十六話「無力」

 すでに通常授業も始まり、学校は生徒のにぎやかな声が辺りに響く昼休み。売店で昼食と飲み物を買い、いつもの中庭のベンチへ向かう。

 ベンチには、澪が鳥に囲まれていた。ただ澪の表情には、まだ少しつらそうな雰囲気が残っていた。俺が近づくと、鳥たちは飛び去っていく。

「ひゃっ」

 横に座った後、冷たい缶ジュースをほほに押し付けると、澪は奇声を発しながら慌てふためいて手を上下に羽ばたいていた。澪が鳥なら、きっと今頃空を羽ばたいているだろう。

「な、何するんですか!」

「おごりだ」

 そのままジュースを差し出す。

「え? いいんですか?」

 そう言いながら澪はジュースを受け取る。

「まだ落ち込んでるのか?」

「そ、そんなことは……あるかもしれませんけど」

 言葉を濁しながら、缶のふたを開けた。

「でもそれ以上に――」

 一口飲んだ後、澪はうつむいて言葉を続ける。

「もう少ししたら翔君も私から離れていきます」

 手が止まった。

「……」

「今年も去年も、今までにないくらい楽しかったです。……忘れられたく、ないです」

 缶を握る澪の手が膝の上で震えていた。声も震えている。震える声を、必死に隠そうとしている声だ。

 俺は酔っていたのかもしれない。

 日々に酔っていた。

 だからこそ、俺は日々を満喫してしまっていた。

 澪の記憶がなくなっていく、その現実から逃避するように。忘れていた訳ではない。だがどこかでまだ時間はあると

「俺は、忘れないよ」

 そうは言うものの説得力はなく、ただの気休めにしても心もとなかった。

「ありがとうございます」

 それでも澪は気を使い笑みを浮かべるが、その表情からは不安が滲んでいた。



 気付けば時が過ぎていく。葉が日々紅葉し、季節は秋へと移り変わった。

 傍から見れば澪は元気だ。元気でドジっ子で、時々やんちゃだ。だが、そのいつも通りは心配をかけまいと気丈に振る舞う空元気に思えて仕方がない。

 その日の放課後、俺は澪にジュースをおごり、中庭で飲んでいた。

「次はどんな感じで描きたいですか?」

「んー……、今は特にこれといってないな。澪は何かないのか?」

 澪は立ち上がり、くるっと回転しながらポーズを決めようとした。

「ひゃっ!」

 遠心力でジュースが回りに飛び散り、澪の制服を濡らしていた。

「まったく」

「つ、冷たいです――」

 そりゃそうだろ――俺はそう思いながら遠目で見ていた。

「翔君、手伝ってくださいー」

 俺はそう要請され、立ち上がる。

「どうすればいいんだ?」

「と、とりあえず、服を脱がせてください……」

「分かった分かった……だから外で脱ぐ奴があるか」

 何処までドジなんだ――そう思いながらも、俺は少し顔が熱かった。

 その日の夜。俺は今日の澪のドジが頭に浮かんでは消えた。

 そして漠然とした焦燥感で頭がいっぱいになる。このままでは眠れないので必死に思慮の外へと追いやった。


「翔君」

 それから何日か過ぎ去った放課後、廊下で澪にそう声をかけられる。

「どうした?」

「大事なお話があります」

 澪が突然、沈んだ顔をして言葉を放つ。いつもの中庭、いつもの場所に座って、俺は澪の話に耳を傾ける。

「……始まりました」

「何がだ?」

「みんなの記憶から、私が消えはじめました」

 俺は、無意識に目を丸くしていた。瞳孔が開いていたのかもしれない。

「本当に……消え始めたのか?」

 信じられない。いや、信じたくない。その気持ちで俺は埋め尽くされる。少なくとも俺自身には何も起きていない。

「今日、クラスで先生や生徒が、私に気付けない場面がありました」

「気付けない……?」

「授業中、私が当てられるはずの順番で飛ばされ、そのことを生徒に指摘されても、すぐには理解できない様子でした。似たようなことが、クラスメイトでも何人かで始まりました。もう、止められません。私と関わりのなかった人、関わりが薄かった人は、特に早く記憶がなくなってしまいます」

「何とか、ならないのか?」

 ならないことは聞いていた。けれど、そう聞かずにはいられなかった。

「少しでも、忘れるのを遅らせるのは出来るかもしれません。でも、いずれ忘れることは止められません」

 どこかで、ありえないと思っていた自分が、ここぞとばかりに俺の心を揺らす。

 だが、澪のその顔から冗談ではないと思った。辛そうに体を震わせている素振りが、冗談だと思えるはずもない。


 放課後に俺が教室を覗いた時、澪は机で本を読んでいた。

 俺が声をかけようとした時、何人かの女子が近くでだべっていた。そのうちの一人が、立っているのに疲れたのか、席に座ろうとした。その女子に押され、澪は椅子からはじき出されてしまう。

「ははっ……変なとこ見られてしまいました……」

「澪――」

「気にしないでください、この時期になると、いつものことです」

 そう言って澪は哀しそうに苦笑いを浮かべていた。押し出した生徒に、澪は見えていないようだった。


「黒野、悪いが、ちょっとこれ運んでくれんか?」

 また別の日、俺は教師にそう呼び止められる。それは、放課後に澪の絵を描いてるときだった。

「すみません、今は――」

「良いだろ? どうせ風景は動かないんだから」

 そう言って教師は俺にプリントを押し付ける。明らかに人物を描いているようにしか見えないはずなんだが、教師には澪が見えていないのか……? そう思わざるを得ない状況だった。

「行ってきて下さい。待ってます」

 にこやかに澪はそう言うが、気付かれていないことは分かっているようだった。

 俺は、そのことに歯軋りをしながら過ごした。



「翔君、今日はとっても大事な話があります」

 それからさらに数日。放課後、俺は澪に誘われて人影はない中庭に来た。

 そこで、そう切り出される。

「もう、私の事は忘れてください」

 その言葉に、俺は思考も体も止まった。

「どうして」

「私には、耐えられません。毎日、私の事を忘れてる時間が増えていって、私の存在になかなか気付いてもらえなくて、それでも一緒にいるのは、凄く辛いんです」

 薄っすらと、澪の瞳に涙が映っていた。

「どうして……そんな急に――」

 うつむきながら、俺は言う。

「ごめんなさい」

 小さく、そう謝罪してきた。

「この前、決めたばかりだから」

 澪は立ち上がった。数歩前に出て、こちらに振り向いてきた。

「友達とかなら、まだ我慢できた。友達なら、また来年作ればいいやって思えた」

 その言葉は、今にもかすれて消えてしまいそうだった。

「でも、好きな人が目の前で私の事、忘れていくのは、耐えられそうに無いから。――最近気付いたんです。どうして、一度忘れて思い出せないと分かっていて、翔君に相沢澪という女の子を覚えているか聞いたことも。どうして、一緒にいたいと思ったのかも。どうして、翔君に絵を描いてもらったらうれしかったのかも――」

 澪の目には、涙があふれていって、今にもあふれかえりそうだった。

「私、翔君の事が、好きだったんだなって――」

 そう言った拍子に、耐えていた涙があふれて、ほほを濡らした。

「だから、もう一緒にいたくないんです。せめて私の記憶は、私の事を覚えていてくれる翔君だけがいい。去年と同じことは、今経験したら、きっと立ち直れません。身勝手です。自己中です。そんな私を許してください」

 必死に涙を服でぬぐいながら、訴える。

 俺は言葉が出なかった。絶対にこれで終わりなんてしたくなかった。だが、言葉が見つからない。

「今まで、本当に楽しかったです」

 唐突の別れ、頭は混乱していた。だが、そう言って駆け出す澪を、俺は止めずにはいられなかった。

「待ってくれ!」

 澪は、足を止めた。けれど、こちらを向きはしない。

 止めた理由など無い。ただ、このまま終わりが嫌だった。……いや、止めた理由なら、あるじゃないか。やっぱり、俺は……俺も、澪のことが好きなんだ!

 だが、ここに引き止める言葉が思いつかない。

「私――」

 二の足を踏んでいると、澪の方から口を開いた。

「もし普通に生きていたら、翔君と付き合っていたと思います。……もっとも、生きていたら私は、おばあちゃんになってますが」

「嫌だ……ここで、もう会えないなんて俺は嫌だ!」

 俺の叫ぶ声が、中庭にこだまする。俺は、澪が好きなんだ。一緒にいたいんだ。今も、明日も、これからも――。

 それでも澪は、俺を冷たく引き離す。ゆっくりと駆け出した。追いかければ、すぐに追いつける。だが、そんなことをしても何の解決にもならない事は、無意識に理解していた。

「澪!」

 そう呼びかける俺に、澪はもう止まらなかった。

「俺は絶対に俺は忘れない! 絶対に思い出すから! 来年は、来年も、一緒にいよう!」

 そう叫ぶ俺に、澪は振り向かない。俺は、立ち尽くす。これで、俺はもうこいつを見ることはないのだろうか。本当に、このまま忘れてしまうだけなのだろうか。

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