十四話「曖昧」

「毛布の下の方が濡れてしまいました」

 保健室に戻ると、相沢は代えの毛布を探す。

「お、おい……」

 俺は思わず背を向けながら言っていた。

「毛布かぶったまま探せば良いだろ」

「大丈夫ですよ。どうせもう半年もしない間に翔君の記憶の中から私は完全に消えますから」

 笑えない冗談だ。そう口に出せない言葉を飲み込みながら相沢から遠ざかる。窓際まで言った時に、ふと気付いた。窓に、部屋の中が反射していて見えていた。その中に、相沢の姿がある。

 その体はとても細い。今にも折れてしまいそうなその体は、顔と同じくまだまだ幼さを残していた。艶やかなな肌は反射した窓からでも分かる。腰周りは意外と引き締まっていて、垂れとは無縁そうな幼い体型で。その小さな胸は、相沢に良く似合っていた。

 新しい毛布を羽織った相沢はのぞき込むように見上げてきた。

「大丈夫? ちょっと顔赤いよ? 風邪引いてない?」

 どうやら、見られていたことには気付いてないようだった。

「もう、四時か……あっ!」

 素っ頓狂な声をあげるので、内心驚いていると、心配そうな顔をしながら聞いてくる。

「翔君、帰らなくて大丈夫ですか? 家の人心配してるんじゃ――」

 予想していなかった言葉に、俺は茫然とした表情を露呈させてしまった。

「今更だよ……」

 ようやく言葉の意味を理解できた俺は、まったく――とため息をつきながら、そう言い放った。

 いや、そういう状況でもなかったか。

「う……」

 呆れたように呻く相沢は、ちょっと可愛かった。

「それに――」

 俺は家の事を思い出しながら、ちょっと口を滑らせかけた。

「それに?」

「い、いや、なんでもない」

「うむ……気になる――」

 思わず口走りそうになった言葉の説明を求められ、俺は対応を悩む。

「今夜は誰もいないから」

「そうなのですか?」

「ああ、だから大丈夫だ」

「でも、結局迷惑はたくさんかけてしまいました。……すみません」

「もうそのことは、もういい」

「はい……」

 それでも相沢は、申し訳なさそうな表情を浮かべたままだった。

「ひとつ、わがままを言ってもいいですか?」

 唐突に、そう言い出してきた。

「なんだ?」

「私の話を信じてもらえなくても構いません。でも、もし……もしも、もう一度夢が見られるなら……また私のことを、描いてもらえませんか?」

 その言葉で、俺は口を閉じる。それは相沢を信じて、思い出せない過去と同じように接してほしいと言う意味だ。

 俺が受け入れるかどうかの答えを、相沢は求めてきた。

 考える。頭をめぐらせる。

「もちろん、今すぐでなくて構いません――もし、気が向いたらで――」

 おそらく、ここで拒否すれば、きっと今までどおりの生活に戻る。彼女の言葉が正しければ、秋になれば完全に忘れ完全に元通りだ。

 だが、それでいいのか?

 記憶を失い、つながりを失い、もう二度と会うこともない。会ったとしても相沢を今の相沢と認識できない。それは、今生の別れと何が違う?

 また、失うのか?

 これ以上失うのか?

 何もせず、目の前から逃げて。それで後で後悔の自責に駆られて、自己嫌悪して。

 ただ無難に寿命が切れるまで待つつもりだった学校を卒業して、就職して退職して、老後を無為に過ごして。自分で命を絶つなんて根性は自分にはないものだから。

 だがそれはただ逃げているだけではないのか? 恐れているだけではないのか? 失うのが怖くて、はじめから何も得なければ、失うこともないと。

 だとして、また大切な存在が自分の前から失われようとしているのに、そこからも逃げ出すというのか? 

 また、失うのか?

 嫌だ。

 それだけは、許容できない。

「今はノートしかないがいいか?」

 間髪をおいて、相沢は嬉しそうにうなずく。無地のノートを取り出した。

「あ」

 息を呑む声が聞こえてくる。

「もう、大事にとっておく必要もなさそうだからな。それなら使った方が良いだろう」

 最後のページに相沢の描かれた、例のノート。

 俺は相沢を真正面から見据えた。

 何故だろう。久々に、腕が軽い。思ったように描ける。俺は、久々のその感覚を満喫しながら、相沢を描いた。心の重しが減ったから? ――いや、どこか、こう。懐かしい不思議な感覚を覚えた。何も覚えていないはずなのに、鉛筆を握る腕は喜んでいるようにすら思える程に。



 翌日、きわどい場面はあったが、どうやら裸の女子生徒と一緒に学校に残っていた事実は誰にもばれずにすみそうだった。相沢は、さまざまなところに身を隠す箇所を知っていた。何十回も繰り返してきたからだろうか……俺は身を隠しながら思った。

 そして、今は屋上に二人でいる。朝、屋上に上がってくる人はほとんどいないらしい。部活生は朝練で、入ってない人はわざわざ朝来て屋上に上がってくる奇特な人はそうそういない。ただでさえ、眠気の蔓延している教室にだ。

「しっかし――」

 俺はノートを広げながら言葉を漏らす。

「メインは相沢さんじゃなくて毛布だよな、これ」

「えーっ!」

 うるうるとした目で俺をゆすってきた。

「ひどいですよ翔君!」

 いや、そんなこと言われても……。

「わ、悪い」

「毛布……脱がないと駄目ですか?」

「脱ぐって……お前、露出する趣味が?」

「ち、違いますよ!」

 からかうつもりだったのだろうが、逆にからかわれて顔を赤らめて必死に否定する。

「その……ちょっとからかっただけというか! ほんの冗談なんですよ!」

「わ、分かった分かった」

 最後にすごい剣幕でそう言われ、俺は思わず後ずさりしていた。

「でも、翔君が描きたいなら……それでも良いですよ」

 上目遣いでちょっと恥じらいながらそう小声で呟いていた。。

「ああ、もうちょっと成長したらな」

「ひどいですよ翔君! 翔君はあれですよ! けーわい? って奴ですよ!」

「よく言われるよ」

 とりあえず、相沢のボケをスルーしつつ、視線をそらすように空を仰ぐ。

「そういえば――」

 不意に口にする相沢の言葉はフェンス近くから聞こえてきた。数歩の距離だがいつの間に――。

「この街も変わりましたね……」

「そうか?」

「はい。私の生きていた時とは大違いです」

 朝日を屈折させ、町並みがきらきらと輝きを放っていた。だが相沢はこの学校から出ることは叶わない。ずっとこの町を遠くから見つめてきた。それを思うと、この朝日に輝きが涙にも似た感情にも思えた。

涙はどれだけ流れれば枯れ果てるのだろうか。何十年分の苦痛を味わえば、償いになるのだろうか。俺にはわからないことだ。だが、俺は独りよがりであってもこいつと関わると決めたんだ。

 肩を並べるようにフェンスに近づき遠くを指差した。

「あそこに、屋根の大きな建物があるだろ?」

「え? は、はい」

「あれは最近出来たショッピングモールだ。まぁ、俺は行ったことがないんだがな。――あっちに見える高い建物はマンションで、この辺だと一番高いな。地上からの高さも、家賃の高さも。ああ、でも、向こうに建設中のマンションはあれより高いらしい――」

 そうやって、学校の屋上から見える街並みを教えていく。俺自身も、あまり街のことは知らない。それでも、数少ない記憶をたどりながら……。

 そうやって時間が過ぎていく。無性に、時間が短く感じられた。

 そういえば昔は……あの頃はみんなで街のいろんなところに出かけてたんだよな。そんなことも、思い出しながら。


 授業が開始されると、校舎内は急速に静かになる。それまで騒ぎ声や話し声が屋上にまで届いていたが、屋上まで届くのは教師の講義が微かに聞こえる程度だ。

 その頃になって、雲の切れ目から太陽が顔を覗かせてきた。

「すみません」

 クラスが体育の授業が始まる直前、保健室の先生に声をかける。体操着のままでも怪しまれず昨日の事を聞くためだ。

「昨日、放課後に誰か保健室に来ませんでした?」

「放課後? 特に誰も来てなかったわね。そのまま帰ったはずだけど」

「そう、ですか。分かりました」

 確かに、先生は覚えていなかった。相沢の言葉に、また一つ裏付けされた気がした。


 昼休み。濡れていた制服はきれいに乾いていた。

 俺自身の制服は、クラスが体育でいない時にこっそり拝借した。俺のクラスでは教室の前の扉は日直が施錠する。だが、体育が終わった時にその日直が鍵を持ってきて開けるのを待つのが面倒な一部の生徒のおかげで、後ろの扉に鍵がかかってないことは知っていた。それに、後ろの扉は鍵を使わなければ内側から鍵をかける事も開けることも出来ない。なので日直も後ろの扉の施錠を面倒臭がる。この悪しき風習は、おそらく全学年全クラス共通だろう。

 がやがやと、声がしだす。ところどころチャイムが鳴る前に授業が終わったクラスが騒ぎ始めていた。そして、チャイムが鳴ると、一斉に騒がしくなる。そして、屋上にも生徒が少しずつ増えてくる。

「そろそろ、お互いの教室に戻っても良いだろ」

 そう俺が提案し、それぞれの教室に向かう。適当に、寝坊したと言い訳するか……相沢は、いくら言い訳してもしこたま叱られるだろうな――と、同情する視線を交えつつ、廊下で別れた。


 授業がいつも以上に長く感じられた。

 何故だ――。

 そんなことを思ってると、ふと頭を過ぎるものがあった。

 相沢が、いないから? 屋上での時間はあんなに短かったのに……。

 その後俺は昨日からの出来事を何度も頭の中で巡らせ、ひたすら思考した。


 下校前の担任のありがた迷惑な言葉も終わり、帰宅部の生徒の流れに乗るように教室を出た。階段を降り、昇降口に向かう流れから離脱し、一年生の教室へ向かう途中の廊下で、相沢と鉢合わせになった。落ち合うよう決めていたわけではなかった。相沢も少し驚いたような顔をするが、すぐに照れくさそうな笑みを零した。

 誰もいない屋上に上がった。ゲームだの塾だの予定のある帰宅部は早々に下校し、部活生は今頃部活動の準備をしている頃合いだ。早朝と同じで、今更屋上にこようなん酔狂な生徒はこの学校にはいない。

 相沢はフェンスに近づき、外の世界を見つめている。俺は屋上に上がってくる扉近くで腰を落とした。

 風が心地よくすり抜けていく。さらさらとした相沢の長い癖毛がなびいている。

 俺が声をかけると、相沢はこちらに振り向く。

「まだ……正直、信じきれてない」

「……はい」

 それでも――そう俺は言葉を続ける。

「でも、信じたいと思う」

 俺の言葉に、相沢は嬉しそうな表情をうかがわせた。それもつかの間ですぐにかき消えた。

「どうしてそう思ったのですか?」

 相沢は外の世界に視線を向けながらそう問いかけてきた。

「どうしてだろう……深く、考えたわけじゃない」

 立ち上がりながらそう言い、相沢の隣まで歩を進める。フェンスに手をかけ、同じように外の世界に視線を向けた。

「ただ、居心地がよかった。今は隣にいたいと思えるから、じゃないかな」

 相沢は視線を下げ、俺からはどんな表情をしているのか見て取ることはできなかった。

「また、すぐ忘れるんですよ?」

 少しして、消え入るような声でそう呟く。

「それでも、今すぐじゃない。まだ時間はある。だろ?」

 まったく――そんなため息交じりの言葉を言いながら相沢が振り向いた。

「ずるいです」

 相沢はうれしさを含ませたような口ぶりでそう言い寄ってくる。

「人の気も知らないで、そんなこと――」

「嫌……か?」

 俺の言葉に、かすかに頬が染まったように見えたのは、夕日の加減だろうか。

「嫌なわけ、ないじゃないですか……!」

拗ねるように口を尖らせるが、どことなく嬉しそうにしていた。

 わしゃわしゃと相沢の頭をなでる。少し恥ずかしそうにこちらを見上げてきた。

「もう、忘れたりしないさ」

 正直、今の瞬間の記憶が数ヶ月後にはなくなってしまうなんて、想像は難しかった。そんな俺の言葉は、相沢にとっては気休めでしかないだろう。いや、むしろ逆効果か。相沢はわずかに俺から視線をそらす素振りからそう感じる。

「仮にまた忘れても、またたどり着くさ。今回みたいに」

 だから、力強く言葉を付け添えておく。

 未来のことは分からない。予測できるほど人生経験を積んでいるわけでもない。だが、俺の言葉に笑みを浮かべてくれた相沢を見て、これでいいと思った。

 俺はもう、繰り返したくは無い。この無邪気な笑顔を奪いたくはない。相沢の笑みを見て、強くそう思った。

 そのあとは少し俺にとって奇妙な感覚だった。ただの雑談だと、そう言ってしまえばそれまでだ。だが、既視感というか、なんとなくだが懐かしい感じはした。

 話の内容は特に変哲の無いもので、今日授業で何があったとか、友達がどうとか。今の友達は、俺が相沢を助けた時のことがきっかけで知り合ったらしいと言うことも聞いた。


 そして、そんな何でもないような平凡な日々が、続いていった。

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