アクロイド 覚悟 1
ハーニーは瞼の向こうの明るさに気付いて目を覚ました。
「朝……かあ」
木造建築の一室。部屋にはテーブル、ベッド、衣装掛けなど宿らしい設備が整っている。
ハーニーはベッドの上で寝ていた身体を起こした。そしてため息を一つ零す。
何か夢を見ていた気がするのに、思い出せない。本当は夢をみていなかったのかもしれないが気になってしまう感覚。
夢の中では自分の記憶にない過去がしっかり流れているんじゃないかと思ってしまって気が滅入る。
「寝慣れないベッドだからかな」
アクロイドの宿屋の一部屋をあてがわれたのは昨晩のことだ。アクロイドに到着したガダリア民はアクロイド側の指示に従って街に散らばった。多くはアクロイド民の家に招かれたが、全員を受け入れることはできず、あぶれた者は宿場の空き部屋が提供された。
最初、魔法が使える貴族はアクロイドの有力貴族が面倒を見ようと名乗り出ていたが、パウエルが断り街の宿屋に泊る形となっていた。
「……リアは大丈夫かな」
一番の心配はそれだ。リアとはガダリアを出たあの夜から一度も話せていない。家政婦が言うには元気だそうだが、実際に見ないと不安が募るばかりだ。
「ん」
コンコン、とドアをノックする音。その後に勝手にドアを開けようとする音。
「あれ、開かない。まったくいつまで寝てるのよ……」
ネリーの声だった。
「今開けるからちょっと待っててー」
ハーニーは伸びを一つしてベッドを出る。すぐに錠を外してドアを開けた。
「おはよう。あれ?」
「おはようどころかこんにちはの時間なんだけど?」
「ハーニー!」
呆れ顔のネリーの横にいたのはリアだった。リアは動きやすそうな一つなぎのワンピースに、ネリーは昨日と同じ型だが新品らしく汚れのない服を着ている。
「珍しい組み合わせだ」
「さっきリアちゃんのお姉さんと会ったのよ。ハーニーのところへ行くところって聞いてね。私も同じだって言ったら少しの間預かってもらえませんかって、そんな感じ」
「……お姉さんじゃないもん」
小さくつぶやいたのはリア。ネリーはすぐに「あ、ごめんね」と真摯に謝った。
「……まるでネリーじゃないみたいだ」
「私だって人によって態度くらい変える」
それはユーゴを見ていれば分かる。
ハーニーは一番心配だったリアに目を向けた。涙の痕はない。一先ず安心する。
「やあリア。昨日は眠れた?」
「うん! ちゃんと寝たよ!」
「おお、すごく元気だね」
見たままを言うとリアは少し大人びた表情を見せて言う。
「うん! ハーニーにはまだ言ってなかったけど、パパはこれからお天道様になって見ててくれるって言ってたよ! だからリアは元気でいることにした!」
「おひさまか。そりゃすごい」
月でも星でもなく太陽。大きく出たんだなあ、と笑みが零れた。
「ね、リアが元気ならハーニーも嬉しい?」
確かめてくるリアにハーニーは心から肯定した。
「もちろん! そう考えられるなんてリアは偉いなあ」
「えへへ~」
重く引き摺っていなくて良かったと思いながらリアの頭を撫でる。リアを撫でるのは随分久しぶりに感じた。
「んー」
リアが自分の頭を撫でるハーニーの手を取る。そのままハーニーの手を抱えるように押さえこんで、ハーニーの後ろに隠れるようにした。ネリーから隠れるようにしたのだと気付くのに時間はかからなかった。
「ネリー何かしたの?」
「してない。ちょっと失礼じゃない? あ、リアちゃんじゃなくてハーニーがよ」
「そうだったかも。ごめん。……リアどうしたの? ネリーは怖い人じゃないよ。ちょっと変だけどいい人だよ」
「ちょっと変は余計。しかもハーニーが言えること?」
記憶喪失の元居候。
否定できなかった。
「……」
リアはぷいと拗ねたように隠れて何も答えない。それどころかリアの腕に力が込められる。10歳の女の子の力だ。痛みはない。しかし普段見たことのない所作で心配になる。
「リア?」
リアはやがて口を開いた。声は小さくか細く。
「ハーニーはリアの……だもん」
「ええっ!」
声を上げたのはネリーだった。
「私がリアちゃんからハーニーを取っちゃうと思ったの?」
リアが怯えながら頷く。ネリーはやや真顔で否定する。
「ないない。ありえないからそんなの。一番心配しなくていいことだから」
ネリーは笑顔を浮かべて屈んで目線を合わせた。
「私とハーニーの関係は研究者と証明材料……じゃなくて、うーんと、そうね。友達だから……って何でハーニーが一番驚いてるの」
「え、だって僕たちって友達なの?」
「そんなもんでしょ。……何にやけてるの」
「いや……何でもないよ」
友達。友達かあ。ユーゴはまだよく分からないし、タックもそう言えなかったから初めての友達になるのかな。
「そして私はリアちゃんと友達になりたいのよ」
「え」
「そんな話だっけ?」
「そういう話なの。そもそもハーニーなんかよりリアちゃんと友達になりたいし」
「ああ、そう」
初めての友達についての感動はひどく薄められた。
それはそれとしてネリーがリアの傍にいてくれようとすることは心強い。
ハーニーはどうすればいいか分からず困っているリアに助け舟を出す。
「ネリーなら大丈夫だよ。友達になってあげよう? ん」
リアの顔を見て気付く。ただの独占欲ではない寂しげな表情。ハの字の眉はひどく怖がっている証拠。
リアが見つめるのは自分だ。それで不安の中身も察する。
「……僕はどこにも行かないから。大丈夫。約束するよ」
「……約束なら」
リアが隠れるのをやめてネリーの前に全身を現す。いざ前に出て何を話せばいいか分からなくなって困るリアにネリーは笑いかけた。
「私はネリー。これから傍にいてもいい?」
明るくて柔らかい微笑みはリアを安心させたらしく、リアは控えめに頷いた。ハーニーはほっと胸を撫で下ろす。
さっきの不安げな表情を思いだして納得した。
ウィルさんを失って僕までいなくなってしまうんじゃないかと思ってしまったんだろう。父親を亡くしたことだってまだ立ち直ったわけじゃないんだから、誰かに傍にいてほしいと思うのは当たり前だ。いつだって一人にさせないようにしないといけない。
そう考えるとネリーの存在はありがたい。似た境遇で放っておけないと言うネリーは、きっと誰より共感してあげられる人だ。親を知らない僕なんかよりずっと。
「そういえば二人ともどうしてここに? 何かあったの?」
「リアはハーニーに会いたかったから!」
「そっかあ。僕も会いたかったから一緒だね」
拭いきれない心配がそうさせるのか、つい頭を撫でてしまう。リアは目を細めて喜んだ。
「ネリーは?」
「えっ?」
ハーニーがリアを撫でるのをぼおっと眺めていたネリーは、慌てて視線を彷徨わせた。
「言っておくけどね、私は以前この街に来たことがあるのよ」
「うん」
「あと、これは恩返しだから妙な勘違いはしないように。いい?」
「う、うん?」
随分念入りな前置きだ。一体何をしに来たんだ……?
「実は街を案内してあげようかと──」
「失礼。何の集まりだね」
「あ、パウエルさん」
ドアの向こうに現れた人影の名を呼ぶ。パウエルが皺一つない燕尾服姿で立っていた。
「……邪魔だったかね」
パウエルがネリーを見ながら言う。ネリーは話を遮られたことに不快感を露わにしていた。
「いーえ、別に大した用事じゃありませんし大丈夫ですけど」と口を尖らせる。
「そうか。なら構わないな」
どう見ても大したことあるネリーの様子だが、それを見てなお自分の要件を済まそうとするパウエルに素直に感心する。不躾なのか豪胆なのか分からないけど、僕だったら引き下がるだろう。
「アクロイドに着いたら私の師に合わせると言ったろう。私も久しく会ってないので行こうと思ってね。しかし」
パウエルがネリーとリアを見る。
「忙しいようならまたの機会にするが」
「私は別に大した用事じゃないですから。……それにパウエル卿の師匠にあたる方でしたら一度お会いしてみたいです」
「リアはハーニーと一緒なら……」
そう言いながらリアはハーニーの腕を引っ張る。
とりあえず僕と一緒ならどこでもいいということか。
「ふむ。私は誰が共に来ても構わんよ。肝心なのはハーニー君。君がどうするかだ」
「僕は……」
前回の戦いを経て実感していた。
僕には何もかもが足りない。今まで何とかやってこれたのは運とセツの助けがあったからで、僕に力があるわけじゃない。このままだとそのうち命を落とすだろう。
稽古をつけてもらえるのなら迷うことはないはずだ。
「僕は行きたい、です」
答えて微かな違和感を覚えた。そもそも僕が戦う必要はあるのだろうか。死なないように頑張るといえばおかしくないが、そもそも戦闘に参加する理由がハッキリしない。そんな中で力が欲しいというあやふやさが、曖昧に思えた。
出自も存在も曖昧なうえ、こんなところまでぼんやりしていていいのだろうか。
……しかし現状で安心できるわけでもない。とにかくやれることをやるしかないんだ。この選択は間違っていないはず。
「では行こう。と言いたいところだが……」
「?」
パウエルはハーニーの足から頭まで流れるような視線を送って、苦笑した。
「起きたばかりのその様相はいかんな。少し待つから準備したまえ」
くす、とリアが笑ってネリーは呆れた。恥ずかしさに顔が熱くなるのが分かった。
◇
アクロイドという街は目立った特産品はないが、安定した市政が行われているようだった。行き交う住民の顔が上向きなことがその街の状況を表している。またガダリアから来た人間に反感はないらしく、ハーニー達とすれ違う市民はただもの珍しそうに見るだけだった。同情の色が混じるのは故郷を失ったことに対するものだろう。
いつだったかタックが「ガダリアは家のない人間に優しいけど、アクロイドは住みづらいんだよな。俺たちみたいなのに厳しいんだ」と言っていたのに、住民から排他的なものは感じられなかった。道行く人には活力が漲っていて他者を思いやる余裕も見られる。
前評判と違って優しく、不思議な活気のある街。
それがアクロイドの印象だった。
パウエルの師匠がいるという山は、アクロイドの中央街から馬車を半刻走らせてやっと見える位置にあった。パウエルがいなければ結構な距離を歩かなければなかっただろう。
山は春先らしい青さに満ちていた。道はあるにはあるが、人が踏み慣らした自然の道路だ。
坂道の荒れが見て取れる辺りで馬車を降り、それからは歩きでパウエルの師の家を目指す。慣れない山道で心配だったが、リアは見るもの全てに目を輝かせて終始元気だった。
山の中腹を過ぎたあたりでリアは前方を指さした。
「あ! 家あったよ!」
「うん。見えたけど、あれがパウエルさんの師匠が住んでいる家ですか?」
「ああ。意外かね?」
その民家はアクロイドに散在している町民の家よりも粗末に見えた。木造の平屋。年季があるといえるが、ただ古ぼけているともいえる。
「その人も魔法使いなんですよね?」
「当然だ」
魔法が使えるのなら貴族だ。貴族がこんな辺鄙なところで、しかもぼろぼろの家に住んでいるなんてことがあるんだろうか。
近づいてみても変わらず古い家が一軒あるだけ。家屋は山の中腹にあるが、坂は削られて平らにされている。家の周囲は伐採されていて日光を遮るものはない。
「あれ?」
家の陰に男の子がいるのに気付く。年はリアと同じくらいか。少年はこちらに気付くとすぐに家へ引っ込んでいった。
「誰ですか?」
「私は知らん。師匠には子も孫もいないはずだが……まあ本人に聞けば分かることか」
木造の家の入口はドアもなく、暖簾代わりの布がかけられているだけだった。玄関にあたるところへ踏み入ると、中は外装と違って小奇麗に掃除されている。
傍にある鈴をパウエルが鳴らすがやってくるのは静けさ。
「留守かもね」
ネリーのつぶやきに呼応するように奥から老人が出てきた。
「いや、おるよ」
現れた老人は白髪で皺だらけであるが、腰は曲がっておらずしっかりと立っていた。堂々とした姿勢はパウエルのように威風を感じさせ、清潔感がある。着ている服は町民が着るようなもので、家といい服といい貴族らしくない。貴族貴族しているパウエルの師匠には見えなかった。
「ご無沙汰しています」
「お前、パウエルか」
老人は目を見開き驚いていた。
「はい。師匠も元気なようで何よりです」
「……10年ぶりになるかね」
ハーニーはぎょっとする。パウエルは自然体で「はい」と答えた。
師弟の関係なのに10年ぶりに会うっていうのは普通なんだろうか?
「……何の用だ」
老人の言葉にはどこか棘があった。この二人に何かあったのかという不安が湧いて出る。
「実はお頼みしたいことが」
「ほう?」
老人の目つきは厳しい。老いよりも威厳が前に出ていて恐ろしく見える。
一つ、ネリーのため息が聞こえた。
「やれやれね。……リアちゃん、ちょっと外の空気吸ってこようか」
目配せがなくても、気を遣って出て行こうとしているのだと分かった。
「やだよ! ハーニーといる!」
リアはそう言ってハーニーの手を放さない。
「ええと……」
ハーニーが困った顔をしてネリーを窺うと、しっかりしなさいよ、と睨む視線が返ってきた。
ハーニーは膝を軒先の床に置いてリアに真っ直ぐ向き合う。
「少しだけ待ってて? ちゃんと戻るから」
「……これも約束ね!」
ハーニーが頷くとリアはむしろ率先して外に出て行った。ネリーは少し寂しそうな顔をしていたが、声をかける間もなくネリーはリアを追ってこの場を離れる。
残されたのは年がそれぞれ離れた男三人。
「で、何かね。話というのは」
「実は、この青年に戦う術を身に着けさせてやりたいのです──」
パウエルが願い出たのはハーニーを弟子に取ってほしいということだった。
伸びしろがあるが、まるで素人であること。性格が真っ直ぐであること。記憶がなく身寄りもないことなど、パウエルはハーニーに関することを語った。
話が終わると老人は目を背けながら応えた。
「弟子を取る気はない」
介入する余地のない口調でパウエルの師匠は断言した。パウエルは動じずに尋ねる。
「なぜですか」
「……」
あったのは沈黙。パウエルとその師匠の間に流れる無音には、二人にしか分からないものがあるように感じた。ハーニーが間に入ることができない師弟の絆のような何か。
先に発言したのはパウエルだった。
「先ほど少年を見かけましたが、誰かから預かりなられて?」
老人の纏う空気が変わった、気がした。しかし老人の表面に変化はない。
「あれは私の姪の子だ。故あって今は預かっているが……弟子としてじゃない。それよりもパウエル。お前はまだガダリアにいるのかい」
「今はもう違います。領主失格ですが放棄しました」
「事情は知っているよ。そして私はそういうことを言っているわけじゃない。私が言いたいのはね、パウエル。先の戦争であれだけ戦果を挙げたお前が、何故あんなところで留まらなければならんのか、ということだ」
「……」
「お前なら上に立とうと思えばいくらでも立てるだろう。まだ引き摺っているのかい」
引き摺る?
パウエルは「いいえ」と毅然と答えた。
「恨んでもいないと言うか?」
「恨むことで何かが戻ってくるわけではありませんから」
「……」
「私は誇りに生き、誇りに殉じます。それが私の生きる理由の全てです。手を汚さなければ上に立てないのなら、それも仕方ないのでしょう」
その言葉の深い意味も背景も分からない。ただ込められた気持ちの純粋さは伝わる。
「……残念だよ。お前には期待していたんだがね」
老人は惜しそうな顔をして暖簾越しに外を見る。外ではネリーとリアが自然と戯れていた。パウエルもそれに倣って外を眺める。
ハーニーは戸惑っていた。弟子は取らないと言われたことはもちろんとして、貴族らしく誇らしく生きようとするパウエルのどこが残念なのか分からない。それはいいことではないのか。
ハーニーはふと、老人を見た。老人は──パウエルの師匠であるはずの人は、外を眺めずパウエルを細目に見ていた。
「っ」
その、目の色。弟子を見る親愛の目があるところに、暗い意志が込められているような危険色が見えた。こともすれば睨むような眼。
「ど、どうしてそんな目で見ているんです?」
ハーニーが喋ったことでパウエルは視線を室内に戻す。老人は驚愕の表情でハーニーを見た。
「君は……貴族の次男三男だったか?」
「す、すみません。経歴はパウエルさんが話した通りで何も……」
「ふむ。記憶がない、か……」
老人がハーニーをじろりと眺める。会ってから初めて一人の人間として見られた気がした。
やがて老人はパウエルに首を向ける。
「気が変わった」
「では」
パウエルが詰め寄ろうをするのを「しかし」と遮る。
「しかし、私に弟子を取る気がないのは変わらない。戦いの心構えを説くくらいはいいが……それまでだ。師事というわけにはいかん。弟子とするならパウエル。お前がやりなさい」
「私が?」
「師を持つ者は師になれるものだ。それが嫌なら私は彼に何も語らないし鍛えもしない。それにお前が見出したのだ。お前がやるのが道理だろうよ。……場所はここを使いなさい」
「しかし私は……」
老人は有無を言わせない。
「一週間だ。一週間自由にここへ来ていい。表の広場はお前も知っている通り鍛錬の場になる。勝手は分かるね? お前が若いころ生きた場所だ」
「……どうしてもですか」
「くどいぞ。誇りに生きるというのは口先だけか」
その一言はパウエルにとって何よりも重かったらしい。
「分かりました。そうしましょう」
そう口にした時にはパウエルの顔に迷いや渋りはなかった。
「パウエルさんが師匠……」
「師匠はやめてくれるかね。私と被る。これまでと同じで構わん」
パウエルの師匠はやりとりを見終えて、名乗った。
「私はリオネルという。私は師ではないから好きなように呼ぶといい」
リオネルは貴族姓、名字を名乗らなかった。
「ハーニーと言ったね? 時間に余裕があるときは来れるだけここへ来なさい。パウエル。お前はこれから何かあるのか」
「これから領主、ピエール・アクロイドの館で会談があります。ですのでハーニー君のことはお任せしたいのですが」
「ピエールか……」
リオネルがあからさまに不機嫌になる。それは先ほど一瞬見えた危険な色に似ていた。
何に気を悪くしたのかは分からない。
「……ふむ。ハーニーも連れて行きなさい」
「えっ」と声を上げたのはハーニー。パウエルも動揺を見せた。
「お言葉ですが師匠。今後の話をしに行くわけで、彼がいて何か変わるわけでは……」
リオネルは執着するように断固として譲らなかった。
「これも鍛錬の一環になる。それにパウエル。記憶の邪魔しない素直な目線は、お前にも分からせるかもしれない」
「何をです」
「……さてね。邪魔することもないさ。なあ、ハーニー」
ハーニーは慌て気味に頷いた。それ以上リオネルの言に従わない旨の話はなかった。
◇
アクロイドを治める領主、ピエール・アクロイドは地名の通り代々土地を治めている。地名の元が名字なのはよくあることで、ガダリアもパウエルが後から管理することになっただけで人名が元だ。それくらいはハーニーも知っている。
ピエール邸に着いたのは太陽も落ちかける夕暮れだった。ネリーとリアとは既に別れている。ネリーは街に入った時別れ、リアは宿の一室まで送った。その時部屋に家政婦はいなかったが、「もうすぐ戻ってくるんだよ!」とリアが言っていたので大丈夫なのだろう。
「すごい豪邸だ……」
夕焼けにそびえるピエール邸はウィルの屋敷の2倍以上大きかった。贅沢を極めたような外装に、広大な庭園。とても美しいが平凡だった町並みとの差が激しい。貧富の差が見て取れる。
「ようこそいらっしゃいました。こちらになります」
屋敷の前で待っていた給仕に案内されて、ピエールのいる書斎に通される。
「御足労どうも」
簡潔に労わったのが領主ピエール。身長はハーニーと同じくらいでパウエルより低いが、身にする貴族服はパウエルより華美だ。細身で片目にモノクル。釣り上がった目は印象悪く、年は30代ほどか。
「こちらこそ皆を迎え入れていただいて感謝している」
「そんなかしこまらなくてもいいですよ。領地を失ったとはいえ、パウエル卿の方が立場は上なんですから」
……嘲っている。
ハーニーは僅かにピエールを睨んだ。
パウエルは眉一つ動かさず受け入れる。
「領主失格なのは痛感している。今後についての話に移らせていただきたい」
「過去を考えても仕方ないでしょうし、思い出したくもないでしょう……ああ失礼、これからの話でしたね。場を設けていますからそこで」
「場というと?」
ピエールは自慢げに語る。
「わが領地アクロイドは政を皆で行うのです。商人や守備隊とも会合を重ねて街の行く末を決める。あなたが一人で何でも決めるガダリアと違ってね。まあ、突然のガダリア民受け入れには話し合う余裕はありませんでしたが」
あからさまに馬鹿にしている。ハーニーは言わせておいていいのか、と視線を送るがパウエルは反論どころか反応すらしない。ただ受け止めるばかりだ。
「さ、こちらです」
ピエールが先導して廊下を歩く。日が暮れ始めていて廊下に闇が増しつつあった。
「ああ、失礼。暗かったですね」
ピエールが指を鳴らす。最寄りの廊下の壁に掛けられた燭台に火が付いた。そしてピエールは歩きながら何度も指を鳴らす。その度に最寄りの一つに灯りが点る。
「しかし災難でしたねえ。北方ではこちらよりずいぶん侵攻が進んでいるそうですよ。そう考えるとガダリアは長く持った方ですか。一日だけですが」
この人は……指を鳴らす度火を付けて見せることといい、喋り口といい、力を誇示しているんだ。
「あなたほどの貴族がいるのに耐えられなかったのは守備隊の怠慢が原因だと聞きました。いえまあ、おかしいことではないですか。辺鄙なところです。ろくな貴族が集まるはずないですよね?」
「それは言い過ぎじゃ……!」
「口を挟むなハーニー君。これは私の問題だ」
「少し言葉が過ぎましたねえ。失礼失礼」
そう言いながらピエールはニタニタ笑うのをやめなかった。
一々燭台に火を付ける動作が煩わしくなってきたところで屋敷の一室に着く。
部屋は広く、中央に円卓。相変わらず華美な装飾がされていた。
「そちらに掛けてください。しまった。椅子が一つしかありませんね。お付きの方は……」
「……立ってますよ」
ハーニーはぶっきらぼうに言った。ピエールは鼻で笑って「そうですか」と言い席に座る。
部屋の中央にあるテーブルにはピエールを覗いて四人の男がいた。彼らは卑しそうな目ばかりしていて部屋を居心地の悪い空間にしている。
「皆様お待たせして申し訳ありません。それでは早速今後の動向についてですが、まずは現在の状況を説明いたしましょう」
ピエールはまず西国王都について話した。
「未だ連絡はありませんが、東国の侵攻は凄まじく、要所を抜かれ王都まで迫っています。王都手前で応戦し何とかなっているようです」
商人らしき一人が苛立った。
「そんなことはどうでもいいっ! アクロイドはどうなんだ。ガダリアは東国の手に落ちたというじゃないか。ここまで戦火が飛ぶんじゃないのか!?」
ほかの商人たちもざわめく。すかさずピエールは心配を打ち消した。
「アクロイド防衛の心配はいりません。ガダリアと違い守備隊の士気は高く、逃亡する者もいない。人数も相当数いるのです。また、敵国は王都のある北攻めに集中し、大部分をそちらに割いていると思われます。大陸中部のアクロイドが抜かれることはありません」
大仰な言い方は同席する商人のみに向けてられていた。商人を失えば財政は苦しくなる。それを防ぐために商人には安心してもらいたいらしい。
ハーニーはそれに違和感を覚えた。貴族が商人の顔を窺うというのは、今まで会った貴族たちではあり得なさそうなことだ。
「それで、これからアクロイドはどのような行動をとるのか」
パウエルが尋ねる。ピエールは口角を僅かに上げた。
「静観でしょうな」
「静観? 国の危急の時に何もせずただ見ているというのか」
「国から通達は何も来ていない。それにここから王都まで援軍を向かわせようとして何日かかることか……それならばアクロイドを死守すべきでしょう」
空気の温度が増した気がしてパウエルを見る。静かな怒りが滲み出ているようだった。
「国が滅ぶかという時に、ただ眺めているというのか」
「お言葉ですが私はアクロイドの領主です。この地を守る責任がある。それを放って離れろというのは考えが甘いのでは? あなたとは違って私は領地を失っていないのですよ」
「悠長な……。国が滅びることは領地を失うことと同義だろう。土地よりも大切な、民の基盤としての国を守るべきだ。それを支えるのが貴族の責任ではないか」
「責任? あなたがそれを言いますか。任された地を失ったあなたが。どうしてもと言うならあなたが行けばいい。守るものがないあなたなら適任だ。そうでしょう? 私はそれよりガダリアを取り戻す方がいいと思いますがね」
「今ガダリアを取り戻しても国がなくなっては意味がない。考えてもみたまえ。東国は貴族が多い国ではない。貴族の系譜は解体された、力がない国のはずなんだぞ。それなのに城塞都市ダランが抜かれ、王都にまで迫っている。その意味がなぜ分からんのだ」
「つまり西国には我々の知りえない武力があるというのでしょう? それならなおのことアクロイドの防衛力を割けませんね。ここには重要な商人やその家族も暮らしている。極端なことを言えば、彼らを失うことは国を失うことよりも痛いのですよ」
「結局は己の権力を守りたいだけか……!」
ピエールは呆れたように首を振った。
「ですから……それならガダリア貴族が行けばいい。ああ? ろくにいないんでしたっけ? 少数精鋭で結構ですね」
「……付き合っていられんな」
パウエルが席を立つ。
「パ、パウエルさん?」
「すまないが失礼させてもらう。現状を聞けただけで十分だ。これ以上は私がいても変わらない。そうだろう?」
ピエールが勝ち誇るように鼻を膨らませる。
「そうですね。いても意味、ないですね。防衛に関してガダリア貴族に頼むことはありませんし」
「ならば結構」
パウエルはそう言うと踵を返して部屋を出て行く。ハーニーもすぐに追いかけた。背後から聞こえる小さく笑いあう声はハーニーの背中を押す。
部屋を出てすぐのところでパウエルは立っていた。陽は完全に落ち、燭台に点けられた火は全て消えていて廊下はひどく暗い。
「ああいう輩は好かん」
「どうして何も言い返さないんですか」
パウエルは諭すように言う。
「言い返すべきは貴族としての立ち位置だけだった。他はあながち間違っていない。私が領主として最低であることは事実だからな」
「……それでも、向こうの態度はひどすぎですよ」
口を尖らせるハーニーをパウエルは訝しむ。
「そんなに私の肩を持っていたか?」
「え?」
「君は私を快く思っていなかったはずだ。睨まれていた覚えがある。それにしては随分と私の味方をすると思ってね」
「そ、そうですか……?」
パウエルは答えを追及しなかった。すぐに話を戻す。
「ピエールにとって私はいい的だからな。この地で生まれた彼はこの地で没するもの。私は都から辺境に飛ばされた身。彼の自尊心を満たすには格好の存在だよ」
「パウエルさんはそれでいいんですか」
「私は私の信じる誇りに従う。そのためなら些末なことだ。……やれ、見送りもなく、明りもなしか。それならば」
パチン。パウエルが指を鳴らす。すると長い廊下全ての燭台の火が一斉に点いた。
「さて、帰るとしよう。こんなところで時間を無駄にするのはもったいない」
パウエルはそう言ってすたすたと先を歩いていく。その横顔はさっきよりも晴れて見えた。
ハーニーは一斉に点った火が揺れる燭台を見る。
パウエルさんも案外負けず嫌いなところがあるんだな。
くすりと笑ってパウエルについていった。
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