湖畔の魔女 13
ずっと。
いつの間にか。
湖にいた私は、最初から。
零体だから身体の感覚がないということでなく、自分のあらゆるものがふわふわしている気がしていた。
記憶がないからなんだろうか。何をするにも周りが気になる。
誰でもいいから私を見て欲しい。それ以上なんて望まない。誰かが私を見てくれれば、何も言わなくたって。私の存在に気付いて、それで何も言われないなら私はそれでいいということだから。
……一人きりでいるといつも同じ疑問が沸いて自分を見失いそうになる。
私はだれ?
以前の私を知っているという唯一の人、ハーニーさんは私をセツだと言っていた。実際合っていると思う。その名前に胸を打つものがなくても彼の名前は胸を温かくするし、会話をすると話の流れが馴染む。知っている感覚になる。
そこまで感じて、どうして思いだせないの?
分からない。分からないからふわふわする。水の中でもがいて、浮上しているのか沈んでいるのかも分からないような、あやふや。
「あった……」
女の子はリインフィルの家にいた。
ドアは開放されている。それは霊体である彼女がドアをすり抜けるのを見られないようにするため。リインフィルが霊体だと分かってから初めてわかる理由。
頼まれた箒は彼女の寝室にあった。寝室にはベッドと本棚がある。本棚には古ぼけた本が並んでいた。表紙の文字は見たことがなかった。
記憶があれば読めたのかな、と落ち込みそうになるのを箒に意識を向けて振り払う。箒は本棚に立てかけてあった。
「本当に持てる……」
箒は霊体なのに持つことができた。感触もある。だから自分がここにいる実感が沸く。
両手で持った箒をまじまじと見つめる。
「……私も飛べるかな」
「あなたには無理よ。飛び方を知らないから」
驚いて声の方を振りかえると、寝室の入り口にリインフィルが立っていた。室内は暗く表情は分からない。
「ど、どうしてここに? もう動けるんですか?」
「心の傷は心で癒えるわ。あの子の優しさは私に力をくれる。……あれは消しちゃいけない光よ」
言葉のとおり、腹部の複数の穴は塞がっていた。微かに見えた表情にはまだ苦悶の色が残っているが、先ほどより状態はとてもよい。
リインフィルの言葉に女の子は頷いた。
「そう……ですね。何も覚えてない私にあの人は優しくしてくれた。邪魔に思ってもおかしくないのに、私の今を認めてくれました……」
「そうね。それもあなたの本心でしょう。けれどそれはまだ半分」
「半分?」
「あなたはまだ思い出していないでしょう? セツの記憶を」
女の子は悔しくて下を向いた。
そうなのだ。それが彼に対して申し訳なくて仕方ない。だからと言って思い出せないからやるせない。思いだしても自分が変わってしまって、失望させるかもしれないから……怖い。
「あら。あなたも気づいてるじゃない。どうして思いだせないのか」
考えを読まれたと分かって女の子は恨みがましい目を向けた。それもすぐに勢いを失って沈んだ気持ちだけが残る。
リインフィルはまるで代わりにするようにため息を吐いた。
「だから荒療治を勧めたのよ。私の指示した方法で壁を出ていれば元に戻ることができた。戻る時、その変化への恐怖を克服できていなければ彼の知るセツだけが戻ってきていたのよ」
それは暗に、リインフィルが今の自分を消えてもいいものと考えていたということ。
だが女の子はそれを憎めなかった。
自分が消えたら。
その仮定を思い浮かべてほっとする自分がいるから。
その弱気に反論は飛んでこない。
「悪いことじゃないわ。そういう道もあったという話。半端な想いは消して、完全に元に戻った方がいいかもと思ったのよ。大きなデメリットがあったとしても私には感応背景が見えた。あなたよりあなたが分かったからね。……でも、今は簡単にそうすればいいといえない」
「どうして?」と聞くのは逃げたがっている証拠。
リインフィルは女の子向けではない呆れを見せた。
「……やれやれね。彼にとっては、私まで大切な人に含まれていて守りたいそうよ。今のあなたもそう。彼は当たり前のようにあなたも守る気でいる」
「それは私の先にセツを見ているからで」
「本当にそう思うのなら軽蔑するわ」
心の読める人が前にいる。逃げ場はない。
本当は自分でも分かっていた。
「……今の私も、あの人は認めてくれてるんですよね。何もしてあげられていないのに……」
「その困り方は共感できるわ」
お互い同じだ。「こんな自分が」と、自らにそこまでの価値を見出せない私たちを彼は認めてくる。だから戸惑ってしまう。居たたまれなくなる。
傷をなめ合うような沈黙の中二人立ち尽くした。
先に今を動いたのはリインフィルだった。
「箒を頂戴」
女の子はそれに素直に従った。
箒を受け取ったリインフィルは一息吐くと自嘲的な笑みを浮かべた。
「本当に……お人よしばかりで呆れるわ」
「え?」
物思いに耽りかけていた女の子が顔を上げると、目の前──自分の眉間に箒の柄が向けられていた。
「許して。彼を死者の殺意なんてつまらないものに殺させるわけにはいかないの。急がないといけないのよ」
コツン、と小突かれると途端に意識が混濁した。
視界が乱れ、思考と現実が曖昧になる。世界が激しく揺れた。
気づいた時には寝室の床に倒れていた。
辛うじて動いた首でリインフィルを探す。玄関を出る寸前でリインフィルがこちらを見たのが分かった。
「あなたになら分かるはずよ……自分を犠牲にしてでも誰かを救いたいということが」
「わ……たし……なら?」
自己犠牲の感覚が何かに繋がる。
心の奥の奥。沼の底で失せ物に手が触れたような感覚。
どうすればこの感覚の元を探せるだろうか。考えるべきは何なのか。
考えなければならないのは、自分が誰かということ?
──違う気がする。
大切なのは自分が何を思ったか。
記憶は連続していなくても、想いの源泉は連続している。
私の感じ方は、私である限り変わらないのだから。
「私……は……セツで……? それで……?」
己を探り、辿る。
気持ちの流れ、感情の経緯。今の感性を得た、過去。
知らなきゃ。進まなきゃ。
じゃないと置いていかれてしまう。そんなのは嫌!
そして──知る恐怖に打ち勝つ。
濁流のように意識を支配した記憶を見、変化を受け入れる。
「あぁ……私って……」
寄るべのない女の子の、言葉も意識もそこで途切れた。
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