湖畔の魔女 14

 リインフィルがいるはずの場所に戻ったハーニーは焦った。誰もいないのだ。女の子は箒を取りに行ったから不在も納得できるが、リインフィルがいないというのは解せない。

 何かが起きて女の子がリインフィルを運んだのか。またはリインフィルが自ら動いたのか。

 どちらの場合でも辿るだろう場所、リインフィルの家にハーニーは向かった。

 道中、嫌な予感に汗が滲む。夜風は涼しいが身体は嫌な湿りを感じていた。

 開けっ放しのドアを抜け、室内を目にしたハーニーは激しく動揺した。

 女の子が寝室のベッドの横で倒れていたのだ。


「だ、大丈夫!?」


 駆け寄り屈み、身体を揺らして起こそうとして──透ける。彼女も霊体だ。触れない。

 そうなると呼びかけるしかないのだが。


「あ、と……」


 主語が浮かばない。

 名前はセツの一つしか知らない。ただそれを口にすることは今の彼女を否定することになってしまいそうで躊躇われた。リインフィル、シノと関わったおかげでこの場所における想いの役割の大きさは分かっている。言葉に残して彼女をセツと呼ぶのは怖い。

 曖昧な呼びかけが続いた。「ねえ」「しっかりして」「何があったの」。表面を撫でるだけの声かけ。

 女の子は目覚めなかった。霊体に睡眠はいらないのだから外的要因によるものだ。

 部屋を確認するが箒はない。

 導き出される結論は一つ。


「リインフィルさんか……チ」


 滅多にしない舌打ちが出た。


「最初から一人で決着をつけようと思ってたな……! 何が箒が回復に役立つだよ! まったく!」


 家周囲は結界に守られている。女の子はここにいる限り安全だ。寝かせておいていい。

 ハーニーは即座に判断すると家を飛び出した。湖はすぐ近くだ。

 湖畔に出て視界を確保すると夜闇の元、相変わらず邪悪な存在が湖に留まっている。見れば月に照らされた湖底から小さなマリスが浮上しようとしているのが見えた。どうやらこの巨大なマリスの集合体は小マリスを生み出しているらしい。

 それほど外では負の感情が渦巻いているというのか。


「世終の一元、裂空石鉱──テイルメテオ!」


 詠唱は夜空から。流れ星の降る中を三角帽子のシルエットが翔ける。

 リインフィルはもう戦っている。幸いまだ攻撃は受けていないようだ。身投げのように自分を犠牲にしているわけではなく安心する。休んだおかげで力を多少取り戻したということか。

 それにこの流星魔法が発現すれば、マリス集合体に大打撃を与えることができるはず。

 あわよくばの淡い期待は秒を待たず、魔法ともども消し飛ばされる。

 マリス集合体の触手めいた腕が闇色の光を纏いながら流れ星を払った。腕部は爆発し消失するが流れ星は軌道を逸れ、湖に着弾する。水しぶきが空高く上がり湖底のマリスがいくつか消えるが、本体には何も影響がない。


「さっきより強くなっている……?」


 異形は先刻より力を増していた。それが夜だからなのか、外界の事変によるものなのかは分からない。ただ一つ間違いなく言えることはリインフィルの魔法でも抑えられない段階に来ているということ。

 リインフィルの飛行は不安定だった。傷を受け、その上大魔法を行使したのだ。疲労はすさまじいものに違いない。

 二勝八敗。

 力量差の実感を、首を横に振って切り捨てる。

 誰が諦めるものか。あの人を生贄とした平和なんて喜べない。


「リインフィルさん!」


 リインフィルが近くまで飛んできた時機を見計らって呼びかけた。

 頭上で箒が止まる。彼女の視線はマリスから切れない。不意打ちはもう喰らわない覚悟が窺えた。

 言いたいことは山ほどあった。ただリインフィルは心を読める。

 言わずとも全てを察してくれた。


「そう……随分無茶をしたのね」

「無茶はそっちでしょう! 何一人で戦い始めてるんですか! 自暴自棄じゃないでしょうね!?」

「半分正解よ。私はあなたに生きていて欲しい。だからシノちゃんに殺される前にケリを付けようと思った。無理ならさっさと身を差し出そうと……結果、間に合わなかったけれど、あなたが無事でよかったわ」

「僕は感謝しませんよ。怒ってますから!」

「……私も謝らないわ。正しいと信じた行動だもの」

「ならこの話は終わりです! 今は──あいつを倒さなくちゃいけない」


 マリス集合体を睨みつける。頭部の七つの瞳が妖しい光をこちらに向けている。腕の再生に手間取っているらしく攻撃は止んでいた。しかしその腕もほとんど再生し終えている。


「私を身代わりにすれば済む話だけれど」

「それはダメです。許さない」

「なら、どうするのかしら。私のような意志に依存して存在する霊体は身を削って魔法を使うもの。残念だけど私は力を使い過ぎたわ。絶対に消えない意志はあるけれど、大きな魔法を使う余力はもうない。今のが私の最後の一撃よ」


 魔法はもう使えない、ということか。


「覚悟の上です」


 元より接近戦を挑むつもり──しかないのだ。リインフィルに決着を頼る算段はしていない。むしろ自分たちは今まで彼女に頼り過ぎたのだ。

 ハーニーは考える。


「……どう戦うか」


 マリス集合体との戦闘において問題となるのは。


「湖ね」

「ええ。僕は水面を走れない」


 魔法で足場を作るにもセツのいない今の自分では難しい。戦闘と並行して発現できる自信がない。


「飛ぶことならまだできるわ」

「力を借ります」


 断片的な言葉で話が伝わる。繋がっている感覚が微かにあった。これが接続者のものなのか分からない。しかしそんなことはどうでもよいこと。この状況では役に立つことが全てだ。

 リインフィルが降下してくる。

 ハーニーは左手を上げた。リインフィルの跨る箒の先の部分を握る。

 霊体であるリインフィルが唯一触れる物体。それを通じて彼女の存在が確かに伝わってきた。

 リインフィルはここにいると、触れなくても温もりがあると、感じる。

 彼女を守りたい。心が熱を帯びて闘志に満たされた。


「行きましょう!」

「あなたは本当に馬鹿ね」


 二人を結ぶ箒が浮上する。ハーニーの足が地面を離れた。

 左手だけで掴まるのは中々きついが、利き手は何かあったときのために空手にしておきたいので我慢だ。長時間は持たないだろうが、そもそも長丁場にすればこちらが不利なのは明白。


「短期決戦ね。マリちゃんに疲労はないから正解よ」


 高度を上げながらリインフィルが頷いた。


「弱点はないんですか?」

「……七つの瞳、そのうち一つ巨大なものがあるでしょう。私が勝った二回はその巨眼を潰したものによるわ。でも」

「でも?」

「一度はまぐれのような不意打ち。二度目はマリちゃんがここまで強大じゃなかったから勝てた。今みたいに力を増したマリちゃんには……。私は他の時だって弱点を狙ったけど防がれてきたのよ。頭部から突如触手が現れたり、闇色の魔法爆発が起きたり、あの子の防御方法も数えればキリがない」


 踏まえてリインフィルは言った。「マリちゃんの頭に近づくのは危険よ」。

 言ってすぐに呆れ笑いを浮かべた。


「……うふふ。私も負け根性がついたのかしら。まだ止めようとしている。あなたは絶対に止まらないのにね。──ええ。狙うとすればそこよ。他は再生能力が働くわ」

「そこまで近寄れますか」


 リインフィルの飛行はふらついている。存在を削られたのだ。意識が薄くなっているのかもしれない。

 リインフィルは明瞭に答えた。


「任せてちょうだい──ちゃんと掴まってるのよ」


 高度を取っていただけの箒が急発進する。数秒経たずに最高速に達した。馬より早い加速に振り落とされそうになるが、根性で堪える。

 リインフィルは迂回してマリス集合体の背後から接近を試みた。


「────!!」


 奇怪な咆哮が轟いた。こちらの接近を妨げようと幾本の腕が伸長し襲い掛かってくる。同時に散弾も放たれた。

 リインフィルは巧みな制動で攻撃を躱していく。


「私にも世界を守ってきた自負があるっ。あなたを運ぶことくらいやってみせるわっ!」


 上下左右に振られながら魔法の箒は間隙のない猛攻を避ける。

 近づくにつれ攻撃も激化した。リインフィルは避けられないと判断した散弾攻撃を、自らを盾にして突破する。光の粉を尾に引いてリインフィルは飛ぶ。


「リインフィルさん!」

「大丈夫よこれくらい……!」

「くっ……もう少しです!」


 彼女は苦痛を感じている。だが今はここを乗り越えてもらうしかない。他に頭部まで近づく手段がないのだ。


「もう少しで奴の頭に──リインフィルさんっ?」


 あと僅かというところで不意に箒が揺れた。驚いて見るとリインフィルが箒を持つ手が外れていた。箒に覆い被さっているだけで飛んでいる。彼女の瞳に意志はあっても、度重なる存在への攻撃で力が入らないのだ。

 その間も腕が襲い掛かってくる。

 下を見る。下手な山より高い。そして山肌のようにマリス集合体の闇色の背中が広がっている。


「もういいです! リインフィルさんは逃げてください!」

「っ……まだ背中にしか……!」

「十分ですッ!」


 ハーニーは手を離した。

 これで身軽になり逃げやすくなるはずだ。


「……これが私の限界ね……」


 だが、リインフィルにとってはハーニーを運ぶことだけが意識の支えだったのだろう。ハーニーが降りるとリインフィルは役目を終えたように力を失って傾き、箒から落ちた。


「リインフィルさんッ!?」


 落下しながら名前を呼ぶ。リインフィルは気を失っているらしく抵抗なく落ちていく。

 あのままだと飛行の慣性で森の中に落ちる。樹木が受け止めてくれればいいが、衝撃は免れない。


「……くそっ!」


 ……痛覚はなくとも落下の衝撃は存在に影響を及ぼすかもしれない。

だが、自分に彼女を救う術はない。

 ハーニーは歯を食いしばりリインフィルから目を切った。

 リインフィルさんは消えない覚悟があると言った。摩耗した心でここまで飛んでくれたのは何のためか考えろ。彼女が見たのは前だ。自分が見るべきは前なのだ。


「僕が考えるべきはこいつだ!」


 ハーニーは降下しながら腰に差していた短刀、切四片を取りだす。


「シノ! こいつは人の悪意の塊、殺すべき存在だ! 分かるなっ?!」


 呼応するように切四片が柴色の光を放った。滲むようなその殺意の灯にハーニーは口の端で笑う。


「よし──」


 味方を得てマリスの背に切四片の切っ先から着地する。自分の体が着地するより先に、刃を突き刺すようにだ。マリスの体をすり抜けて自分だけが落ちてしまった場合を考慮してやったことだが、何も問題なくハーニーはマリスの背に降り立つことができた。表面は硬質だが中身は柔らかいらしく弾性がある。おかげで着地で足を痛めずに済んだ。

 マリスに物理的接触ができるのは、恐らく殺意と物体を結ぶ切四片を手にしているためだっろう。リインフィルにとっての箒が存在を強めるように、僕にとっては切四片がその役割を為している。

 触れた足から身の毛もよだつ邪気が伝ってくるが、覚悟の火で振り払う。


(敵意が来ますよ?)


 サキの声にハーニーは慌てて飛びのいた。直前まで立っていた場所、その背中から鋭利な切っ先を持つ触手が突き出してきた。それは空に伸びると曲がり、ハーニーを狙って突っ込んでくる。


「頼むぞッ!」


 それは切四片が──シノが死者の殺意だからマリスに対抗できるということへの願い。

 ハーニーは迫る触手を短刀で斬り払う。

 物体を切り裂く感触が手に来る。

 触手が断ち切られ、断面が光に溶けた。


「よし、やれる!」


 ハーニーは駆けだす。目指すは頭部の瞳。なだらかな斜面である背中を走る。

 一つ所に留まれば触手が生えて襲い掛かってくる。それを防ぐためにも駆け抜けるのは有効だった。

マリスは意図に気づいたのか進行方向に触手を数十体生み出したが。


(数だけ。相手取るのは楽です)

(みんな殺しましょう)

 ────。


「……ああ!」


 奇妙な状況。

 己にいくつもの存在を感じながら戦う。

 この程度の触手、悪意の断片に負ける気はしなかった。心の支えがあるのだ。……まだ一人分の空白を感じるが、今考えるべきことではない。

 頭部に近づくと触手ではなく通常のマリスが生まれ出た。三体同時に行く手に立ち塞がる。

 これまで一度も勝てなかった相手だ。


「邪魔だあッ!」


 流派星霜零花。殺意。覚悟。

 三つの想いを表現する戦闘。

 ハーニーは人に対しては躊躇われる無慈悲な斬撃を繰り返した。突き、抉り、裂く。元々直線的な迎撃などは見切れるのだ。一方的な攻勢となる。

 三体を消し去るのに十秒とかからなかった。

 しかし戦っている間に新しいマリスが這い出てきている。


「まだ出るのか……! ならっ」


 ハーニーはキリがないと判断し駆け出した。這い出たマリスの動きは鈍い。追いつかれはしない。

 やがてマリス集合体の頭部にたどり着いた。視界の奥には遠くの山々が見える。風が強いのは高さ故。

 瞳は頭の前面にあるので背中を走ってきたハーニーにはまだ見えない。

 しかし、もう少しだ。あと少しで弱点に……!


「なんだッ!?」



 不意に、七つあった瞳のうち小さい三つが迫ってきた。マリス集合体の黒い皮下を滑るように動いてくる。頭頂部を邪眼が奔る異様な光景だ。

 そして、ハーニーまで数mのところまで来ると眼──球体は皮下から空中に飛び出した。火の粉が弾けたようにハーニーの目の前まで飛ぶ。


「子供騙しをッ」


 ハーニーは切四片で斬り付ける。何かの結晶なのか金属音がしたが、殺意の刃は鋭利だ。構わず両断する。

 続く二つの球体結晶にも斬撃を浴びせる。三つを切断し、計六つの半結晶が空を舞った。


「弱点はッ──」


 ハーニーは行くべき先へ意識を移した。

 が、すぐに意識は結晶の残骸に戻されることになる。

 突如キイインという高音と共に鈍い光を放ち始めたからだ。


「っ……!?」


 気を逸らした一瞬の間のこと。

 結晶たちは暗い爆発を起こした。

 もしも警戒を緩めていなければ、伏せて爆風を凌げたか。または防御の構えくらいできた。

 現実は違う。迂闊にもハーニーはほとんど無警戒のまま、前に足を踏み出していた。

 爆発の圧力、飛散する破片を一身に受ける。


「あ……ああっ?」


 爆風に足が浮くのを、ゆっくりした時の中で感じた。

 遅い感覚は一瞬のこと。ハーニーはマリスの頭部から弾き飛ばされる。体の各所に結晶の破片が突き刺さっていた。痛い。が、痛みどころではない。

 ここで落とされたら再度近寄る手段がないのだ。リインフィルは気を失っている。箒も何処かへ消えた。湖という障害を越えてマリスを登る能力はハーニーになく、そもそもこのまま落ちれば湖のど真ん中。小マリスがうじゃうじゃいる。袋叩きにされる。

 無事には済まない。

 いや、そんなことどうだっていい。落ちたら戻れない。このまま落下したら、リインフィルは自分を捧げてしまう。


「くそおおおっ」


 ハーニーは空中でもがく。重力に引きずられながら抗おうとする。

 切四片をがむしゃらに振り回してマリスの体に突き立てようとするが、距離があって届かない。空を斬るだけ。こんな時ばかり腕が振り回されてこない。

 哀れな虫けらでも見るようにマリスの四つの瞳がこちらを向いていた。


「僕はまだっ、まだ戦えるんだっ! それなのにこんなくだらない終わり方……!」


 いくら声を上げても意味はない。


「あ、足場だ! 足場を作れば……!」


 動転する心を何とか落ち着かせて無色の魔法の力場を作る。

 しかし、パァン、と。

 想像が甘いのかハーニーの落下の衝撃に耐えきれず粉々になった。光の粉が舞うだけ。

 何とかしなきゃ、何とかしなきゃと思っても眼下の湖がどんどん大きくなっていく。


「く、くうう……」


 マリスの、山ほどもある全長の半分ほど落下したところで、ハーニーは暴れるのを止めていた。

 なぜ僕は気を緩めた。いや、油断したわけじゃない。急がなくちゃいけない気がしたんだ。早く倒さないといけない気が。

 落下する時間はその焦りに対して悔むために与えられたかのよう。

 何も急ぐ必要はなかった。僕が勝手に焦っていた。落ちるリインフィルさんを見て。マリスの背中を踏むことが怖くて。決着を急いだ。

 風で乾く目に涙が滲む。滲んだ瞼の裏で廃教会を出ていくサキの後ろ姿が思い出された。

 僕はまた大切な人を守れない。


(仕方ないですよ)


 内から聞こえる声は優しい。

 だけど今欲しいのは慰めじゃない。


(諦めるなら約束を果たして)


 平坦な殺意の声はもう終わりを受け入れている。

 でも諦めたいわけじゃない。

 違う。

 違うんだ。


「僕が聞きたいのはそんなんじゃないっ。僕が聞きたいのはっ……!」


 僕が本当に求めてるのは感傷なんかじゃなくて──もっと今を支えてくれる言葉だ。現状を打開する助言だ。

 現実的で……無機質な声だ。

 ──セツの声なんだ。


「く……!」


 どうしていつもいてくれる君が今いない。

 僕がいることを許してくれるって言ったじゃないか。共に在ると言っていたじゃないか。

 君さえいれば僕はッ……!


「私の名前を──!」

「っ?」


 空中で身体を捻って声の方を見る。

 遠く湖のほとりに女の子が立っていた。胸の前で手を抑え、身体を曲げて叫ぶ。


「私の名前をっ、呼んでくださぁぁいッ!」


 精いっぱいの大きな声は掠れていた。抑揚があった。生きた声だった。


「……ぁ」


 心臓が高く鳴って、ざわついていた。

 震えながら口が動く。

 名前を呼ぶことがあの子にどんな意味をもたらすのか考えもせず、ただ自分が望むままに。思いやりなどなく独りよがりに。

 己の欲望をハッキリと自覚して呼ぶ。

 生きた声にはそぐわない名前を。

 

「セツ──!」


 月夜の湖上で視線が絡み合う。

 遠く女の子の涙がきらきらと光ったのが見えた。


「『はい』!」


 二重の声が一つになる。

 女の子が光に溶けた。同時にハーニーの右腕が輝く。薄緑の光は見覚えのある色。心の落ち着く穏やかな色だ。

 握った右拳は自分以上の重さをしている。

 委ねる言葉に迷いや不安はない。未来を考える余裕を右腕がくれる。


「床が要る!」

『落下衝撃緩和のため多重に発現します』


 思い描いた想像は補強されて現実に成った。無色透明の氷の板が何重にも生まれる。

 氷を割る音が雪崩のように響く。多重の板はハーニーを傷つけず、同時に落下速度を抑えた。そして最後の一枚となる氷床にハーニーは膝をついて降り立つ。湖面に出来た最後の一枚だけ厚く作られておりヒビ一つない。

 僕にはできない想像だ。


『お待たせしました』


 その無感情な声に心が歓喜する。笑いが込み上げてきて……しかし、表情は硬くなった。

 ハーニーは右腕を見ずに投げかけた。


「セツで……いいんだよね?」

『どういうことです?』


 セツは以前と同じ態度をしているから口にするのは躊躇われた。

 だが、このことは無視できない。無視すれば一人の過去を消すことになる。


「……君は元々人間なんでしょ?」

『……』

「僕もそこまで鈍くない。氷の色は僕のものではなく君の色だ。人の姿をした霊体は君の元の姿だ。……はは。そうでなくちゃあんな防寒着を着た姿にはならない」


 マリスの異質な叫び声が轟いてもハーニーは動じなかった。


「……僕は君に何があったのか知らない。それでもセツという名は君の元の名前じゃないことは分かった。だからセツでいいのかって聞いたんだよ。君は本当は──」

『ハーニー。私は、私の名前を呼んでくださいとあなたに言いました。私自身ではなく他でもないあなたに。私はあなたに私の在り様を預けたんです』

「でも、僕はわがままだ」

『あなたのわがままはいつもささやかなものでしょう。いつも自分本位になれない人です。──でも、そんなあなたが私のことを求めてくれた。これに勝る存在意義はありません』


 僅かな空白の後つぶやかれた言葉は、無機質なのに柔らかい。


「私……セツはあなたと共にいます。これからもずっと』

「そっか……そっかあ」


 心からの笑みが零れた。

 でも、今は切り換えなくちゃいけない。


「セツ。力を貸してくれ。倒さなくちゃいけない存在がいる」

『任せてください』


 強気な物言いは、心の主柱まで支えてくれる。

 負ける気がしないとはこのことだ。強大なマリスの足元にいても、込み上げる熱で恐怖など吹き飛ぶ。


「弱点は目だ!」

『では上りましょう』


 具体的な想像はしていないにもかかわらず、目の前に氷の階段が現出する。螺旋状にマリスを周る頂までの道だ。

 氷の色。セツの魔法だ。それも二層の魔法力はある。


「結局僕よりすごい魔法じゃないか」


 明るい苦笑を残して駆けだす。氷の階段は不思議と滑らない。マリスを周るように階段を上る。表皮から伸びる触手が邪魔をしようとするが、遅い。魔法による加速を得た疾走に届かない。


『私、ちゃんと覚えてますから』


 声色はセツのものでも、心の元は間違えることはない。

 ただでさえ緩んでいたハーニーの表情がさらに緩む。駆けあがりながら出す声は弾んでいた。


「話したいことがたくさんあるよ! 文句もたくさんだ! 本当に心配させて!」

『私のせいではありません。……私が離れて寂しかったですか?』

「ああ! すごく!」

『す、なおですね』

「取り繕う気分じゃないんだよ! 今はすごく開放的な気分だ! 空でも飛んでいるような感じだよ!」

『空の階段を走っていますが』

「似たようなもん! 僕が言いたいのは、君がいれば最高だってことだ!」

『さい……私、はどう返せば……?』

「傍にいてくれればいい!」

『……はい。──頭部に達します。話は後ですね』

「うん。──シノ」


 短刀を握りしめると(五月蠅い)と払いのけるように柴色の光が煌めいた。

 ついに頭、瞳の前までたどり着く。

 空中の氷上で四つの目とにらみ合ったのは一瞬。

 ハーニーは氷を蹴って空へ踏み出した。

 切四片を右手に、構え突き出すように飛びかかる。

狙うはマリス集合体の一際大きな瞳。

 ハーニーの跳躍にマリス集合体は眼球付近から触手を無数に生み出し、迎撃に充ててくる。


(直線的な刺突で十分)


 自分にない経験が戦術的な最適解を現実にする。空中で身体を捻り制動をかけ、身体に向かうものは切り捨てた。

 続いて残った瞳の内、小さな結晶三つが暗い爆発を起こした。

 先ほど敗北に追い込んだ波動に身が硬くなりかけるが。


『魔法障壁を展開します』


 一言で緊張は解れる。爆風を防ぎ更に前へ。

 近くで見ると人ほど大きいマリスの巨眼結晶。邪気帯びる塊にハーニーは右腕を伸ばした。

 キイィ、と金属音。

 切四片が結晶に接触する。

 瞬間、刃を押し返す力が加わってくる。

 それは、人が自分の心を守ろうとするのと同じ動き。自己防衛の本能的精神の表れに思えた。

 まるで生きている人と変わらないような。

 確かリインフィルはマリスのことを、我慢した結果表現されたなかった思いの表れと言っていたか。人の、なかったことにした辛い思いを表現しているのだと。

 でも──


「その想いは、皆が頑張って押し込んだ想いなんだッ。事情があったとしても我慢って選択を採ったんだっ! その行動の責任を無闇勝手に表現するなぁっ!」


 負けじと押し返す。


「く……!」


 だが圧力で分かる。

 僕だけじゃ足りない。

 力が。

 意志が。


「シノ! 君の──僕らの復讐は暴力の元凶に向けるものだろ! なら生前のやりきれなさを貸してくれ! 僕は受け入れる!」


一拍の時が挟まった。


(ただ多数の無意識ごときに)


 切四片が柴色の邪気を纏う。鋭利な雰囲気は見た目だけではない。

 結晶にヒビが入った。


「いけええええええ!」


 一人分の場所に多くの想いを乗せた一撃は、この空間で何よりも強いと思えた。


「──────!!!」


 断末魔の叫びが夜を満たす。

 硝子の割れた音が異形の残響を打ち消した。

 結晶が砕け散る。

 瞬時に湖の景色は一変した。


「光……?」


 巨大なマリスは小粒の光になって空に拡がった。密度の高い光の雪が舞っているような湖上を、天へと昇る光の螺旋が明色に彩る。

 目を奪われながら不意に分かる。


「ああ……これが……」


 ハーニーは空を落ちながら、世界は暗くても光で満ちた景色を目に焼き付けた。

 それがきっと、リインフィルのいう世界が美しく見える瞬間だった。

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