十六話



 気付けば時間だけが過ぎていく。


 独りで過ごす学校がこれほど退屈でつまらないものだと、今更自覚した。


 あれからもう澪の姿は見ていない。




 すでに教室に通っていない様子で、中庭も屋上も美術室も――どこにも澪の姿はなかった。




 一日のうち。澪の事を覚えている時間が日に日に減っている気がする。


 怖かった。


 忘れていくことが。


 澪のいたときの記憶と、いないで当たり前の記憶が混合する。


 澪がいなくても、何も違和感がない。


 だが、澪のことを思い出すと嫌悪に襲われる。


 その嫌悪がたまらなく嫌だった。


 同時に、完全に忘れてしまうのが酷く怖かった。






 そんな日が続いた夜。


 いつにもまして寝付けないでいた。澪に会えなくなってからずっとだ。


 ずっと寝不足のはずなのに、夜になるとどうしても寝付けない。


 いや、寝たくないと無意識に思っている。


 一度寝てしまうと、もう澪のこと忘れてしまうかもしれない。


 そう考えて、躊躇ちゅうちょしてしまう。


 月明かりが部屋の中を淡く照らしていた。暗闇に慣れた俺の目は、その光だけで十分に部屋の中を把握できた。


「澪――」


 俺は言葉を漏らしながら澪の事を思い出していく。常に思い出そうとしていれば、わずかでも維持できた。




 寝付けずにごそごそと起き出す。


 絵を描く余裕は無かった。


 ただ床に腰を下ろし、ボーっと部屋の中を見渡す。


 そこには家族の中に紛れ込む澪の姿がある。


 俺にとって、澪はもう家族と同等に大切な存在だったのだと、何度も自覚する。




 立ち上がったついでに少し足元の整理をする――壁際に寄せただけだが。


 ふと目をやると、返却された美術の課題がそこにあった。


 小物のデッサン。だが、描いているものには見向きもせず、俺の視線ははただ一点に釘付けにされた。


 自分の名前の横を鉛筆でなぞり、筆跡が浮かび上がったままの状態になっている。


 ちび


 そんな筆跡が、俺の体を硬直させた。そして、記憶が鮮明によみがえる。


『澪ちんちびだから、澪ちんサイズの服は入らないよっ!』


『ちびって言うなぁ! 気にしてるのに!』


 これは、俺が一年生の時に澪をからかって書いた筆跡だ。


 もし……。


 俺は考える。


 澪が自分で書いたものは消える。そこにいなかったものとして。


 直接、澪の事を書いても忘れるか、消えるかする。


 だが間接的に澪の事を表現したら、それは消えない。


 たとえば、「ちび」という日本語は澪の固有名詞ではない。だから消えていない。


 その単語と澪を関連付けていたことは忘れるけれど。


 ――そうだ、なぜ忘れていたんだ。


 俺はこの部屋で澪の書かれた絵を見つけているじゃないか。澪は確か……写真に写っていても自分だけ消えると言っていた。だが、それが絵なら消えない。


 しかしこの絵が澪だと言うことは忘れてしまう。


 俺は一年生の時にも澪と関わっていて、一度忘れている。


 だが、また知り合えたじゃないか。


 二年生で、澪と。


 ――引き継がなければ……!!


 澪がどうしてこうなっているのかは分からない。


 だが、今から何か策を考えるのにはもう時間が無さ過ぎる。


 もう、少しでも気を抜いたら忘れてしまいそうだ。








 翌日、俺は学校を休む。適当に仮病を使って。


 教師への信頼があったおかげで、特に疑われることもなかった。


 今は、学校で授業を受けている時間すら惜しい。




 俺はベッドに腰を下ろして何をすべきか考える。


 もし、俺が一年の冬から春の間に澪の絵を見つけていたらどうなるかを考える。ただでさえ絵がたまるから、余計な絵は処分するかもしれない。


 だとすると、今回も適当に放置していたら捨てられるか、来年になっても気付かない可能性が高い。


 今年気付いたのは、いくつもの偶然が重なったからだ。


 どうするべきか……。


 澪の絵は美術室に去年と今年の分が保管されているはずだ。あとはこの部屋にも散らばっている。それらを誤って処分することは避けたい。


 一箇所に集中させるのはそう言ったリスクを伴う。分散させるためにも、いくつかの場所に別けるべきだろう。


 そうは思うが、まともな友達などいないこの俺に、頼れる人間などいない。


 彩咲がいれば、少しは頼めたかもしれないが、連絡先が分からない。


 先生から聞き出して、手紙を書いて――では間に合わない。


 電話――そうだ、携帯電話の番号をもらったじゃないか。


 とは言え当てはそのくらいか。


 これじゃだめだ。


 あとは……。丹波に頼むか。


 四箇所。不十分だ。


 そもそも、単に絵を見つけても仕方が無い。


 澪と再び廻り合う事が目的だ。


 澪はもう向こうから会いには来ないだろう。


 ならば俺が澪のところに行くしかない。


 どうやって……?


 今年は、家族の絵しかないはずのところに澪の絵が出てきたから、どういうことか確かめたくて探し回った。


 だったら、来年も同じ状況を作れば良いではないか。


 だが絵だけではダメだ。


 今年と同じ轍を踏んではならない。


 すでに知っている情報を持っている状態で、来年に引き継がなくては意味がない。






 数時間経とうとしていた。


 途中、何度も澪の記憶が抜け落ちながらも、必死に頭を動かした。


 正午を過ぎた頃、俺は手紙を書き始める。


『三年生の俺へ――』


 慣れないものは急にやるべきではないと思った。思ったように言葉がまとまらない。記憶の関係もあったが、それでも非常に時間がかかった。


 俺は、手紙を勉強机の鍵のついた一段に入れると鍵を閉める。


 気付けば、時刻はもう十五時を過ぎていた。


 学校には休むとも伝えてしまったが、丹波に会いに学校へ向かった。


 途中で鍵屋に寄ったためか、放課後を告げるチャイムがなった頃に学校に着いた。


「おや、どうしたんだい? そんなに息切らして――」


 美術室の扉を開けると、丹波の方から声をかけてくる。


「丹波先生――今、少しいいですか?」


「んー? 構わないよ?」


 他の美術部員の邪魔にならないように、準備室の奥で話す。


「で、何かあったのかい?」


「丹波先生にお願いがあってきました」


「僕に?」


 俺は、筒状にして包装した絵を丹波に渡す。


「この絵を、少しの間保管していてもらえませんか?」


 受け取った絵を広げ、丹波は確認するように開いた。


「確か、一年生の女の子だよね。相沢さんだっけ?」


 丹波はまだ澪を認識しているようでそのことが少しだけうれしくて破顔する。


「はい。諸事情でしばらくの間、家に置けないので保管してもらえませんか?」


「うん、まぁいいよ。どのくらい預かってたらいいんだい?」


「来年の六月中旬頃から七月ごろまでで良いですか?」


「結構先だねぇ」


「すみません」


「いやいや、構わないよ⌇⌇」


「返す時は、先生の都合で良いです。……というか、そちらから声をかけて欲しいです。それから、一緒に絵以外のものも入れてますので、なくさないでくれるとありがたいです」


「分かったよ!」


 親指を立てて丹波は軽く了承した。






 帰り道、俺は公衆電話に小銭を大量に入れる。


 彩咲の携帯を呼び出す音が流れてきた。三度目の呼び出し音のときに、彩咲は電話に出る。


「はいはーい、どちらさまですか?」


 彩咲の声が受話器の向こう側から聞こえてくる。


「黒野だ。悪い突然」


「おー、先輩っ! 澪ちんとはラブラブですかい?」


 その言葉に、胸が少し引きつった気がした。


 しかし彩咲もまだ澪の事を覚えている。そのことは非常にうれしかった。


「ちょっと色々あってな、俺の部屋においてある絵をちょっとの間置いておけなくなったんだ。それで、いくつか預かってくれないか?」


「絵をッスか? 美術室にあるんじゃなくて?」


「あれとはまた別の奴」


「まだ他にも描いてたんッスか!」


「ああ」


「ま、構いませんよー。ちなみに、どんな絵ッスか?」


「それは届いてからお楽しみだ」


「えー! いやほら、えろてぃっくなモノだと、親に見つからないようにしないといけないじゃないッスか!」


「そんなんじゃない」


「無念っ」


「それで、送り返す時期なんだが、来年の六月下旬から七月位に頼めるか?」


「んーっ……覚えておくように努力しますっ!」


「頼む。送り返す時は、着払いで構わない。それから、いくつか小物も入れておくから、なくさないでくれ」


「アイアイサー」


 これでよし。そう俺は思った。


「そういえば、こっちの学校で面白い子みつけたんッスよ!」


 あとは投入した硬貨がなくなるまでありふれた会話をした。


 どうやら、転校先では上手くやっているようだ。


「じゃあ、またッス」


「ああ、じゃあな」


 そう言って電話を切ると、俺はすぐさま絵を彩咲へ送る。




 今俺が出来ることはこのくらいだろうか……。


 自室に戻り一息いれながら思う。


 寝不足を訴える体に従いベッドに倒れこむ。


 目の前が、真っ黒になっていく。


 何もかも、黒く。




 ……いや、どこか、黄金こがね色に色付きながら……。




 嗚呼、あいつの髪色のように美しい……。


 薄れゆく意識の中で、ただそう思った。






 ――あれ? 『あいつ』って、誰だっけ。






 ……まぁ、いいか……。


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