湖畔の魔女 15
夜が明けて朝が来た。
夏なのに一定の温かさ。変化の乏しい森の朝。
でも悪意を打ち消した清々しい朝で……別れの朝だ。
「あなたは私を甘く見過ぎね。私なら一人きりでも耐えられたし、高所からの落下くらい何でもなかったわ」
リインフィルは憎まれ口をにやけながら言うから説得力がない。
朝日の下、ハーニーはリインフィルと結界の近くまで来ていた。ちょうどハーニーが入り込んだ場所。川沿いの、何もない森の中だ。
「リインフィルさんも僕らを甘く見てましたね。もっと信じてくれてもよかったのに」
「うふふ。そうね。色々無理だと思ってたわ。ごめんなさい」
表情が乏しいと最初は思っていた。今は全く思わない。この笑顔を見ればつられてしまうほどなのだ。
「あなたには本当に感謝してるわ。ただマリちゃんを抑えてくれたことじゃなく、あなたのその優しさと頑張りに、ね。あなたのおかげで私は今の世界への理由をもらえた」
「僕が理由になれたなら、すごく誇らしいことです。理由は何より大切だから」
リインフィルは満足そうに頷いた。黒い三角帽子もいつもより元気そうに見えた。
「そう。理由は大切。自分自身に価値が置けないのなら理由という前だけ見ればいい。それは恥ずかしいことではなくて、恵まれていることなんだから。──そう。今思い浮かべたように……あなたはあなたの理由のために生きたほうがいい」
「ええ。僕はリアを守りたい。今はそれだけじゃないですけど、始まりをくれたのはリアで、大切な僕の理由です」
続く言葉を口に出すのに勇気が少し必要だった。
「……お別れですね、これで」
できるだけ弱みを見せないようにしたのだが、リインフィルはくすくす笑った。
「私から別れを切り出させるのが申し訳なかったの? うふふふ。変な気遣い。でも好きよ。そういうところ。ここまで細かくて馬鹿らしい思いやりは心を読めないと分からないだろうから、気づいてあげられるのは私くらいでしょう? 私はそれが誇らしいもの」
『残念でしたね。私がいます』
「あら? セツちゃんは感応背景が見えないでしょう?」
『見えなくても私には分かります。今も格好つけた声ですぐ分かりました。いつもなら弱弱しく「お別れですね……」と言います』
「一緒にいる時間が長いから分かるのかしら。経験でカバー……それも美しいわね」
「あまりからかわないでくれますか!」
これでも言いたくないことを言って頑張ったんだけれども!
「ごめんなさい。つい、ね。私も寂しいから」
「う」
そう言われると黙るしかない。こっちもより寂しくなってくる。
「本当に、もう一度言うけれど感謝してる。幸せだったわ。人の頃を思い出せて」
「僕も楽しかったです。やり残したことを果たせた気がします。得るものもたくさんあった」
(殺意ね)
「……」
「ふふ」
シノの声は自分にしか聞こえないから無視する。リインフィルは苦笑いしていた。
リインフィルが一つ咳ばらいをすると、真面目な顔になった。
「あなたはマリちゃんと戦ったし悪意のあて先も知ったけれど、それを湖を出てからも意識しないようにして。人ならざる存在を相手に戦うというのは、ある種気が楽なものよ。殺すこと、消すことに躊躇いがいらないから。でも、あなたがこれから戦っていく相手は違う。生きている人間よ。それを躊躇いなく殺さないで」
「躊躇うのは」
「戦うこと自体は躊躇わなくていいわ。私が言いたいのは心の話。いつもいつでも、命を奪うことについて思いを寄せてほしいのよ。苦しいだろうけれど、心が人であるためには必要よ。……あなたには特に」
僕には特に、という言葉の深い意味は分からない。それでもリインフィルの言には理を感じた。アルコーが以前言った感情で殺すな、と似た忠告として受け入れる。
「それと、セツちゃん」
『私ですか?』
「ええ、あなた。全て思いだしたんでしょう。変化を認めることができた」
『……そうですね。全て思いだしました。ですが、私はそれについて語る気はありません。私はセツです。変化を認めたから今があるのなら、私は今を見ていたいと思います』
「……そうね。その方がいいわ。彼のためにも」
「僕の?」
誰も疑問には答えずに話が進む。
「じゃあ一つだけ話しましょう。──終源の魔法について」
「終源の魔法?」
「終源の魔法というのは、人が死を覚悟して命を対価に使う魔法のことよ。あなたも聞いたことがあるでしょう。死地に追い込まれた者を舐めてはいけない、と。それは精神的なものではなく、魔法の力として危険だからなの」
「そういえば僕の師匠が言ってました。てっきり覚悟の気持ちが魔法を強くするという意味だと思ってたんですけど、違うんですか?」
「全く違うわ。終源の魔法は対価を支払う魔法。仮に命を対価にした場合、その魔法で危機を脱し生きながらえても、死ぬの。死ぬつもりで魔法を放つから、素養以上の力が出せるというわけ」
「命を捧げた魔法ってことですか」
「私が霊体になるため使った魔法も同じよ。身体を対価にして霊体となった。結界もその対価分得たものよ。……強すぎる力には必ず対価を伴うものなの。そうでないと納得できないようになっているの、人間って」
『……なぜこの話を?』
「私にはあなたたちがこれから様々な苦労をすることが分かるわ。辛い思いもするでしょう。だから、そのアドバイス、助言よ。──いい? 強い魔法には対価が要る。その対価はあくまで己が定めるもの。分かった?」
「え、ええ」
熱弁されるがピンと来ない。対価がどうと言うが、使えば死ぬような魔法を使う側の視点で語られても困る。死ぬ気はないのだ。そんな魔法を使うわけにはいかない。
「……選択の逃げ道を教えてあげたかったの。心の片隅でもいいから留めておいて」
言い切るとリインフィルは「あ、そうそう」と話を切り替えた。
リインフィルは傍に置いてあった布袋を魔法で開く。それは見送ると言ったリインフィルがずっと宙に浮かせながらここまで持ってきたものだ。
布袋がひとりでに開くと年季の入った分厚い本が出てきた。
「これは餞別。私の世界の魔導書よ。魔法陣を使う魔法理論が書かれているの。この世界じゃ知られていないようだから力になるわ」
ハーニーは魔導書を手に取った。重い。結構な頁数だ。
「それはそうよ。私の知る魔法が全て書かれているのよ?」
「リインフィルさんの? ってことは」
「うふふ。自作なの。世に出す前に滅んじゃったから、持って行って。これでまた私のいた痕跡が残る」
たまらなく嬉しそうにするから、本当に持って行って欲しいのだろう。
本を改める。表紙に何か書いてあるが……。
「読めない……」
『古西語ですね』
「いいのいいの。どうせあなたには向いてないわ。魔法陣は数式と同じで理屈めいたもの。あなたは感覚的な魔法を使うから習得は諦めて? それは他の誰か、理詰めな考え方をする人に渡すといいわ。……ん。今あなたが思い浮かべた子でいいわ。ネリーちゃん?」
ネリーはネリーで独自の魔法観がありそうだが、このお土産をものすごく喜ぶことは分かる。渡した途端独り言をして無言になるに違いない。
ハーニーは魔導書を布袋にしまい、胸のあたりできつく縛りつけた。これで走っても落ちない。
「それじゃあありがたくいただきます。ちなみにリインフィルさんのことは?」
「言わなくていいわ。私はまた湖を閉じる。誰も入れなくするから」
「……リインフィルさんは」
「大丈夫よ。私は意志に満ち溢れているし、それにしばらくはマリちゃんも現れないはず。大戦争でもあったら分からないけどね。……でも、そうね。もし私のことがどうしても気になるなら、あなたは人を幸せにしてくれるかしら。幸福感が世に溢れたらそれに越したことはないわ」
「人を幸せに、かあ」
遠い話のようで身近なことだ。近しい人を幸せにすることが、延いては負の感情の発露を抑えることにつながる。
現実味はないけれど。
「努力します。僕の大切な人たちだけでも」
「それでいいわ。本当は皆が皆、そう思ってくれれば私も助かるのだけど」
リインフィルが笑い、ハーニーも笑った。そこには微かな諦めの色が混ざっている。都合よく全員が幸せにならないことはお互い分かっているのだ。
「これで伝えたいことは以上──あ! もう一つあったわ。とってもとっても大切なこと」
「はい?」
「……うふふ」
リインフィルは艶やかな流し目を飛ばしてきた。
「死ぬ時はまた来て? 私が霊体にしてあげるから、一緒に戦っていきましょう?」
「──はははっ。分かりました。その時はお願いします」
冗談よ、と言うかとも思ったがリインフィルは弾んだ調子で喜んだ。
「無駄に死ぬよりいいわ。うんうん。ちゃーんと有効利用してあげるから。……あら。私は本気で言ったんだけど?」
『といっても私がいますから何十年も先の話ですが』
「あら短い。待ってるわ」
時間の感じ方は普通ではない。セツもため息でもつきそうな間を空けた。
『……好きにすればいいでしょう』
「うふふ。彼が拒否しないことを分かってるから気に入らないのね。可愛い」
「あまりからかわないであげてくださいよ」
また笑みが交差する。
不意に無言の時間ができた。
まるで先を促すような静けさにハーニーが口を開こうとして、リインフィルが遮った。
「……やっぱり私から言うわ。こういうのは一番寂しい人が言うべきよ。──そろそろお別れね」
「……はい」
「結界に通り道はできているわ。後は出るだけ」
歪んだ結界は数歩で辿り着ける距離。
……いつまでも残るわけにもいかない。足を踏み出す。
一歩進めて後ろから声。
「大丈夫? 忘れ物ないかしら?」
「大丈夫です。失くし物は見つけました」
「そう……ならいいけど」
もう一歩外に向かおうとして。
「あ、体調は? どこも痛くない?」
「それも大丈夫です。怪我はないし……寝不足ですけど、少しは寝たので」
マリスを倒して夜が明けるまでの数時間は睡眠をとっている。体に差し支えるほどではない。
「そう……なら」
リインフィルは納得しかけて、急に声色を変えた。
「いえ、それはいけないわ! 寝不足は危険よ! 何とかしましょう」
「え」
引き留めるにしてはささやかな話だ。
ハーニーは振り返った。
「寝不足解消の魔法とかあるんですか?」
「……ええ。もちろん」
「思いっきり目を背けてますよね」
でもリインフィルさんなら知らない魔法をいくつも知っているし、あるのかもしれない。
「そうよ。別に引き留めるためだけじゃないわ。今、魔法をかけてあげるから」
「はい──えっ」
リインフィルはととと、と小走りで近寄ってきた。ハーニーも驚いて身を引くが、身体がぶつからない彼女は構わず寄ってくる。
そして顔が近づいてきて……。
ちゅ、と頬の辺りで音がした。
リインフィルが爽やかな顔で離れる。
「あなたが言ったのよ? 別れはあっさりしない方がいいって。あ、安心して? 実際に触れたわけじゃないし、音も私の唇の音だから。……うふふ、ただ距離がゼロだっただけ。おでこにしようと思ったけど、もう埋まってたから左頬は私がもらったわ」
「も、もう。驚かさないでください」
紅くなった顔を自覚しながら顔を背ける。
正直嬉しい気がする。
「二十七歳相手でも?」
嬉しい気がする。
「うふふっ」
『……私だって』
ドキッとするつぶやきはセツのもの。
さすがにやりすぎだと思ったのかリインフィルは後ろで手を合わせながら一歩引いた。
「私のわがままにつき合わせたわ。さ、もう行って? ……元気でね」
「リインフィルさんも元気で……消えないでくださいね。きっとまた来ますから」
「楽しみにしてるわ」
小さく手を振るリインフィルに大きく返して背を向ける。
結界まで一歩のところまで来て、視界に入る川について一つ思いだした。
最後に伝えたいことを、背中を向けたまま大きな声にする。
「そういえば、この川、リインフィル川って言うんですよ! 良い名前ですよね!」
「……そうなの。それは……最高の名前ね」
名前が残っている。なぜかは分からなくとも彼女の痕跡が今の世界にもあるのだ。彼女の献身が無意味でなかった証明のように。
「絶対にまた来ます!」
一歩を踏み越える。
最後に聞こえた言葉は明るかった。
「死ぬ前に戻ってくるのよー!」
吹き出す。
「ははは。最後まで」
後ろを見るとそこには誰もいない。普通の景色が続いていた。
届かない言葉を続ける。
「……最後まで不思議な人だったな」
『最後、ですか?』
「今回の出会いでは、って意味。また来るよ。僕は知ってしまったんだから、どうせ放っておけないんだ」
『……いいと思います。誰かが気付くべきです』
「うん」
感傷に浸りそうになって、湖との気温の違いに気づいた。
身体を包むような温度。
「……暑いな」
『今日は暑くなりそうです』
汗が出てくる。
まるで夢を見ていたかのように湖の中は温度が変わらなかった。おかげでこの夏の暑さが戻ってきた実感を生む。
僕は戻ってきたんだ。
「……あ!」
『どうしました?』
「しまった。指輪を返し忘れてた」
ハーニーの右手の人差し指にはリインフィルの指輪が朝日を照り返していた。
『恐らくですが、彼女も気づいていたと思います』
「……そうだね。僕もそんな気がする。きっとまた来てって意味だ」
『首輪でもつけられたようで不快ですね』
「はは」
本当に嫌そうな気配がして笑ってしまう。
「行こうか、セツ」
『はい。まずは皆を探しましょう』
(そして貴族を殺しましょう)
「うわ」
『何です?』
「あ、いや……そうか。シノの声は僕にしか聞こえないのか」
『シノ?』
結界の中ではセツと離れ離れでいた。シノの存在は知らないか。
「切四片に宿っていた人格というか、セツみたいな感じなんだけど……とにかくマリスを倒すのを助けてくれたんだ」
(随分良く言うのね)
「感謝はしてるから」
『……私にはそのシノとやらの声が聞こえないので非常に不快ですが、助けられたのならよいです。しかし、なぜ急に声が聞こえるようになったのですか』
(ふふふ。約束のことを話してあげたら?)
もし死ぬときは切四片に捧げること。こんなことを話してもセツが心配するだけだ。
「……シノは貴族に恨みを持ってるんだ。これから僕が戦う中で人を殺める際は、切四片を使って欲しいんだと」
『……心や体を乗っ取られたりしてませんか?』
「僕は僕だよ。大丈夫」
(いっそおかしくなればたくさん殺してくれるかしら)
「……はぁ。よし、こうしよう。僕が右腕を持ち上げたり、その方向へ話したらセツに話していること。左だったらシノ。それで、今は左を向いて言うよ。うるさいから少し黙ってて」
(黙ったら貴族を殺す?)
「戦いになったら、そういうこともあるかもしれない。それともここでずっと雑談してれば、その機会が来ると思う?」
(……)
「よし」
『妙なものを内に飼い始めましたね』
「まったくだよ」
『……冗談のつもりでしたが』
「何が? ……ああ。セツもそうだって言いたいのか。セツはいいよ。妙なものじゃないんだから」
『……はい』
その返事は妙にしっとりして聞こえた。どうも前より声に抑揚があるような気がする。
ドキッとするから心臓に悪い。
「さてと、切り替えよう。これからの話だ」
「あれから日も経ち豊穣祭の日になっています』
「豊穣祭か。ネリーとの約束もあったな。ひとまずユーゴの作った設営場所に行ってみて、いなかったら旧王都に戻ろう。何事もなければいいけど」
あんなマリスが生まれたのだ。きっと問題は発生してはいるのだろうが。
川沿いに下れば目的地にたどり着く。
やはり、というべきかそこには誰もいなかった。設営の跡はあるが道具もない。
「泊まる準備はしていなかったし初日のうちに旧王都へ戻ったのかな」
『……』
「セツ?」
『……誰かが近づいてきます。いえ、これは……』
「隠れるべき?」
『いえ。大丈夫です』
一応身構えながら待っていると、下流からトボトボと歩いて来たのはユーゴだった。
こちらを見つけるや否や安堵し、泣きそうな顔をして全力で駆けてきた。
「ハーニー! ハーニーだよな!?」
「そうだけど、う」
抱き着いてこようとするのをつい避けてしまう。ユーゴはたたらを踏むが向き直っても気にしていなかった。それどころから不安そうな顔をしていた。
「お前どこにいたんだよ。急にいなくなりやがって! すげー探したんだぞ!」
「ごめん。色々あって……皆は?」
ユーゴは表情を暗くした。
嫌な予感に質問が追従する。
「なに? なにかあったの?」
「お前やっぱり何も知らないのか……」
頷くとユーゴは真面目な表情を崩さずに答えた。
「旧王都が独立を掲げて反乱を起こした。旧王都議会議長のマルチェロ・ビオンディーニが死んで貴族派閥はバラバラだ。旧王都市内で戦闘は起きてねーと思うけど、戒厳令が布かれて住民はそれぞれの家に幽閉されてるらしい。正直、やべー状況になってる」
「独立? 反乱? ……それで皆は? リアは?」
ユーゴはバツが悪そうにして言った。
「……俺とおっさん以外は皆……リアちゃんもネリーもコトちゃんも旧王都にいる」
夏の最も長い一日が始まろうとしていた。
すがるいのちに宿ったマホウ 浦山花房 @hanahusa
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