ガダリア 襲撃 4

 川までもう少しというところ。その地点でハーニーとパウエルは馬車の残骸に囲まれている。

 馬車を襲う魔法の第一撃はパウエルの炎によって無効化されたが、術者は見えない。

 魔法は川の方から飛んできたはずだけど……。


『川の窪地に隠れて4人います』


 突然聞こえた無機質な女の声。

 驚いて声のした場所、自分の右腕に目を落とす。


「君が?」


 右腕ではSETUの字が光ったり消えたりしている。何かが右腕に宿っているような気配をはっきり感じた。


「くるぞ」


 右腕から返事が来る前に追撃がきた。とてつもない水音と共に川から吹き上がった水が、生き物のようにうねりながら突進してくる。

 怒涛の勢いにハーニーは後ずさった。


「うわあっ」

「この程度」


 浮足立つハーニーとは対照的に、パウエルは余裕ある面持ちで迫りくる水流を睨む。先刻の馬車の中でやったことと同じように、何事か呟いて杖で大地を叩く。

 現れ出たのは連なる炎柱。

 そびえ立つ炎は水の浸入を一切許さない壁となった。

 炎に飛び込む水は一瞬にして蒸発し消えていく。水の蒸発する音が絶え間なく続いた。


「ほう、馬鹿ではないようだ」


 パウエルの言葉の意味はすぐに理解することになった。

 絶え間なくやってくる莫大な量の水は全て蒸発し、一帯に水蒸気による霧を生み出した。


「な、何も見えない……」


 数歩先すら見えないほどの濃霧。意図的に行われた戦場の変化は敵にとって有利だ。


「後ろについてくれたまえ」


 パウエルが粛々と言った。神妙に頷いてパウエルの背後を守る。警戒するが全方位霧が満ちていて何も視認できない。


「魔法の戦いだなんて、どうすればいいんだ……」


 それは自分に向けたつもりだったが、返事は右腕からきた。


『私は魔法の補助と制御を行います。あなたのイメージを強く、鮮明に具現化するのが私と捉えてもらって構いません』


 女の声は心の内に聞こえるわけではなく、空気が揺れて聞こえる音だった。理屈は分からないが、腕が喋っているようで不思議だ。


「何なんだよ君は」

『私は型式番号一、人工魔法精神体のセツです。今は話している場合ではないと思います』

「なんだっていうんだ……」


 喋る右腕。突然の窮地。

 頭の中は混乱していた。

 元々魔法の使い方など全く知らない。気付けば最初からそれらしいことができただけのこと。自分でも魔法をどうやって、なぜ、行使しているのかよく分かっていないのに使いこなせる気は全くしない。

 とはいえ、そんなことはお構いなしに時間は動く。


『来ます』


 セツの言葉の数瞬後、足音もなく人影が見えた。

 霧を破って大剣を振りかぶった大男が眼前に飛び込んでくる。無精ひげの目立つ顔は愉悦をまったく伴わない。

 殺される。自分を狙うこの男に躊躇いはない。


「う、くっ……!」


 とっさに右腕を盾にした。歯を強く噛みしめて剣撃に備える。

 思い浮かべるのはウィル邸で襲われた時の事。

 でも……想像するだけでできるのか?


『少しは信用してください』


 まるで心を読んだかのような声。抑揚のない平坦な声はハーニーを冷静にした。

 魔法の理屈なんて欠片も知らない。だから自分に出来ることなんて一つだけだ。

 想像する。

 そして想像をそのまま目の前の世界に移す。

 それだけだ。


「盾! 右腕にッ!」


 必要な事柄だけを自棄気味に叫んだ。

 ぶわっと右腕を中心に半透明な盾が広がった。

 肉薄する大男の大剣が振り下ろされる。

 キィン、と剣の鳴る音だけが響いた。


「ぐ……!」


 振り下ろされた大剣の力は凄まじく横に弾いて逸らすのが精いっぱいだった。


「無色? チッ。妙な魔法を使う」


 剣を弾かれた大男は初撃に失敗したと見るや、すぐ霧の中に消えていった。


「はあっ……はあっ!」


 右腕に強烈な痺れ。だが腕を下す暇などない。荒げた息をそのままに第二撃に備える。


「僕は想像だけすればいい。想像だけしてれば……気を抜いちゃいけない……」


 自分に言い聞かせる。視界に映る全ての変化を見逃すまいと集中する。

 全方位白い霧でどこから襲いかかってくるか分からない。半透明な盾を透かして前を確認できるのが心強かった。


『上です』


 慌てて顔を上げる。そこだけ霧が切り抜かれているように明るく、奥にオレンジ色の空。幻想的な光景を背景にさっきとは違う男、大剣を持った金髪の青年が迫りくる。大剣の刃先を下にしてハーニー目がけて降ってくる。

 ハーニーはそれを防ぐため右腕の盾を真上に構えた。

 ただ受けても貫かれる。そう直感して内心でもっと強靭な盾を想像した。

 想像しようとした。

 だが、思考は別のことに奪われる。

 視界の端。霧の奥に別の人影が見えた。

 最初にハーニーを襲った無精ひげの大男が、勝利を確信した笑みを浮かべて剣を大地に突き刺している。

 そしてその大地にはいつの間にか水が張っていた。見れば水はハーニーの足元まで広がっている。


「荒ませ紫水這う雷閃──水蛇雷!」


 男の自信に満ちた詠唱が耳を打った。

 大男が大地に刺した大剣から紫色の鋭い光が流れ出る。雷撃は地表にできた水面を走った。

 この霧は視界を奪うことだけが目的ではなかったのだ。それによって生まれた水蒸気で、地面に雷魔法を通す水たまりを作るのが本当の狙い。


「くうっ」


 気付いたところでハーニーには状況を打破する余裕も時間もなかった。

 ダメだ。どうしようもない。

 その諦念を打ち消したのは目の前の事実だった。


「落ち着きたまえ」


 パウエルの冷静な声。同時に彼を中心に乾いた熱気が溢れ出た。足元の水たまりが一瞬にして蒸発する。


「くそが! 化け物かよ!」


 雷魔法を放った男の怒声。

 助かった。

 その安堵はハーニーの緊張を完全に奪っていた。


「もらったあ!」


 上空から聞こえる声。

 慌てて見上げると金髪の青年が今にもハーニーを突き刺そうと落ちてきていた。

 雷魔法に気を取られたせいで、受け止める盾を形成できていない。

 ハーニーは慌てて強固な盾を想像する。だが焦りのせいで盾の揺らめきは薄い。想像が荒すぎて魔法にならない。


「くっ」


 無色透明の盾は自由落下する大剣を防ぐ頑強さを持たなかった。





『危ないっ!』


 緊迫した女性の声。生満ちる高い声。焦りに彩られた声が誰のものなのか分からなかった。

 剣がハーニーに到達しようとしたその時、甲高い女性の声と共にハーニーの右腕から爆発のような風が四方に広がった。

 いや風ではない。放散したのは生暖かい何か。魔法の大元、魔力と言われる力そのものだ。

 見えない圧力はハーニーに敵為すものを拒絶するかのように、青年も、剣も、霧も、炎壁が防いでいた水流までも吹き飛ばし、外へと押し出した。

 瞬く間に水蒸気が霧散し世界が広がる。オレンジと青の混じった美しい空が全天に戻る。


「なんだっ!? ぐっ」


 驚愕の声を上げながら、地面に叩きつけられる金髪の剣士。その表情は苦悶より疑問を示している。何が起こったか分かっていないのはハーニーも同じだ。

 ハーニーは自らの右腕をまじまじと見た。


「君が助けてくれた……?」


 それまでと変わらずSETUの字が光っている。右腕には痺れが残っていて感覚が虚ろだ。


「退きあげだ!」


 誰が言いだしたか分からない大声。無精ひげの大男は倒れて動けない青年を肩に担いで走り去ろうとする。

 ハーニーは慌ててパウエルを見た。


「放っておいていいんですかっ?」

「そこは貴族の戦いの機微だ。君にもそのうち分かる時がくる」


 遠ざかる後ろ姿はやがて見えなくなる。

 それにしても。


「何でもありだ……」


 無意識に右腕を擦る。剣を受けたことによる痺れは取れつつあった。


「さっきのは何かね。私が知らない魔法のようだが」

「さっきのは……僕にもよく分からないです。何がなんだか」

「ふむ。何にせよよくやってくれた」


 パウエルはそれだけ言って川とは逆の方向へ歩いていく。襲撃者とは逆の方向。ガダリアのある方向だ。


「どこへ行くんですか?」

「ガダリアへ帰るに決まっているだろう」


 パウエルは夕日の中をさっさと歩いていく。ハーニーもそれを追いかけた。

 振り返っても馬車の残骸しかない。御者も馬とともに逃げていった。


「……はあ」


 突然ウィルが襲われて、突然こんな場所に連れ出されて、頭が現状を理解していないらしい。全てをぼんやりと受け入れている、夢のような不安定感があった。大地を踏みしめる足がふわふわしている。

 ハーニーは右腕に話しかけた。


「さっきは……君が助けてくれたんだよね」


 沈黙。

 戦ってる時しか話せないのかな? 

 そう思ったが、違った。


『……本来私にはあのような力はないはずなのですが』


 感情を感じさせない冷静な声。さっき一度だけ聞こえた切迫した声の面影はなかった。

 今の声はあまりに抑揚がない。心のない人間が話すような声だった。そんな人間を知っているわけではないが、その例えがしっくりくる。


『私という存在を宿らせるための媒体があのガントレットなのです。それが何が作用したのか、私はあなたに転移してしまった。その影響なのかもしれません』

「転移って……じゃあやっぱり君は僕の腕にいるってこと?」

『いる、という表現が的確か疑問ですが、そんなところでしょう』

「……腕と話すなんて変な気分だ」

『私の責任ではありません』


 すねたように聞こえて頬が緩む。実際声に感情はなく無機質でしかないのだが、タイミングでそう聞こえた。


「なんというかさ、君は僕の右腕にいるけれど他人って感じがするよ。あっ、悪い意味じゃなくてさ……どういえばいいかな。僕とは別にちゃんと存在してる感じ」

『どういうことですか』

「うまく言葉にできないな……君のことは何て呼べばいい?」

『先程申し上げた通り、名称はセツとなっています。一という古代語です』

「これか」


 右腕に焼き付いた文字。

 SETU。セツ。

 どうして右腕に転移したのか。そもそもセツは何なのか。

 謎はたくさんあったが、気にならなかった。それよりも感謝の念があった。


「セツ……さんなのかな? ありがとう。君には助けてもらってばかりだ」


 少なくとも自分一人だったなら二回は死んでいる。


『それが私の役目ですから。それと呼び捨てで構いません。人のルールにない存在ですから』

「そっか。でも、助けてくれてありがとう」

『私は……私の意志で何かを為すことはできません。私ではないと思います』

「……それでも女の人の声が聞こえたんだよ」


 ハーニーは自分でも不思議なくらい自然に笑うことが出来た。次々やってきた突然の出来事たちのせいで僕はどうにかなってるのかもしれない、なんて他人事のように思っている自分がいることに不快感はない。

 いつの間にか自分の身体に宿った奇妙な隣人を受け入れていた。





 街に戻った時には既に日は暮れていた。緊急事態のため、いたるところに灯火が並んでいて暗くはない。

 ハーニーはリアとウィルは大丈夫だろうかと心配しながら中央広場へ戻る。

 先に広場に戻っていたパウエルが、ハーニーを見つけるなり近づいてきて言った。


「……ついてきたまえ」

「……?」


 事情を知らされないままパウエルについていく。広場を出るとき周囲の人の目に同情の色があったせいで思い当たった。


「もしかしてウィルさんは……」

「……」


 答えは沈黙によって為された。


「悲しくないのか」


 パウエルの質問に責める語気はなかった。


「僕は……ウィルさんに恩を感じてはいます。でも、やっぱり……好きじゃなかったんです。でも……嫌な気分です。悔しいような、苦しいような……」

「私を恨むかね」

「恨む? なぜですか」

「私は君を連れて戦いに出た。その間にウィルが逝った。手並みを知る目的だったが、私情も込んでいた」

「それは……」


 カツカツと鳴る二人の足音を聞きながら答える。


「……もし、僕がパウエルさんと一緒に行かなかったら、ここまでウィルさんのことを気にしなかったと思うんです。僕を妬んでいたこととか、その訳を知らなかったならきっと……」


 足が止まった。それに気づいたパウエルも立ち止る。


「僕は今後悔してます。もっとウィルさんと話すことがあった。話すべきだった……そんな気がします。でもパウエルさんと話さなかったらこうはならなかった。だから……」


 二の句が続かない。これでよかったとは言い切れず、だからといってどう言葉にすればいいか分からず、「すみません」が口をついて出た。


「素直だが生きるのが下手そうだ。……ウィルはそういうところを妬んでいたんだろうな」


 その後パウエルから出た「今となってはもう分からないが」という言葉は胸に重くのしかかった。その後ウィルの屋敷の庭に作られた簡素な墓を前にした時よりも、その言葉は実感を伴っていた。

 ウィルが早い埋葬を望んだことで、ハーニーが戦場にいる間に葬儀が終わったという。

 母親だけでなく、父親まで失ってしまったリアのことが気がかりだったが行き違いになったらしく屋敷にいなかった。

 ハーニーとパウエルはウィルの墓から広場へ戻る。石畳の道には二人の影しかない。


「リアはどうなるんでしょう……」

「私が責任をもって面倒はみる。衣食住は何とかしよう」

「養子として受け入れるんですか?」

「養子か……魔法の使うことのできる貴族の養子には、同じように魔法を使える者が通例だ」

「……?」


 通例などと間に挟むのに違和感。ずっと毅然としていたパウエルだけに、らしくない印象を受けた。

 パウエルは気付かず続ける。


「貴族の子でも稀に魔法が使えない子がいる。そういった場合、他家の二子三子を養子にもらうという話はよくある」

「養子はだめですか」

「ダメとは言わんがね……今はそれどころではあるまい。まずは今後の動向を考えなければならん」


 歯に物が引っかかったような言い方はパウエルらしくないが、領主として考えなければならないことがあるのだろう。

 僕だってこれからを考えなくちゃいけない。これからどうするのか。一人でどうやって生きていくのか。

 ……一人?

 ウィルが死に、リアはパウエルが引き取るとなったなら……。

 本当に一人になったのは今?


「僕はこれからどうなるんでしょうか」

「……」

「僕には……家族がいません。記憶だって3年より前がない。親しい人もウィルさんがいいところ。パウエルさんがさっき言った通りです。恥ずかしいことかもしれないけど、僕には理由がない。生きる理由も、ここにいる理由も……この先どうすればいいのか、見当もつきません……」


 先は完全な闇だった。

 誰かが手を差し伸べてくれることはない。指標となるものもない。未来を考えると自分が立っているところがどこなのか見失いそうになる。

 考えたくない。逃げ出したい。

 でも何から逃げればいいのか分からない。

 答えが、ない。


「理由ならきっと見つかる」

「それまでは……ただ生きていればいいんですか。目的も気持ちもなく……それはいいことなんでしょうか」


 心が下へ下へ沈んでいくのが自分で分かる。自分を襲う孤独感が、言い知れぬ焦りを掻きたてる。


「理由を誰かに求めるのは甘えではないかね」


 パウエルの言葉が胸に突き刺さった。

 ハーニーは歩みを止めて語気を荒げる。


「じゃあ……じゃあどうすればいいんですかっ。否定してばっかりで……!」

「それは──」

「分かってますよ、悪いのは僕だってことはっ! 人に頼るのがダメだって言うんでしょう?!」

「……」


 無言は肯定の証だった。ハーニーは悔しさに唇を噛んだ。


「私にもそういう時期があってね」

「……あなたが?」


 俯いていた顔を上げる。パウエルはこちらに背を向けて星の輝く夜空を見ていた。


「君とは違うが、生きる理由を見失った時があった、それでも時の流れの中で、私は代わりとなるものをはっきり見つけた」


 その声は辛そうで安らかだった。


「君はまだ若い。理由になるものはたくさん見つかり、その都度変わっていくだろう。それでいい。それが本当の人生の理由になるかは重要ではない。今を生きる理由だけあればいい……私はそう思うね」


 僕のやりたいこと。

 僕にできること。

 今を生きる理由。

 考えてもぱっと浮かばなかった。

 ウィルは死んで、リアはパウエルが引き取って。僕にはもう役目がない。自分を後見してくれる人はいない。


「僕には……今を生きる理由がない」

「そうやって焦って、自分を失わないことだ」


 そう言い切るとパウエルはすたすたと歩いて行った。

 その突き放すような言葉は、与えられることばかり望むなと言っているように感じた。また、焦るな、先は長いんだ、とも。

 励ましにも拒絶にも受け取ることが出来た。

 一人置いて行かれたハーニーは茫然としながら右腕に目を落とした。


「君は……セツはどう思う?」


 しばしの静寂の後、無機質な返事。


『私は所詮道具でしかありません。ですからあなたの求める回答は出来ないと思います。あなたに生きる理由を与えることも』


 生きる理由を与えてほしかったということを看破されて、ハーニーは胸にじくりと痛みを感じた。しかし、「だよね」と誤魔化し笑うのを遮ったのも、静かで人間らしくない声だった。


『しかし、あなたがここにいてはいけない理由はありません。生きてはいけないなどということはないんです』


 それはただ事実を淡々と述べたものだ。そこに感情はない。道具なのだからそうなのだろう。

 ハーニーはそれが分かっていても心を揺さぶられた。

 自然、唇も声も落ち着かなくなる。


「理由はなくていいって……?」

『私はここに、この世界にいてはいけないと考えますか』

「ううん」

『私を拒絶できるとすればあなただけです。それは私が事故とはいえあなたの身体を間借りしているから。そのあなたが許すのだから私はいていいというわけです。ならば、あなたも同じでしょう?』

「……どういうこと?」

『つまりあなたが私の存在を許すのなら、私もあなたはいていいと考える。ただそれだけのことです』


 自らを道具と言いながら、考えるなんて人らしい言い方に、驚くのも忘れて唖然とした。

 セツの言ったことは相互利益的な見解だったのかもしれない。きっとそうなのだろう。

 しかし、分かっていてもハーニーは心の震えを抑えられなかった。

 感情が溢れていっぱいになって仕方ない。

 鼻をつーんと衝くような、何かが上ってくるような感覚。


「んんっ」


 意味もなしに出た声は涙にぬれていた。涙を拭おうとした右手に別の存在を感じて途中でやめる。左手で目をこすった。


『なぜ泣くんです』

「あ、あははっ。どしてだろうね。ごめん。変だね。でも……嬉しくて」


 いていいなんて言われたことはなかった。

 ずっと欲しかった言葉だった。

 僕は記憶が始まって一度も自分がいていいと思えなかったから。場所とかじゃなく、世界の中に自分が生きていていい理由がなかったから。

 それは普通なら必要のない承認なんだろう。わざわざ言葉にしなくても、親が与える愛情で子供は生きてほしいと望まれていることが分かるのだから。

 でも僕は親を知らなくて、過去も知らなくて、だから自分がいていい理由が分からなかった。

 空っぽの僕だから自分で自分を認めることもできなくて。だから自分以外の誰かに求めるしかなくて。でも今までそんな風に言ってくれる人はいなくて。

 でもセツは今言ってくれた。人らしくない抑揚のない声で言ってくれた。

 だから嬉しくて、初めて地に足がついたような感覚で泣きたくなるんだ。

 僕はずっと誰かに、許してほしかったんだ。

 自分がいていいことを。


 ハーニーは何度も目を擦った。溢れそうになる涙が零れないように何度も擦った。

 やがて落ち着いた目に映る景色は今までより綺麗に思えた。


『大丈夫ですか』

「ごめん……なんだか初めて安心できた気がして……あはは。変だね。ごめん。もう大丈夫だから」


 今これ以上甘えるわけにはいかない。心の奥底にある、自分を支える何かがそう言っていた。これ以上ここでセツに逃げてしまったら、与えられることを待つだけの人間になる。そんな気がした。

 一度大きく深呼吸。ひんやりした空気が肺に満ちる。


「これからどうしようか」


 その問いは打って変わって明るく響いた。

 右腕が無感情に『涙のあとを消すべきかと』と答えたことに、妙な知識があるんだな、とハーニーは笑った。





  広場に戻ると変わらず住民が集まっていた。異なるところは、先刻よりも人々の顔に疲労の色が見えることか。心なしか人数が減っている気もする。

 おかしくもない。こんな状況で、ガダリアを出ていける準備があるのならそれが最善だろう。


「リアはどこに……」


 灯火の光は十分辺りを照らしてくれていた。辺りを軽く探すがリアと家政婦の姿は見えない。

 ふとセツが言った。


『リア、という方はあなたの何なのですか?』

「そういえばセツには言ってなかったっけ。リアは僕の……」


 なんだろう。咄嗟に思い浮かばない。

 妹のような存在? ……違う。

 家族? ……それも違う気がする。

 改めて考えるとリアと僕を繋いでいたのはウィルさんの存在だ。彼が僕を引き取ったからリアと同じ空間を過ごすことになったのだ。僕は他に理由がなかったからそれに従うしかなくて、それでリアと親しくなった。

 でもウィルさんはいなくなった。

 それなら、今僕とリアを繋ぐものは何だろう?


『どうしたんです?』

「え? あ、ああ」


 恐ろしい想像から現実に戻る。リアが自分にとって何なのか分からないまま、セツに応える。


「リアは僕を真っ直ぐ見てくれた女の子だよ。僕の魔法を打算なしに、綺麗だね、って笑ってくれたんだ。それが僕には救いで……」

『大切な方なんですね』

「そうだね……うん。大切だ」

『……何か心配事があるようですね』

「……僕とリアを繋げるものって何なんだろうって考えても分からないんだ。今まではウィルさんが僕を引き取ってくれたから一緒にいた。でもこれからはパウエルさんが預かるっていうし、そうなったら僕とリアはどうなるんだろう」


 分からない。一緒にいられなくなるんだろうか。


『どうするんです?』

「……今は探さないと」


 ハーニーはリアの傍にいていい明確な理由が分からないまま探し続けた。

 僕は会ってどうするんだろう。どうなるんだろう。

 考えることを避けながら歩いて、リアを見つけたのはその少し後だった。

 リアは人気のない広場の端にいた。

 たった一人、周りに誰もいない暗い場所にいた。


「うっ……ううっ……パパ……」


 ハーニーは茫然とした。

 なぜリアが一人なのか。家政婦はどうしたのか。

 気になるが、それよりもこの光景が心を奪っていた。

 ハーニーの前には真っ暗な世界で一人、女の子が泣いている。

 その子は小さな体で精一杯震えているのに一人だ。受け止められるはずのない大きな悲しみを浴びているのに一人だ。

 その姿に見覚えがある気がした。


「ああ……そっか……」


 理解する。

 理解してしまう。

 リアは……僕と同じ、一人ぼっちになってしまったんだ。誰かが心を守ってあげなくちゃいけなくなったんだ。


「リア……!」


 ハーニーは気付けばリアに駆け寄っていた。

 しゃくりを上げるリアの傍で膝立ちになる。一つの思いに駆られてリアをそっと抱きしめた。


「もう、もう大丈夫だから……」

「ハーニー……?」


 疲れ切った掠れ声。こちらを向いたリアの顔は泣きぬれて頬を真っ赤にしていた。痕が残るんじゃないかと不安になるほどの涙筋があった。


「ハーニーっ……ハーニーっ……ううっ、うあああん」


 リアは縋りつくようにハーニーの服を掴んだ。精一杯握られた微力な手で、ハーニーを離すまいとしていた。

 何かを訴えようと「リアね、リアね……」と話そうとする。ハーニーはその度頷いた。何を言いたいのかまるで自分のことのように分かった。

 寂しいよ。一人になっちゃったよ。

 そう誰かに叫ぶしかないリアは自分の気持ちを代弁してくれているようで、ハーニーの目にも涙が滲む。

 それでもその涙は頬を伝わらない。


 僕はこの子を守らなくちゃいけない。


 そんな思いが身体を熱くさせる。抱きしめる力も強くなる。

 僕は何を悩んでいたんだろう。

 繋がりの理由なんて外に探しても仕方ないじゃないか。僕はリアを一人にしたくない。そう思うことが一番大事な理由じゃないか。

 一番辛いのはリアだって分かってたのに、僕は自分のことばかり考えて……何をやってるんだ。僕のすべきことなんて分かり切っている。

 できる限りをやろう。リアのためにできることをできるだけ。

 僕はリアに救われてたんだから。純粋に僕を見てくれて、それがどれほど嬉しかったか。子供だから。幼いから。そんな訳で結果そうなったということは分かってるけど、それで僕は救われたんだ。

 僕はそれに報いたい。

 ハーニーはリアが泣く間ずっと離れなかった。やがてリアが泣き疲れて腕の中で眠ってしまうまで、離れなかった。

 家政婦が戻ってきた時、ハーニーは彼女を問い詰めようとしたが、その顔を見てやめた。静かに眠るリアを見て「よかった……」と家政婦は安堵したのだ。その姿に嘘偽りはないと思えた。きっとウィルの死で色々あったのだろう。そう思い直すことにする。

 その後「お嬢様には私がつきますよ」と言った家政婦から、今まであった疎遠な気配は消えていた。

 信用を得たのだろうか。好意的な感情を想像できないままリアを預けた。その途端全身を疲労がどっと襲ったが、気力は満ち満ちていた。


「僕は……理由ができたよ、セツ」


 星明りだけが光源の広場の隅。木々が並ぶ人のいないところで右腕にそう言う。


『そうですか』

「パウエルさんがリアを引き取るってことは分かってる。それでも僕はリアのために何かしてあげたい。……それ以外生きる理由もないんだ。もう迷わないよ」


 ハーニーは下を向きながら、しかし強い意志を込めて続けた。


「これからどうなるか全然分からないけどさ、僕みたいに一人にならないよう傍にいてあげようと思うんだ」

『あなたがリアという方の傍にいるのなら、あなたも一人ではないのでは?』

「そうかな」


 あははと笑う。ははは、はは……と笑いは小さくなっていく。その代わりに大きくなるものがあった。


「……君に……セツに言われたことさ、嬉しかったよ」

『どれですか』


 どれ、と聞くセツに自然と笑みが出た。


「あなたはここにいていい、って……あれさ、すごく嬉しかったんだ。ううん、嬉しいどころじゃないな。すごく安心したんだ。ずっと……誰かが僕を受け入れてくれたことなんてなかった気がしてたから。初めて生きていていいよって言われた気がした。今まで人も、街も、皆が僕を認めてくれない。そんな感じがあったんだよ。だから……」

『リアと呼ばれる方もですか』

「リアは……まだ小さいから。僕のことは慕ってくれてるのは分かってる。けど、それは僕を頼る方で……なんていうかな」

『いえ、分かります』

「分かるんだ」

『ですがあまり私と関係ないのでは? 私は道具でしかありません』

「道具だとかいう問題じゃないんだ。僕にとって君は全然人と変わらないから……」

『……』


 セツは返事をしなかった。常に無感情な物言いなので、何を考えているのか全く分からない。

 ハーニーは暗がりに輝くSETUの字に見惚れながら聞いた。


「君みたいな精神体? って人と違うの?」

『人間と遜色ないほどだと聞いています』

「ふーん……」


 じゃああんまり人間と変わらないってことじゃないか。


「……とにかく、僕は君に救われた心地だってことなんだよ。感謝してる」


 返事はすぐに来なかった。無視された? と不安になりかけた時、セツの声がかけられた。


『あなたが真っ直ぐだという評価はもっともだと分かりました』

「そうかな? というか君は黙っている間も話を聞いているんだね」


 誰かと話している間もそれを聞かれていることが分かり、恥ずかしくなって俯く。抑揚のない無感情な声はまだ続いた。


『ですが、私が持ち主であるあなたの力になれたのなら、それは私の存在意義という観点から見ても喜ばしいことだと思います』


 遠回しな言い方をするなあ、と内心でつぶやきながら苦笑する。もしかするとセツも恥ずかしかったりするのかもしれない。そう思うとなお面白くなって、終いにはセツに『何が可笑しいのか分かりませんが』と言われた。


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