十五話

 翌日、彩咲の姿は無かった。


 澪と二人だけのその日は、いつもより物静かで、どこか物足りない気がした。


「ひゃっ!」


 昼時、売店で昼食と飲み物を買って美術室に戻ってくるが、澪の表情は優れない。


 そんな彼女の頬に、冷えた缶ジュースを触れさせるとそんな声を上げていた。


「もう! びっくりするじゃないですかっ」


「悪い」


 いつものように元気な声を上げるが、やはりどことなく力ない。


「彩咲のこと、まだ引きずってるのか?」


「いいえ……。いえ、それもありますが――」


 澪は辛そうな表情をこちらに見せまいと、窓の外へ向くと、真情を吐露する。


「今だけ、なんですよね……。こうやって翔君と一緒にいられるのは……」


 現状をなんとか打開するべく、学校の敷地内で様々検証してみるものの、今のところこれと言って成果はない。


 澪は俺の提案にいつも手を貸してくれるが、内心では無理だと悟っている様子だ。


「まだ時間はある」


 そう、まだ夏休みもある。


 二学期に入ったからと言って、例の現象がすぐに発現するわけではない。


 そう。まだ時間は――






 気付けば時が過ぎていく。


 葉が日々紅葉し、季節は秋へと移り変わった。


 傍から見れば澪は元気だ。元気でそそっかしくて、時々やんちゃだ。


 だがそれは俺に心配をかけまいと気丈に振る舞っている様に見えてしまう。




「翔君」


 それから何日か過ぎ去った放課後、廊下で澪にそう声をかけられる。


「どうした?」


「大事なお話があります」


 あれから何も成果は上がっていない。


 最近は、ただひたすら焦燥だけが募っていた。


「……始まりました」


「始まった……?」


「はい。みんなの記憶から、私が消えはじめました」


 嫌な汗が額から流れ落ちる。


「本当に……消え始めたのか?」


 ――信じられない。いや、信じたくない。


 その気持ちで俺は埋め尽くされる。少なくとも俺自身には何も起きていない。


「今日、先生やクラスメイトが私に気付かない場面が、少しありました」


「気付けない、というのは……?」


「授業中、私が当てられるはずの順番で飛ばされ、そのことを生徒に指摘されても、すぐには理解できない様子でした。こうなったらもう止められません。私と関わりのなかった人、関わりが薄かった人は、特に早く記憶がなくなってしまいます」


「何とか……何とかならないのか?」


 ならないことは聞いていた。


 けれど、そう呟かずにはいられなかった。


「少しでも、忘れるのを遅らせるのはできるかもしれません。それでも、十二月まで持った前例は、ありません」


 打開策は思いつかず、何もできず、無力は俺は、ただ無力なまま時間だけが過ぎていった。






 翌日。


 放課後に俺が教室を覗いた時、澪は机で本を読んでいた。


 俺が声をかけようとした時、何人かの女子が近くでだべっていた。そのうちの一人が、立っているのに疲れたのか、席に座ろうとした。その女子に押され、澪は椅子からはじき出されてしまう。




「ははっ……変なところを見られちゃいました……」


「澪――」


「気にしないでください、この時期になると、いつものことです」


 そう言って澪は哀しそうに苦笑いを浮かべていた。押し出した生徒に、澪は見えていないようだった。




「黒野、悪いが、ちょっとこれ運んでくれんか?」


 また別の日、俺は教師にそう呼び止められる。


 それは放課後に澪の絵を描いている時だった。


 何もできず、それは一種の現実逃避だった。


「すみません、今は――」


「良いだろ? どうせ風景は動かないんだから」


 そう言って教師は俺にプリントを押し付ける。明らかに人物を描いているようにしか見えないはずなのだが、教師には澪が見えていない様子だ。


「行ってきて下さい。待ってます」


 澪は笑顔でそう背中を押した。






 それからさらに数日経った、放課後。


「翔君、今日はとっても大事な話があります」


 俺は澪に誘われて人影はない中庭に来た。


 そこで、そう切り出される。


「――私の痕跡は、今のうちに消して、私の事は忘れてください」


 その言葉に、俺は思考も体も止まった。


「待ってくれ」


 澪は涙ぐみながら、それでも懸命に言葉を紡ぐ。


「私には、耐えられません。毎日、私の事を忘れてる時間が増えていって、私の存在になかなか気付いてもらえなくて、それでも一緒にいるのは、凄く辛いんです」


「まだ……。まだ時間はあるはずだ……」


 うつむきながら、俺は言う。


「ごめんなさい」


 小さく、そう謝罪してきた。


「この前、決めたばかりだから」


 澪は立ち上がった。数歩前に出て、こちらに振り向いてきた。


「友達とかなら、まだ我慢できた。友達なら、また来年作ればいいやって思えた」


 澪の瞳には今にも溢れそうな涙がたまっているが、澪はそれを必死に堪えているようだった。


「でも、好きな人が目の前で私の事、忘れていくのは、耐えられそうに無いから」


 そう言った拍子に、耐えていた涙があふれて、ほほを濡らした。


「だから、もう、一緒にいたくないんです。せめて私の記憶は、私の事を覚えていてくれる翔君がいい。去年と同じことは、今経験したら、きっと立ち直れません。自分勝手な私を許してください」


 必死に涙を服でぬぐいながら、訴える。


 俺は言葉が出なかった。


 絶対にこれで終わりなんてしたくなかった。


 だが、言葉が見つからない。


「今まで、本当に楽しかったです。ありがとうございました」


 澪は背を向けそう言い残し、走り去っていく。


「待っ――待ってくれ――まだ――」


 まだ。その先に何を言うというのか。


 時間はあった。授業も絵も彩咲の事も、全て差し引いたとしても、時間はあったはずだ。


 だが、俺は何もできなかった。


 何も力になれなかった。


 何も解決できなかった。


 何も――。


 そんな状況で、引き留めて――あるいは追いかけたとして、どうしようというのか。どうなるというのか。


 ただ澪をさらに追い詰めるだけだ。追い込むだけだ。

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