ガダリア 襲撃 2

 ハーニーが10年前あった戦争について知っていることは少ない。当時は6歳ほどの子供だっただろうことはもちろん、ここ3年より前の記憶がないハーニーにとって、戦争は知識でしかなかった。

 10年ほど前にあった戦争。それは東西に広がる大陸を戦火で包んだ。いくつもあった国は融合と吸収を繰り返し、最終的に東国と西国の二国になった。それぞれ大陸の中央から東西に分かれる二つの国は、長い戦争を和平によって執着を迎えたが、和平とは名ばかりもの。実質西国の勝利であり、東国には不利益なことばかり要求された。10年経った今も、東国ばかりが苦しんでいるという。

 ハーニーは戦争がどんなものなのか、どれほどのものだったのか詳しく知らない。それでもどれだけ大変なことだったのか、周りの人間を見れば嫌でも分かった。

 ガダリアの中央にある大きな広場。街の行事などで使われる中央広場は大勢の人であふれかえっていた。少なく見積もっても五百人はいるだろう。広場は人々の不安の喧噪で満たされている。


「ハーニー……」

「うん。大丈夫だよ」


 怯えるリアにそう言いながら、ハーニーは言葉に自信がない。突然のこの事態。これからどうなるか見当もつかなかった。

 わっというような声の塊の後、身なりのいい人間と大きな荷を背負った行商人らしき人達が西門へつながり道を行き始めた。それを睨む広場の人たちが怒号を発する。

 「余所者!」「無責任!」。

 ざわめきは増していく。


「嫌な雰囲気だ……」


 流動的な行商人や旅人はすぐにガダリアを出るらしい。交易の盛んなガダリアだ。土地に拘らない人間は多い。その中には街を守るはずの貴族も混じっているようだった。


「魔法を使える貴族が真っ先に逃げ出すなんて!」


 それは当然の文句だった。魔法は貴族にしか使えず、魔法がなくては戦いにならない。そのため戦争で戦いに駆り出されるのは貴族で、だから平時に威張ることを許される。


「パパ、どこかな……」


 キョロキョロ辺りを探すリアにならうが、それらしき姿はない。まだ来ていないんだろうか。そう思った直後に見知った顔を捉えた。


「ジェリーさん!」


 不安のためか小さくなった喧噪の中、ハーニーの呼び声は大きく響いた。3年顔を合わせてきたはずの家政婦の名前を初めて呼んだ気がした。


「あぁ! お嬢様もこちらにいらしたのですね!」

「……はい。それでウィルさんは」

「旦那様はまだこちらへは?」


 「パパ……」と、か細い呼び声がハーニーの耳を撫でた。


「ウィルさんはまだ屋敷ですか?」

「こちらにいらっしゃらないのであれば……ええ、たぶん……」


 腕にしがみついている小さな力のおかげで迷いはなかった。


「僕が見てきます。その時間くらいありますよね?」


 周りを見て言う。皆まだ広場から動く気配はない。家政婦は少し考え込むと答えた。


「取り決めでは広場へ一度集合して、その後は領主様の指示に従うことになっています。ですが、カーライル様もいらしてませんし大丈夫だとは思いますが……なんせ10年の間こんなことありませんでしたし、対応も遅れるかと……」


 カーライルというのが誰だかよくわからなかったが、今はどうでもいいことだ。


「ウィルさんを探したらすぐに戻ってきます。……リア、大丈夫。すぐ戻るから」

「や、やだ。行かないで」

「リア……」


 ハーニーは自分の右腕を離すまいとするリアの手を、上から優しく包み込む。


「すぐに戻るから。ウィルさんも連れてくるから安心して待ってて?」

「……約束?」

「うん。約束だ」


 包んだ手を放したときには、リアの手に込められていた力もなくなっていた。


「それじゃあいってきます。リアのことよろしくお願いします!」


 そう言われた家政婦が、当然だと言いたげに不快感を表したのに、ハーニーは疎外感と安心を覚えた。

 ウィル邸はガダリア市街の東側にある。

 ガダリアは西国の街だ。もしも東国の絡んだ問題だとすれば、東側は面倒に巻き込まれる可能性が高い。嫌な予感を胸にハーニーは急いだ。


「僕らしくっ……ないなっ」


 ハーニーは東への通りを走りながら、自分らしくない今を感じていた。ウィル家に拾われて3年。ただその時その時の状況を受け入れるばかりで、自分から強く何かをしたいと思ったことはない。しかし今は違う。何か、自分ではないものに突き動かされているような気すらしていた。


 ……僕には親がいない。そりゃあどこかに生みの親はいるだろうけど、今そばにいないし、思い出も何もない。だから、そう。他の誰かに同じ思いをしてほしくないんだ。リアなんて小さいころにお母さんを亡くしていて、もうお父さんしかいない。僕のような境遇になってほしくない。寂しさを、孤独を感じてほしくない。

 そう強く思えば思うほど駆ける力も増していく。

 

 ハーニーが屋敷に着いた頃には空は夕暮れ色が広がり始めていた。冬を越えた春先。陽が傾くのは早い。ウィルの屋敷は周囲の無音も相まって、ひどく不気味に佇んでいた。


「ウィルさん!」


 屋敷の外から大声で呼ぶ。帰ってきたのは空虚な風の音だけ。

 誰もいない? 

 疑った瞬間、がさがさと何かが動く音が聞こえた。


「誰かそこにいるんですか……?」


 物音のした方を見ても草垣が風に揺れるだけ。いや、よく見ると草垣を誰かが通った痕跡があった。


 誰か逃げていった? 不信感が募る。


 正面の扉を恐る恐る開ける。玄関広間の大きな窓から差し込む光が、影を浮きだたせていて不気味だった。屋敷に入ってみても物音ひとつ聞こえない。


「ウィルさん! いるんですか!」


 叫ぶと今度は反応があった。右、ウィルが普段籠っている書斎の方で何かが倒れる音。それは人が倒れる音に聞こえた。

 心臓が跳ねる。ハーニーは書斎へ走った。

 書斎の扉は開いていた。何か事件に巻き込まれているんじゃないか。その不安がハーニーを責めたて、室内を確認することなくウィルの書斎へ踏み入った。


「うっ……」


 その足は一歩で止まる。

 ウィルの書斎の中央。

 全身黒装束の人間が二人、倒れていた。ぴくりとも動かないそれらは、絨毯を赤黒く染めている。


「ハーニーか……」


 低くかすれた声に振り向くと、書斎の奥でウィルがうずくまっているのに気づいた。こちらに向けた顔は苦悶の色に満ちている。


「ど、どうしたんですかっ。それにここに倒れてる人たちはっ……ウィルさん!? それ……!」

「……しくじったな。もっと上手くやれると思ったんだが、どうやらこれが限界らしい……」


 ウィルの少し出た腹から、短剣の柄が突き出ていた。シャツの腹部が赤く滲んでいる。


「どうして……!」


 駆け寄ろうとした時、倒れた人間の腕に躓き、体勢を崩して膝を打ち付ける。倒れた人間はそれでも動かない。

 死んでいる。

 直感的に分かって、ハーニーは目を背けてウィルに近寄った。

 ウィルの容態はひどかった。短剣が腹を深々と貫いていて、出血は止みそうにない。


「ど、どうすれば……」


 ハーニーに医術の心得などない。医療魔法の存在は知っていても、やり方も力の扱いも何も知らなければどうしようもない。魔法の知識などまったく持ち合わせていなかった。

 ハーニーの腕が意志もなくウィルの身体に触れようとして「いい」と制される。


「そんなことよりも……」


 ウィルはそう言うと、震えた指で少し離れたところの床を指した。


「そこの絨毯の下に……ある。それを……くそっ」


 動こうとしたウィルの顔が歪む。凄絶な痛みを感じているらしい。しかしその目には強烈な意志が宿っていた。ハーニーはその執念に圧されて、指差すところの絨毯をめくる。周りの床とは微かに色が違う床が見えた。


「指を引っ掛けるところがあるはずだ……」


 言う通り指を掛けるところがある。ハーニーが指を持ち上げると、そこには空間があり、木箱が一つ収められていた。木箱を取ってウィルの傍へ戻る。ウィルの出血は広がっていた。


「ウィルさんっ! 急いで広場に行きましょう!? このままじゃあ血が!」

「それよりも中を開けるんだ」

「そんな場合じゃないでしょう!」

「早くしろ……」

「く、分かりましたよっ!」


 言っても聞きそうにない表情に従って、木箱を乱暴に開ける。

 中には鉄の籠手、ガントレットがあった。

 なんだこれ。

 そう思ったことに呼応するように、ガントレットの表面で薄い緑の光がぼんやりと浮き出た。


「5……違う。S、E、T、U……セツ?」


 西の言語。意味は分からなかった。Tの後にSがないことにも違和感を覚える。

 しかし意味を考えるより前に、ウィルの手がハーニーの腕をがっしりと掴んだ。その掴む力強さ、懸命さに驚く。ウィルの顔は険しく、真剣そのものだった。


「それをパウエル……この街の領主に渡すんだ。いいな。そうすれば──」


 そこで言葉が中途に消える。ウィルが鋭い目で虚空を睨んだ。

 ギィ。

 微かに、遠くで床の軋む音。


「まだいたか……」


 苦しげなウィルの顔に焦りの色が滲む。

 ウィルは一瞬逡巡したかと思うと、すぐに「それを着けろ」とつぶやいた。意図が分からず聞き返そうとしても「はやくしろ!」と有無を言わさない怒りの声で封じられる。

 木箱から取り出したガントレットは変わらずSETUの文字を発光させ続けている。ガントレットは見た目よりずっと軽く、人肌に近い生温さを帯びていた。


「とりあえず着けておけ。パウエルに会ったら渡せばいい。それまではお前が使え……」

「何なんですか、これ」

「なんでも魔法の制御や増大をする補助装置らしい。人工精神が宿っているとか……使い方なんてものは平民の俺には分からん。お前なら分かるだろう」


 投げ捨てるような、棘のある言い方がハーニーを苛立たせる。


「僕だって自分がどうやって魔法を使ってるか分からないんですよ……! 着けました!」


 ハーニーは右腕に装着したそれを改めて見るが、腕に重みを感じるだけ鉄の塊にしか見えない。ガントレットからウィルに目を向けると、彼は人差し指を立てて「静かに」。

 ウィルがじっと見つめる書斎の入り口にハーニーも首を向けた。

 たん、たん、たん、と足音が少しずつ近づいてくる。

 ウィルが小さく囁いた。


「その辺に転がっている奴らの仲間だろう……」

「何なんですか彼らは……それに僕はどうすれば──」


 どうすればいいのか聞こうとした瞬間、黒いローブで身を包んだ人間が解放されたドアの奥に現れた。謎の人物は室内の様子を見るなり、唇を噛んだ。


「情けないな。まさか平民ごときに返り討ちに遭うとは」


 ローブを着た人間は男だった。男の苛立つ声が部屋いっぱいに広がる。男の視線はただ一点。ハーニーの右腕に注がれていた。

 そこにはガントレットが、SETUの光が脈動する鉄塊がある。男はそれだけを鋭く見つめたまま言った。冷淡で残忍な声色。


「そのガントレットを渡せ。そうすれば命までは取らない」

「これを……?」

「騙されるなよ……俺はそこの二人を始末したし、現に刺された。嘘っぱちだ……」


 後ろで苦しそうにするウィルを振り返る。ウィルは強い眼力でハーニーを見ていた。


「絶対に渡すな……! それほどの価値があると向こうから教えてくれている!」

「……残念だな。貴様らには死んでもらって、それから頂くとしよう」


 一切の躊躇のない宣言に黒衣の襲撃者に向き直ると、男は一つ息を吸って、右手を前に突き出した。同時に風が噴き出たように感じた。

 殺気。闘気。魔力。その類のもの。


「焔魂──陽、模する灼色……」


 魔法だ。そう気づいたときには、襲撃者の前に人一人飲み込むほどの火球が生まれていた。それはハーニーとウィル共々燃やし尽くそうと渦巻いている。


「我々も二人亡くした。貴様たちの命で償ってもらうぞ」


 それほど気にもしていない風に襲撃者は言う。冷静な様子は慈悲を感じさせない。

 この男は躊躇わない。迷わず魔法を放ち、命を奪って目的を果たそうとするだろう。

 どうしようもなくそれが理解できてしまう。

 どうすればいい? 

 焦る。思考が回る。凌ぐ道を模索する。


「う、く……」


 どうしようもない。自分が使える魔法は透明の小さな塊を作ることくらい。リアに綺麗だね、と言われるだけのもの。たかが知れている。いくら考えてもこの状況を乗り越える力なんて持っていない。

 身体が震える。唇が。指先も。

 意識は空転して何も生まない。それでも時は待ってくれない。


「燃やし尽くせ! 灼火球ッ!」

「う、うわあああっ!?」


 炎の魔法が打ち出され、それは視界を埋めていく。

 ハーニーは反射的に右腕で自らを庇った。ガントレットのある右腕で。

 恐怖で瞑られた目の中。

 時間のない闇の中で理性が揺れる。


 死ぬ? 

 僕はここで死ぬ? 

 こんな急に。突然に。まだ3年しか生きていないのに。

 何も知らないまま終わる?


 不意な穏やかさが宿る。身体から力が抜ける。


 それでいいのかもしれない。理由もなく生きるのはおかしいじゃないか。ただ流れるように時を過ごすことは死んでいるのと変わらない。それなのに今まで生きてきたことがおかしいんだ。

 拾われたって記憶はなくて、繋がりだって希薄で、今という時は空っぽだ。

 そんな僕が死んだところで失うものなんて特にない。それなら今死んだって別に誰も……。


「……約束だ」


 一瞬浮かんだのはリアの顔。思い出したのはウィルを連れてくるという約束。

 そうだ。僕は約束をしてしまった。それは僕が死んでも残ってしまう。それくらいも出来ずに死ぬのか? それは許されることなのか?

 右手が強く握られる。右腕に乗るガントレットから強い熱を感じた。 

 ダメだ。何もない僕だからこそ、約束を破ることを許されるわけがない。

 だって僕にはそれしかなくて、それしかないから……。

 それなのにこんなところで──


「死んでいいはずないっ……!」


 無我夢中に叫ぶ。自らの意志を理解するだけの咆哮。

 その瞬間だった。

 死を心だけで否定する時の中。


『──あなたは、私に似ていますね』


 女の声がどこかから聞こえた気がした。

 火球が肉薄する刹那。腕に何かが乗っかる感覚と、右手を自分ではない誰かが支えてくれる感触がハーニーを襲った。

 瞬間、衝撃。


「ぐうぅうっ!」


 右腕に受けた衝撃で、ハーニーは床を削りながら滑った。


「なに!?」


 男の驚愕の声でハーニーは目を開く。自分を守るように構えていた右腕。そのガントレットを中心に半透明の力場が、盾を形成していた。不規則に揺らめくそれは、無色に輝いて煌びやかだ。霧のようにもやもやとしながら、しかし盾の形は崩さない。


「くるぞ!」


 ウィルの大声が背後からハーニーを押す。目線を上げると男はまた腕を構えなおしていた。


「この家には平民しかいなかったんじゃないのか!? 冗談じゃないッ。それを渡すわけにはいかんのだ!」


 狼狽する襲撃者はまた何か詠唱し始める。


「焼原──滅却する洪紅蓮──」


 さっきとは違う言葉たち。今度は盾ごと葬る強力な魔法だ。長い言葉の羅列でそれが分かる。

 このまま衝撃に備えて待っていればいい?


『これを逃す手はありません』


 また女の声。無機質で、無感情な音。しかしそれについて考える余裕はない。


「こ……のッ!」


 無心で右腕を薙いだ。魔法で何とかするという漠然な決意だけを伴って。

 振るった右腕に衝撃。

 腕は空を切ったが、腕の延長線上に魔力の塊があるというイメージは具現化され、魔法を唱える男を真横に弾き飛ばした。


「ぐうッ」


 2m先にいた襲撃者は右に吹っ飛び、壁にぶつかると鈍い音を轟かせた。そしてそのまま力なく倒れる。

 気を失ったらしい。


「はあっ、はあっ……」


 ハーニーは荒げた呼吸を戻すことすら頭にないまま、気付けば尻餅をついていた。

 次第に落ち着いてきて、自分が何をしたのか理解したその時、右腕に違和感。


「うあ……っ!」


 声を抑えられないほどの激痛が右腕に奔った。

 息が止まる。汗がにじみ出る。あまりの痛みに身体を冷たいものが通った。

 ガントレットを付けた、その下の皮膚が焼かれるように痛い。ガントレットを乱暴に外す。


「なんだこれ……」


 ハーニーの右腕にはまるで皮がそこだけ剥がれたように、焼印を押されたようになっていた。そこに写るのはSETUの文字。

 どういうことだ、と外したガントレットを見るが、そこにあった文字と薄緑の光は消えていた。代り、という風にハーニーの右腕でSETUの字が薄く光っている。


「でかしたぞ……ううっ」


 背後で苦悶の声がした。意識から離れていたウィルの存在が重くのしかかってくる。

 襲撃者の正体。ガントレットの意味。他にも色々謎はあるが、今はそれどころではない。


「ウィルさん! 大丈夫ですか!? 今肩を貸しますから!」

「それよりもそのガントレットを……」

「そんなに大事ですか!」


 怒りを隠さずに叫んで、ガントレットをまた右腕に装着する。ウィルを肩に担いで、さらに鉄の塊を持っていける気がしなかったからだ。ガントレットからは鉄らしい冷たさを感じた。


「しっかりしてくださいよっ!」


 ウィルの脇の下に腕を入れて、身体全体で立ち上がる。力が入らないのか、ウィルはひどく重かった。背負えたらいいのだが、ウィルの腹には短剣が刺さっている。抜くべきとも思えない。

 結局ほとんど背負うような形で肩を貸すことになった。


「皆のところへ行けばっ……きっと何とかなりますから……!」

「ふん……何とかなる、ね……」


 諦めの気配はハーニーの苛立ちを加速させる。踏み出す力になお力がこもる。

 ウィルの足を引き摺るように屋敷の廊下を進む。しかし徐々に力が失われていくのが分かる。


「くそう、くそう、くそうっ」


 やりきれない思いが増していく。

 ウィルが不思議そうに尋ねた。


「お前、そんなに俺のことを良く思っていたか……?」


 返答を考える心の余裕はなかった。


「思ってませんよ! でもこんなことになったら、誰だってこうするでしょう!?」

「お前は──」

「喋ると血が出ますから! 喋らないでください!」

「どうせ助からん……分かるんだ。何でだろうな。妙な感じだ」

「……適当なことを言って!」

「お前、案外感情的になれるんだな……知らなかったぞ……ぐ」


 次第に小さくなる声に恐怖が募る。地獄に向かって歩いている気がしてくる。


「しっかりしてください! まだ分からないでしょう!」


 まだ、まだ、と言い聞かせながら歩みを進めていく。夕暮れ時の長く伸びる影を追いかける。


「どうしてこんなことに……」


 ハーニーの当てのない嘆きはウィルが答えた。


「東国の妙な動きと……そのガントレットが狙いだろうな……手に入れるのは苦労した……」

「こんなもののために……」


 肺から絞り出すような声にハーニーは泣きそうになる。ウィルに対していい感情が特別あったわけではない。しかし感謝はあった。何であれ、記憶のない自分を3年間も面倒を見てくれたことは本当にありがたいと思っていた。打算があっても、それは本当だった。


「また、戦争が始まるんだろうな」

「戦争……」

「リアは……リアはせっかく戦争のない時代に生まれてくれたのにな……」

「そんな! ウィルさんが何とかすればいいでしょうっ。弱音なんかやめてくださいよ!」

「あの子には不憫な思いをさせた……俺がヘマしなければ母親まで亡くさずに……」


 儚げに笑うウィルは言葉を止めようとしない。


「俺はお前を利用しようとしていたが……恨んでいるか……?」

「しっ、知りません! 諦めないでください! リアのためにも!」

「ふん……もっと懐柔するんだったな……意地など張らずに……」

「だからっ、終わったことのように言わないでくださいよおっ」


 掠れた声で叫ぶ。ウィルは何が可笑しかったのか、鼻で笑った後喋るのをやめて、無駄に力を使うのを避けるようになった。

 無言の安静は恐ろしさしかもたらさなかった。

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