


 澪がうずめていた顔を上げ、赤面したまま俺の方を見上げる。


 世界はまるで澪の赤面を隠すかのように、赤々とした夕日が世界を彩る。


「み……澪。なら俺のことも翔でいい」


「いえ。翔君は翔君です。将軍みたいなイントネーションがいいんです。だから、翔君――」


 期待のまなざしを向けられ、一度だけ深く肺の空気を入れ換えて意を決する。




 両手を澪の肩に乗せ少しだけ体と体の距離を取る。


 その手はそのまま首に触れ、澪の煌びやかな髪の毛をかき分け、頬に添えられる。


「本当に、いいんだな?」


 澪はその問いかけに目をつぶり、そしてただの一言だけ答えた。


「はい」




 唇を重ねた瞬間、世界が止まった気がした。


 ただ単に唇を重ね合わせただけ。


 それだけだと思っていたが、相手の温もりや息づかいが伝わり、間をすり抜けるそよ風が髪を揺らして顔を優しくなでる。


 初めてのキスは、一言では形容しがたかった。




 口を離すと、世界は再び巡り始める。


「えへへっ」


 そんな無邪気な声が耳に届く。


 目を開け澪を見ると、澪は浮つきながら微笑みを零していた。


「すまない。上手くなくて」


 何せ初めての経験だ、上手くできているわけがないだろうと、目を逸らしながら謝罪する。


「いえいえ。ごちそうさまでした」


 その言い回しは適切ではない気がしたが、それを口にするのは無粋に思えた。


「翔君は、どうでしたか?」


 どうと言われても、なんと答えるべきか分からず、真情を吐露する。


「言葉で、言い表すのは難しい」


 澪は手を伸ばし、今度は俺の頬に添え、そして顔を引き寄せた。




 再び、世界が止まった気がした――。


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