アクロイド 貴族 2
リオネルの言葉に頭を悩ませながら6日目がやってきた。一晩考えても取るべき行動は分かっていない。そもそもリオネルの行おうとしていることが不明瞭だ。貴族は消えてしまえばいいという言動は過激な想像をさせるが、それが行われる確証はない。
真っ先に悩んだのはパウエルに話すべきかどうか。しかしこれも悩む話。言って話を信じてくれるかどうか。また事実でなかった場合の責任も取れるとは思えない。
寝不足を感じながらハーニーは今日もリオネルの元へ向かう。
その途中、街中を抜ける時だった。
「ハーニー、ハーニーだろ!」
後ろからの呼び止めに振り返るとそこにいたのはタックだった。ガダリアで同じ境遇から関わることの多かった少年。ガダリアから連れ出したあの夜以来だ。そしてそのタックは。
「その恰好……」
タックの来ている服。身なりが一新されていた。前まで古着だったはずが今は清潔な新しいものになっており、髪も整えられている。廃屋暮らしを考えると信じられないほど清潔感のある一少年になっていた。
「へへへ。驚いたろ。これ、あの金で買ったんだぜ」
「あのお金って……ああ。貴族の家で捨てるくらいなら、って頂戴したやつか」
「おう。売る時に大分減っちまったけど、それでも普通の格好ができるくらいにはなった」
「皆も?」
「もちろん全員分だ。へへ。これから仕事なんだ」
「仕事?」
「おう! 俺たちさ、皆仕事見つけたんだ。働かせてくれるってところ。散らばっちまったけど、でも雇ってくれたんだぜ」
それは今までできなかったことだ。暮らすとなると排他的な空気が強いガダリア。悪評もあった彼らを雇おうという者はいなかった。
しかし今のタックは違う。まともな服を着てアクロイドで仕事を手に入れた。
「見た目をしっかりするだけでこんなに違うんだな。たったそれだけで見る目が変わる。ガダリアだとそのスタートラインにすら立てなかったけど、これからは上手くやれる気がするよ」
「そっか……良かった」
気休めじゃない。心の底からそう言えた。彼らは彼らで勝ち得たのだから文句はない。
「街の皆も優しいんだ。前までは俺らみたいな流れ者には厳しかったのに」
弛緩した空気の中、耳に引っかかる。
「どういうこと?」
「アクロイドってさ、前まで流れ者をすぐに追い出すような嫌なところだったんだよ。でも今はそうでもない。……そういえば変だな」
「変?」
「おう。特に最近街の奴ら皆すげえ落ち着いてんだよ。不思議なくらい静かで……あとは愚痴をよく聞く。貴族への……悪口とか」
タックはハーニーを窺うように恐る恐る言った。
ハーニーはそれに繋がりの薄さをひしひしと感じた。
「貴族への悪口なんてどこでもあるけどさ。この街は隠したりしないでガンガン言うから珍しいなって……」
「貴族への不満か……」
頭を切り替える。思い当たるのはリオネルの言葉。街の総意。
「タックはどう思う? 貴族とか、この街とか。僕のことは気にしなくていい」
タックは目を外に逃がしたまま答えた。
「俺は……分かるよ。街の人の言うこと。だってずるいだろ。最初っから弱い強い決まってるなんて。それに、悪いけど俺はこの街好きだ。外から来た俺たちでも迎えてくれたし」
「そっか。ありがとう」
「おう……」
タックは申し訳なさそうにする。ハーニーは笑顔を作ってみせた。
「よかったよ。居場所になるといいねタック。仕事頑張って」
「ああっ! そうだった遅れちまう! じゃあな!」
タックは振り返らず遠ざかっていく。その背中は明るい活力が溢れている。
不思議と彼らとの結びつきは薄れていく予感がした。その直感はひどく現実味を帯びていて心細く感じる。
「……いいや、違う。これでいいんだ」
僕らは表向きの付き合いしかしてこなかった。その結果だ。もしまた関わることがあれば、もっと深く関わればいい。そういう話だ。
彼らは自分の道を見つけて進んでいる。僕も行く道を見つけないといけない。
「でも、さっきの話……」
街の雰囲気のおかしさ。貴族への不満の露出。謎の落ち着き。
嵐の前の静けさという単語が頭に浮かんだ。リオネルのことを合わせて考えると嫌な想像が進む。
……パウエルさんに話そう。
そう心に決めて早足でリオネルの家に向かう。
正直パウエルに相談するには躊躇いがあった。パウエルは愚痴をよくこぼしていて、不確定な情報で気を煩わせたくなかったからだ。
パウエルが愚痴るのは領主ピエールが腰を上げようとせず静観の構えを崩さないことについて。王都周辺の情報は錯綜していて詳細は不明らしく、だからこそ行動を起こすべきだというのがパウエルの考えだ。しかしピエールは王都などどうでもいい動きをするという。
実際アクロイドから王都へ救援を送るには山脈が邪魔して不可能だ。王都まで行くには西へ進み旧王都を経由してそこから北進するか、ガダリアの北東から大回りするしかない。つまり行動の選択肢は静観、旧王都経由で増援、ガダリア奪還の三択だ。
だがガダリア奪還は成功したところで包囲されるのは目に見えている。防衛は困難だろう。
となると旧王都へ向かうかアクロイドに居座るかだが、ピエールはガダリア貴族を邪魔に思っているうえ、造園には反対だ。
幸いなことと言えばアクロイドに敵の手が回っていないということだが、パウエルが言うには「不自然」らしい。普通ならガダリアを落としたら勢いそのままに西進してアクロイド奪取。さらに攻め進んで旧王都をとり、王都を挟撃するのが定石なのだという。そうでなくともアクロイドに何もしないというのは不自然極まりないらしい。
それらの情報とリオネルの話が合わさった今、この街は異質にしか思えない。危険は遠いという情報ばかりなのに、目前まで戦火が迫っている気がする。
リオネルの家に着くとパウエルはいつもの鍛錬場で待っていた。
「来たか。遅かったな」
「ちょっと知り合いと会っていて……あの」
「さて、暇を持て余す時間はない。始めるとしよう」
「あの!」
「何かね?」
「話があるんです。確信があるわけじゃないんですけど、でも話した方がいいと思って……」
「何だ。話してみたまえ」
「実は……」
話しかけて、ハーニーの言葉を途中で割ったのはいつの間にか現れたリオネルだった。
「やあ、来たかい二人とも」
「あ……」
「おはようございます。師匠」
完全に言う機会を逸する。
「今日は私が師事しようと思っていたのですが、どうしたんです」
パウエルが尋ねる。リオネルはパウエルがいる時はいつも家に引っ込んでいたから今日は普通ではない。
「少し見てやろうかと思っただけだよ。そこまで邪険にせんでもいいんじゃないかい?」
「邪険にする気などは毛頭ありません。珍しいから聞いたまでで。それではハーニー、始めるとしよう……ん。話が途中だったな。何だね?」
「い、いえ……何でもないです」
ちらちらとリオネルを窺う。落ち着いた表情。意図は汲み取れない。
まさかパウエルさんに伝えるのを邪魔するために?
でもそんなことをするくらいなら、僕に貴族への不満を話さなかったはずだ。何をしに出てきたんだろうか。
疑問を持ったままパウエルと対峙する。今日もやることは変わらない。パウエルが魔法を撃ち、それに対処して反撃を狙う鍛錬。未だに反撃を成功したことはない。
「待ちなさい。ハーニー、今日はこれを持て」
「これは……木刀?」
リオネルに渡されたのは鍛錬でいつも使っている木刀だった。
広場の対面に離れているパウエルにリオネルがしわがれた声を上げる。
「パウエル! 構わんね?」
「私は構いませんが、重りを持つようなものでは?」
パウエルが放つ魔法は火の魔法だ。木刀なら当たれば燃えるか爆散するか。しかしリオネルは「成果を見るんだ」と答えて引き下がらない。
「あの、リオネルさん……」
「いい。今は余計なことを全て忘れて集中しなさい」
その目を見れば警告ではないことは分かる。全力を期待している顔だ。
「……集中」
気持ちを入れ替える。
ひとまず疑念などは置いておく。
「それでいい」とリオネルは言って、木刀に目をやった。
「これは木でできているのだから魔法を受けてはならない。分かるね? それは守るのに使う物じゃあない。攻めるために使う物だ。攻撃の意志だ」
「攻撃の意志……」
「お前は身体を強化する魔法も学んだろう。それを生かせ。頭を使え。剣だけに頼るな。魔法だけに頼るな。応用しなさい」
突然の命令にハーニーは動揺した。唐突に応用しろと言われても、緊張だけが加速する。
『私たちならできます』
「セツ?」
『足りない部分は私が補いますから、あなたは信じてください』
『私を信じて』なのか『自身を信じて』なのかどちらか分からなかった。だが女の子の声でそう言われて悔しくならないほど、心意気は死んでいない。
「……ああ。やろう」
緊張は吹き飛んでいた。
「それじゃあ始めようかね。いいかパウエル」
刃先は後方に向けて構える。姿勢は低く、腰を落として足の先まで意識を広げるイメージ。
「私はいつでも構いません。ハーニー君。やるのなら全力で来たまえ」
ネリーに教わったのは魔法の理屈と、信じることだ。身体強化魔法といったって基本のなってない自分には想像するしか方法がない。
加速のイメージ。望む結果のイメージ。
それらを信じることしか僕にはできず、そうすればセツが補助して形になる。形にできる。
「それじゃあ合図と同時に始めるぞ」
リオネルが離れて合図をしようとする。
「セツ、まずは近づこう。でないと始まらない」
『分かりました』
僕は走れる。避けれる。戦える。
念じて四肢に力を込める。
「始め!」
声と同時に手が鳴らされた。
ハーニーは姿勢を低くしたまま前に踏み出す。木刀は両手で持ち下に降ろして、左肩で風を切るように駆け出す。
「ほう」
パウエルが関心を示している表情が見えた。
風の音は遠い。魔法を使っている実感はない。ただ走っている。速く、速くと願い、先を望んでいるだけだ。
そして、その通りに身体は動いている。
パウエルはすぐに火球を生み出し放った。詠唱などの前準備なしで発現したからか、小さな火球。だが弾速は凄まじい。避けきれそうもない。
「盾!」
叫んで魔法の盾を想像する。意識が偏るせいで減速するが仕方ない。盾を形成して火の球を弾いた。衝撃で減速する。急いで自分に加速のイメージをかけ直した。
パウエルとの距離は縮まるが、まだ足りない。その上パウエルはハーニーが減速した間にまた火球を作っていた。今度はパウエルを覆い隠すほどの巨大な炎弾。放たれたそれは、弾速は遅いが渦巻く炎が火力を物語る。
受け止める選択はない。避けるには速度を落とさないと無理。
──いや、そんなんじゃダメだ。
「まともにやっても勝てないんだから……!」
火の玉は腰辺りの高度で飛んでいる。その下には空間がある。僅かだが、ある。
その僅かな隙間をくぐるのは走ったままでは不可能。
ならば! と足から飛び込むようにして地面を横滑りした。右足が地面に削れる嫌な音が耳を打ったが、火球下を突破する。
視界を遮っていた爆炎を越えると、パウエルの姿が見えた。近い。数秒駆ければ届く距離。
「くっ」
だが加速魔法の勢いでまだ体は大地を滑っている。このまま滑り進んでもパウエルにはたどり着くだろう。だが、それでは迎え撃つ時間を与えてしまう。
どうせパウエルさんを出し抜くには不意を打つしかないんだ!
迷ったのは一瞬。
砂煙を立てながら進む中、ハーニーは右手を地面に押し付け、弾いた。高速で滑る真っ最中に地面に触れれば、当然手のひらを細かな石が削る。火傷に似た激痛が走った。
「ぐうううっ」
感覚を押し殺して体勢を整える。何とか身体を起こして、前につんめりそうになりながらも走る格好になる。
顔を上げた。
パウエルまでは数歩。予想外の行動だったらしく目は見開いている。
今しかない!
さらに加速の想像。数歩を詰める最後の駆足。
そこまでやって、だがパウエルは一手早かった。
「上がれ──赤護昇架」
一振り。パウエルが杖を横に振るうと炎の柱が地面から湧き出た。太い焔柱が三本並び壁となってハーニーの進撃を妨げる。
『迂回すべきです』
「ここしかない! 吹き飛ばすぞセツ!」
足は緩めたくない。速度は維持したい。だから加速の魔法も想像し続ける。
その上で想像を重ねた。振るう左手に魔力の塊を乗せるイメージ。それで壁を吹き飛ばすのだ。
「んっ?」
左手を薙いだ瞬間、視界が揺れた。
いや、揺れたのは視界ではなかった。自分の身体だ。いつの間にか速度は普通の物になっている。それに感覚が追いついていない。体勢を崩して転びそうになる。
ただ、壁を吹き飛ばす魔法の方はしっかり発現していた。障害だった炎壁は風に消えている。
驚くパウエルの顔がすぐそこだ。
「いけっ……!」
踏み込み、焼けるように熱い右手で握った木刀を振るった。腰だめに下から斬り上げる。
そこにあった感触は木同士がぶつかる乾いた音。
「惜しかったな」
パウエルが杖で振り上げようとした木刀を押さえていた。
崩れた体勢から繰り出されたハーニーの一振りに、杖を弾くほどの力は乗っていなかったのだ。
「どうして……?」
「魔法は一度に一つしか使えん。人は二つのことを同時に考えることはできないからな。君は加速しながら無色の魔法を使おうとしたが、優先されたのは想像の濃い後者だった」
確かに意識は壁を消す方へ寄っていた。でも魔法を同時に二つ使えないなんて誰も言ってなかったぞ……。
「こうなったらすぐに退くか、やり方を変えて次を狙うものだ。一度きりで終わると決めつけてはいかんな」
「うっ?」
反撃に身構える。が、パウエルは杖を木刀から離した。この戦いは一旦終わりだということだ。
やってきた無言の後、気付く。
「い! 痛あっ!」
右手のひらの激痛に木刀を取り落す。皮がところどころ剥がれて血が滲んでいた。地面で削ってしまったのだ。
「痛い痛い!」
「締まらない奴だ」
パウエルは大きく呆れた。
『見た目ほど重症ではありません。とにかく水で綺麗にすべきです』
「ああ、手を出せ。一層程度しか使えんが」
言われた通り手を出すとパウエルが杖を手のひらの上に浮かせて何事かつぶやいた。すると杖から水があふれ出る。杖から落ちる水はハーニーの手に落ちた。
水の魔法への驚きより痛覚が勝った。
「くううう! 沁みる!」
突き刺すような痛みで目に涙が浮かぶ。
「やれやれ、情けない」
そう言いながら、パウエルは穏やかな表情だった。
リオネルもこちらに近づいてきて頷く。
「中々良くなった」
「まだまだです師匠。鍛錬は続けなければ」
「ふん? だが今のが本物の刀だったなら、パウエル。お前の杖は斬られていたかもしれんなあ」
「……そうであったなら杖で受けていませんよ」
傷口を洗い終わり、外のことへ注意が向けられるくらい楽になる。
パウエルが眉を寄せていた。
「この傷だと今日はやめた方がいいだろう」
「う、すみません……」
「謝ることはない。いい動きだった……まだまだだがね」
ただ褒めるということをしないのはこの人らしいな、とハーニーは思った。それでも褒められるほどの動きができたということは嬉しい。
「しかし魔法を二つ同時に使おうなど、無茶なことを考える」
「そうですか? 必要だったからやろうと思ったんですけど」
「魔法は本来詠唱が必要なんだぞ? 無詠唱魔法は慣れればできるが、それは口に出さずとも魔法を完璧に想像しているから可能なのだ。並列して完全な魔法を発現するのは不可能だろう。君の頭はいくつあるんだね」
「あ」
頭が二つあるわけないのに魔法ができるはずはなかった。
一瞬セツの存在が脳裏によぎったが、彼女には単体で魔法を行使する力はない。
「……でもさっきはいけそうな気がしたな」
そもそも僕はセツのおかげで、曖昧な想像なのに魔法が作れているのだ。それなら僕が半分半分にでも魔法を想像できれば、二つ一緒に使うことだってできるんじゃ……?
でもそれにはもう一歩必要な気がする。根本的なところの変化が。
思考を止めたのはパウエルの「となると今日はどうするか」という言葉だった。
リオネルは神妙に頷いた。
「今日はこれで終わってもいいんじゃないかい。たまには休息もあっていい」
パウエルは逡巡の後、「師匠がそう言うのなら。では今日はこれで」と受け入れた。
「ふむ。それじゃあハーニー、私の家に来なさい。手の治療は早い方がいいだろうからね」
「それでは私は街へ。領主にもう一度話をしてきます」
領主という言葉が出た瞬間空気が固まる。凍てついた雰囲気にハーニーはヒヤヒヤしながら、続きを待った。
口を開いたのはリオネル。
「あれにいくら頼んでも意味はないな」
領主をあれ呼ばわりするリオネルにパウエルは眉を少し動かしただけだった。
「頼んでいるつもりはありません。私はすべきことを伝えているだけです」
「貴族としてのすべきことか?」
リオネルが貴族について語るときいつも棘がある。ますます空気は悪くなる。
緊迫した空気を終わらせたのはリオネル自身だった。
「……まあいい。あまり信用しないことだ」
「……では私はこれで」
他のことなら師弟の絆が見られるのに、貴族に関してのみ二人の間には壁ができる。
パウエルの姿が見えなくなるとリオネルは長い息を吐いて「なぜ分からない……」と嘆いた。そしてすぐに気を取り直す。
「ほら、早くしないと手が腐るぞ。来なさい」
「あ、はい」
結局パウエルに相談することはできなかった。しかし、リオネルが真剣に鍛錬に付き合ってくれたことから、なおさら分からなくなる。ただの杞憂だったのかもしれない。そんな気すらする。
リオネルに連れられて家の玄関に通された。待っているとリオネルは清潔な布を持ってきた。
「どれ、手を」
言われて手を出す。薄桃色の部分が露出していてヒリヒリしていた。
「派手にやったな……」
そう評しながらリオネルは素早く布を巻く。手慣れた動きはそういった場面に多く出くわしていたということだ。戦闘経験が豊富という証拠。
純白の包帯を巻き終えるとリオネルが静かに口を開いた。
「ハーニー。私は応用しろとお前に言ったね」
「は、はい」
「お前は応用の力を少しはできるようになった。さっきのがいい例だ。足りない技術を魔法と根性で補った」
「あれは……無我夢中でやっただけなんです。それをうまくやれたって言えるかどうか」
「うまくやれたとも。同年代の魔法学校生には負けないだろうさ。勝てるかは知らんがね」
「そう、ですか」
喜びは隠せない。人に誇れることなんて今までなかったんだ。
「その応用する力というのは何より強い武器になる。己を守り、周りを守る強い力だ……」
「リオネルさん……?」
普段とは違うしんみりした気配に戸惑う。殺気や憎しみのない、落ち着いた静寂が降りる。
リオネルが「外に出よう」と言い、それに倣った。
外はまだ正午にもなっていないので太陽が照っている。晴れた空は青く眩しい。鳥のさえずりといい、のどかな世界が広がっている。
リオネルはのんびりした風景を眺めながら不意につぶやいた。
「私はね、本当は大した魔法使いじゃないんだ」
「え? でも皆すごいって言ってます。ネリーだって尊敬してたし、パウエルさんの師匠じゃないですか」
リオネルは笑った。
「パウエルは元々の素質が大きい。私は生き方と心構えを教えただけだよ。ああ、貴族の在り方についても教えるべきだったかもしれんね」
「……」
あえて口に出すのは憚られた。黙っているとリオネルは話を戻した。
「私はね、応用することで生きながらえてきた。先の大戦もそうやって戦い抜いたものさ」
「どういうことです?」
「私には魔法の才能がなかったんだ」
才能。ネリーのことが頭に浮かぶ。どんなに頑張っても才能には勝てない。
リオネルもまたそう言った。
「魔法での才能。それは即ち自分を信じることができるか、だ。単純だが非情な差だよ。信じられなければ魔法を一切使えないわけだからな。そして使えなければ無能扱いで底辺の生活を余儀なくされ、それがまた自信を奪っていく……」
リオネルはそう言った後、「私が唯一得意だった魔法を当てられるか?」とからかうように笑った。
「得意……転移する魔法ですか?」
「ほっほっほ。そんなすごい魔法が初めから使えたら苦労しない。大体それができたならそれこそ才能だぞ」
「じゃあ何なんです?」
リオネルは当たらないことを予想していたらしく勿体付けなかった。
「色を付ける魔法だ」
「色?」
「色と言っても大げさなものじゃあない。白い紙に絵具を付ければ色が付くだろう? それを魔法でやるのと同じことだ。ただ、色を付けるだけの魔法。私はそれだけが得意でな、攻撃魔法も防御魔法もろくにできやしなかった」
自嘲的な笑みの後、リオネルはそれを実践して見せる。リオネルが空に手を伸ばせば虚空に絵が描かれる。絵は鮮明でまるでそこに実物があるかのように精密だった。
「女の人だ……」
空を背景に形作られたリオネルの魔法は人と見紛うほどに精緻にできている。浮かぶ女性は幸せそうな笑顔をこちらに向けていた。
「この子は私の姪だよ」
リオネルのため息と共に女性は風に千切れて消えた。
「これが私の得意な魔法だ。今も昔もこれだけは変わらない。だから自信もある。まあ、その代り他の魔法はてんでダメなんだが」
「それじゃ転移の魔法は……?」
「私は応用が何より大事だと思っている。なぜならそれで凌いできた自分がいるからだ。……私は補ったんだよ。別の部分で魔法を。私がお前に教えたことと同じように」
「絵を描く魔法で、補った?」
繋がりが見えず首を傾げることしかできない。
「セツには分かる?」
『……いいえ』
無感情だがどこか悔しそうな合間があった。
リオネルは「私はこの魔法に関して誰にも仕掛けを話したことはない。親友にも、もちろんパウエルにも」と前置きして真相を語る。
「私が利用したのは私自身ではなく相手だ。私と対する人間の目を使ったのだよ。……まだ分かりづらいかな?」
「相手を利用……」
『……』
「信じれば叶うのが魔法の理屈だ。しかし人は自分自身を真に信じ込めない。皆何か足りないのが普通だと思って生きるものだからね。完璧な人がいないように、自分自身を信じ切ることができる人間もいない。……だが、自分自身は、だ」
『事象を信じるのは自分である必要がない……』
「利口な相棒を持ったなハーニー」
「つまり……?」
リオネルは未だ分からないハーニーを朗らかに笑った。
「素直なお前には分かりづらいかもしれんね。いや仕方ない。ずるいやり口だと私でも思うよ」
『事象を……魔法を信じるのは必ずしも自分でなくていいということです。相手に消えた、跳んだ、と思わせればそれで魔法は発現する。後は相手が勝手に魔法を飛躍させてしまうんです。他者の認識ほど事実的に受け止められるものはありませんから、その確認が信じるを越えた結果になるんです』
理解するのに数秒を要した。
「それって……すごいですね」
リオネルは楽しげにハーニーに目を向ける。
「すごい、か。そう返ってくるとは思わなかった。姑息だと非難するかと思ったよ」
「そんなこと。だって利口な戦い方じゃないですか。足りなさを相手に補ってもらうなんて」
「そうか……お前は貴族じゃあなかったね」
リオネルは何かを納得するように頷いて改めて話をまとめる。
「理解したね? そう。私は相手に手助けするだけだ。誰もいない景色で私を覆えば、相手が私を消してくれるのだからね。敵に背を押してもらうのが私の戦い方だ」
感心と、疑問。
釈然としないことが一つある。
「……どうして僕にそんな話をしたんです。パウエルさんにだってしてないんですよね? それなのにどうして僕なんかに……」
リオネルはハーニーを見ずに遠く、アクロイドの街並みに目を向けた。
「お前にはした方がいいかと思ってね。戦いは力だけじゃあないということ。これはきっと生きるために必要になるだろう。特にお前は……そんな気がした。それ以外の理由があるとしたら、お前の定まらなさにかけたということかね」
「何ですか、それ」
「魔法が使えるのに貴族らしくないだろうお前は。そんなのは長く生きてきて初めてだ。生まれの境遇もあるだろうが、それでも巡り合わせというものがあると思った」
「褒められてる……んですか?」
「そう受け取っていい。別にこれでお前の選択を変えようとは思ってない。もちろん貴族側などにはいってほしくは……」
言葉は続かない。リオネルは小さくため息を吐いた。
「……いや、今のは忘れなさい。お前に話したのは一人の師としてお前に必要だと思ったからだ。ただ、それだけだよ」
リオネルは語気を荒げることはなかった。
優しげな老人が話をした。それだけだった。
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