湖畔の魔女 10
リインフィルには家の外で待っているように言われた。セツを元に戻すための準備があるのだという。
ハーニーと女の子は湖の巨大なマリスから目視できない森の中で待った。
家の周囲にある結界に阻まれているのか、異形の暴れる音は届いてこない。静かなものだ。
見上げれば太陽はオレンジ色になっていた。空も同様に感傷的な赤みを帯びている。
異形の存在が現れた中で夜が迫っているのは言い知れぬ恐怖感を呼ぶ。
「これからどうなるんでしょう……」
女の子の声は相変わらず抑揚があった。不安そうに下を向いている。
「リインフィルさんは君を元に戻すと言っていた……けど」
ハーニーは女の子をちらりと窺った。
けど、の続きは言葉にするのを躊躇うものだ。
もちろん本心では、外で何があったのか確認したい。だが外に出るということは今の状態──セツが記憶を失い離れている状態──を解消するということだ。
今の彼女を尊重したいと思いながらもセツには戻ってきてほしいだけに、代わりの問いかけは曖昧なものになる。
「君は……どうしたい?」
言ってから唇を小さく噛んだ。
ずるい言い方だ。僕から「元に戻ってくれ」とお願いしたくないからって相手に言わせようとしている。こんなのは姑息な小心者のやり口だ。
自分を責めていると予想外な小さな笑い声が返ってきた。
「……あはは」
「? なんで笑うの?」
「私、あなたの重荷になりたくないですよ。我慢しているんじゃなくて心から思うんです。だから、というわけじゃないんですけど……元に戻りたいと思います。元の私を思いだしたいのも本当……ですから」
「でも君は変わってしまうかもしれない。セツは声が揺れなくて、理性的なんだ。表立ってはしゃぐこともなかった。それでも君は」
「いいんです、きっと。私にとって、これは自分だけで終わらない素晴らしいことなんです」
女の子は表情を緩ませて、どこか誇らし気に言う。
「私を見てくれる人はあなたしかいません。私にとってあなたは世界そのものみたいなものです。これは以前の私──セツもそう感じていた気がします。だから、あなたが喜ぶことなら私はしたい。……えへへ。ちょっと格好つけてますね」
照れ隠しなのだろう。女の子は左右に揺れて目も泳がせた。
彼女の見た目は自分より3,4つは年下だ。
だからだろう。自分当ての背伸びした献身に胸を打たれる。
「君は、僕なんかより覚悟してるんだね」
「あなたは気にしなくていいんです。これは私の問題なんですから!」
胸を叩いて自信を主張するが大げさすぎて滑稽に見えた。
「……そういえば、ついぞハーニーって呼ばれなかったな。結局『あなた』ばっかりだった」
女の子の白い頬がぽっ、と朱色に染まる。
「うう、私も恥ずかしいんですよ? でもそれがしっくりくるんです。仕方ないじゃないですかあ」
「うん。……僕は嬉しかったよ」
「そう、ですか。えへへ。気を遣ってたわけじゃないですよ。自然とそう呼んじゃうんです。だからですね。過去と繋がってる気がして嬉しい」
トントン、と地面をノックする音が横合いから。
リインフィルが箒の柄を鳴らしたのだ。いつもの三角帽子に魔女の服で箒を片手にしている。
「少し話は聞かせてもらったけど、セツちゃんが嫌がってないようで良かったわ。本当なら自然に戻るのを待つべきだけど、今は」
リインフィルがちらりとこちらを見た。
「時間がないから」
視線は女の子に移った。
女の子は少し無理をしたような、それでいて勇ましい顔をしていた。
「私は大丈夫です! ……ちょっと怖いですけど」
「怖がることないわ。痛かったり意識を失うこともないから。さてと」
リインフィルはハーニーの前に音もなく移動した。
「夜が来る前に済ませましょう。──あなたはこれを右手に持っていて」
リインフィルは箒を持っていない左手を差し出した。
掌の上で汚れた指輪が浮かんでいる。かつて美しい宝石だっただろう装飾はくすんでいた。
「何ですかこれ」
「あなたとセツちゃんを繋ぐ媒介よ。この指輪には幽移の魔法をかけてあるわ。心配しないで。初めての魔法じゃないから失敗しない」
「は、はあ」
幽移の魔法というのはよく分からないが、とりあえず指輪を受け取る。浮遊する力を持っているのかと思ったが、ただリインフィルが浮かせていただけだった。持ってみても普通の指輪に感じられた。
「あとは指輪を手に持った状態でいればいい。セツちゃんはその指輪と寄り添うようにいること。繋げない手を繋ぐような形にしてればいいかしら。そして、そのまま結界を抜ければ元の居場所に帰るはずよ。かつてそこにあったんだから自然とね。……その方がいい。結界は私が一部分だけ穴を開けるわ」
リインフィルは話の流れであっさりと続けた。
「だからそこでお別れ」
お別れ……。
寂しさを覚えるとリインフィルは困り顔をしていて、寂しがることが悪いことに思えてしまう。
話を変えるように疑問を口にした。これも気になることだから、と自分に言い聞かせて、別れについて考えるのを先延ばしにする。
「指輪は手に持つんですか? 指に嵌めるんじゃなく?」
リインフィルは瞬きほどの短さで優しく笑った後、軽く悩んだ。
「ん。指に嵌めても大丈夫だとは思うけど、今まで握ってやったことしかないの。その時は両手を握り合わせてその中に指輪を持っていたから、今回もそうした方が確実。でも両手じゃなくてもいいかしら。あなたの場合右腕にいたみたいだし」
「右手に持っていればいいんですね。それだけで?」
「ええ。それだけ。簡単でしょう?」
確かに簡単だ。拍子抜けするほど。
ただ指輪を持っているだけで……ん?
「でもこのまま結界を出たらこの指輪は返せなくなるんじゃ? あ、でも結界に穴が開いているなら大丈夫か。皆の無事を確認したらまた戻ってくればいいし」
リインフィルは静かに否定した。
「……いえ。結界はあなたが出た瞬間閉じるわ。そこまで都合よく通り道を維持できないの。その指輪はあげる。あなたは良いお客様だったから、そのお礼ね」
お礼、と言われるが何かをしてあげられた覚えがない。
そもそも、だ。
「ずっと気になってたんですけど、そのお客様っていうのは何です?」
「立ち位置を示す言葉としてはふさわしいから。うふふ。私は献身的な魔女よ。ここから出る気はないの。誰かを助けに呼ぶつもりもない。あなたは本当に珍しい、道に迷った旅人のようなもの。お客様がふさわしいでしょう?」
「……かもしれませんけど」
「遠い気がして寂しい? うふふ。困ったさんね。でも友達って感じでもないでしょう?」
「僕はそっちの方が嬉しいですよ」
「んんー」
リインフィルは嬉しそうに呆れた。それ以上何も言わないことが、これからくる別れを暗示しているようで寂寥感が増す。あえて話題にしないようにしていたのに実感が伴ってきた。
「さ、移動しましょう。湖から離れて結界のところまで」
「あ、はい……」
促されるままリインフィルと女の子と歩く。湖と真逆。外界へ向かって。
会話なく歩く道中、一歩一歩進むたびに胸が締め付けられた。
こんなにあっさりお別れ?
信じられないという気持ちがほとんど。
できることなら、もっと話をしていたかった。こんなことが起きなければよかったのだろうか。いや、そもそも普通に出会えていたら? 色々違った気がする。
短い間だったのにこうも心が揺さぶられるのは、彼女が心を読むからだ。心の距離が近づくのに障害がないから、数日で親しくなれた。心を読んで、なお僕を嫌わないでくれるということは、まるで自分を全て肯定してくれている気がした。セツの支えに似た心地だ。だから離れたくないと思ってしまう。
自分勝手な願望が渦巻くのすら、リインフィルは認める。
「その気持ちはありがたいわ。でも、あなた自身分かっているでしょう。それよりも大事な理由があなたにはある。心配なんでしょう? 皆が」
「……はい。ですけど──」
リインフィルさんも心配だ。
そう続けようとした言葉は遮られた。
「ここは戦場になるわ。巻き込まれる前に出た方がいいのよ」
「でもリインフィルさんは──」
また遮られる。
「いつか戻らなければならないなら、別れを辛くするよりも早く離れた方がいい。心の垣根を越えたやり取りはあなたにとって心地良いものかもしれないけど、ここにいても得るものはないもの。停滞した時の中を生きることない。あなたは前に進むべきよ」
その停滞した時の中──誰もいない時の中にいるリインフィルさんはどうなるのか。
今度は思った時点で遮られた。
「いい。私にはもう届いているから、聞きたくないわ。私たちはこれでお別れ。三日もない浅い関係、ささやかな思い出でいいのよ」
「っ」
突き放すような言い方にハーニーは言葉が詰まった。
「……うふふ。まったく。仕方ないわね」
リインフィルは立ち止まり、こちらの目を見つめると似つかわしくない明瞭な声を出した。
「あなたの来訪は私に意義を思いださせてくれたわ。これで張り切って戦おうと思える。お礼を言いたいのはこっちの方。だから……しっかりしなさい。あなたはあなたの大切な人を守るの。あなたのするべきことをするのよっ」
彼女にとって慣れないものだろう大きな声は後半掠れ気味になっていた。
その姿は無理をしているように自棄っぽくて、むしろ後ろ髪を引かれる。
それでも気持ちは伝わった。
「そうですね。……そうですよね」
リインフィルの言うことは正しい。僕がいても状況は好転しない。太刀打ちできない僕ができることは、彼女の負担にならないよう遠ざかることくらいだ。
外の心配もある。リアが巻き込まれていなければいいが、不安だ。無事かどうかすぐに知りたい。
──けど、なんだ。この心のざわめきは。気持ち悪さは。
単純な寂しさじゃない。何かを忘れているような落ち着かなさだ。
僕は前にもこんな気持ちになったような気がする。それはいつのことだったか。
「気のせいよ。さあ、着いたわ」
「え? あ」
何もない森の途中で止まる。いや、よく見れば空間が僅かに歪んでいた。
結界だ。
「──はい。これで出れるわ」
トン、と。
リインフィルが箒でつつくだけで空間の歪みが消えた。人ひとり通れる分の大きさでぽっかり穴が開いている。
あっけない。
あまりにもあっけなく別れの時が来る。
心の準備は曖昧だ。急すぎる。
ここを出ればリインフィルさんにはもう二度と会えないかもしれないのに。
「夢を見ていたと思えばいいのよ。さて、と。セツちゃんとも話したいことがあるでしょうし、私は行くわ。マリちゃんが待ってる」
踵を返すリインフィルを思わず呼び止めていた。
「こ、これで?」
終わり?
「終わり。その程度でいいのよ。だからお客様なの。……元気でね。そして自分を見失わないで」
リインフィルは箒に跨ると風で落ちないように帽子を押さえながら飛んだ。帽子で表情は見えない。
そして、そのまま飛び去った。黒い影はすぐに木で見えなくなり空には残影も残らない。
あっさりとした別れだ。
いや、これがリインフィルさんらしいのかも。
きっと可笑しいのに、不思議と笑えなかった。
「……それじゃあ、私たちも行きます?」
「あ、ああ。うん。そうだよね」
他にない。湖を出る理由もちゃんとある。
ハーニーはずっと握っていた指輪を見た。
これがあれば元に戻れる。セツがどうなるのかという心配はあるが、この子も覚悟している。問題ないはずだ。
改めて外へ繋がる通り道を見た。
数歩進めば外に出られる。皆の元へ行ける。
「……」
どうも決心がつかない。
マリスの問題を放置するから?
寂しい気がするから?
それらは残る理由としてふさわしくないと分かっている。自分には戻る理由があり、そうすべき状況にあると理性は理解している。
ただ、何かが引っかかっていた。それが、たかが数歩を止めている。
「……リインフィルさんが心配なんですか?」
女の子は申し訳なさそうにした。この子は悪くない。そう声をかけるべきなのだが、気の利いたことを言えない。
「それもあるけど、違う気がする。なんだこの感じ……」
心配だとか、そういう単純な感情問題ではない。何か強烈な……既視感めいた感覚だ。
それが何なのか分からないのに、この感覚は無視すると後悔するという謎の確信があった。
よく分からないけど進めない。そんな曖昧な理由で皆の心配を後回しにして残るのか? 外で何か事件が起きたのはほぼ確かなんだぞ?
非難する内の声を遠ざけるように首を振って、心境を吐露する。
「大切なことを忘れている気がするんだ。それはきっと僕にとって大事なことで……」
でも、何だろう。何をやり忘れている? できることは他にないはずだ。
何かないか、ともう一度指輪を見る。
……この指輪はとても古びている。前回幽移の魔法を使った時は両手で握り合わせたと言っていた。祈るように持っていたということだ。きっと大切なものだ。
これを返さずに持って行くことが心残り?
「……違う」
物の問題よりもっと何か心的な──
「この指輪を持って行くのが気になるんですか?」
女の子の言うことはもう考えて切り捨てたことだ。
違う、と言って苛立ちそうになるより前に女の子は続けた。
「こんなに汚れてしまっても大切にとってあるってことは、思い入れがあるんですね。代々託されてきたものとかなのかな」
「──いや。もう考えたんだそれは。返すとか、物の話じゃない。そりゃあ思い入れがあるこれを持って行くのは気が引けるけど──け、ど……?」
今の女の子の言葉。
真白な紙に一粒の色を見つけたような引っかかりは、女の子の口にした何気ない予想の言葉。
反芻する。
「託された……」
託された。
その一語。
口にして──不意にハッキリと声が聞こえた。
(私はそれでもあなたを恨んでいませんよ)
「ッ」
周囲を探す。女の子しかいない。
「どうしました?」と女の子は言うが、それどころじゃない。
今の声の主を思えば、心の靄は吹き飛んだ。
「思いだした……! いや、僕は思うべきだった!」
「ど、どういうことですか?」
興奮そのままにハーニーは女の子に訴えた。
「やり残したことがあった気がしてたんだよ! それは僕の後悔だったっ。また繰り返すところだった!」
リインフィルは雰囲気とは別のところがサキと似ている気がしていた。それは僕を遠ざけようとするところだ。僕にいて欲しい気持ちがあるくせに、一線を引いてそれより先に来ない。
僕はサキさんを本当の意味で救えなかった。
その引かれた一線──貴族への恨みは消せないという立場を認めて、僕は何もできなかった。それが完全に間違っていたとは思わないけど、もっと捨て身でぶつかっていれば結果は変わったかもしれない。そのやりきれなさははずっと消えずに残っている。だから僕はあれ以来、他人と対する時は相手のためになると感じたら躊躇わないようにしてきたじゃないか。
女の子が戸惑っていた。
「も、戻るんですか? でも」
「戦えないのは分かってるさ。僕じゃマリスに有効打を与えられない。役立たずだ。でも」
今なら分かる。あの人はサキと似ている。
「あの人を本当の意味で一人で戦わちゃだめだ」
「本当の、意味?」
「自分一人で自分自身を肯定するのは、寂しいことなんだよ。誰かのために、なんて素晴らしい理由があったとしても、見返りがなくちゃ──戦った甲斐がなくちゃ、続かないに決まってる」
だからリインフィルは僕の来訪を喜んだんだ。目に見えた守るべき対象に出会えたから。
「世界中誰一人リインフィルさんの献身を知らないわけじゃないって伝えるんだよ。僕は、僕らは、あの人を覚え続けることを言葉にして残さないと。存在を認められてやっと居場所を得るって、君にも分かるはずだ」
「居場所……」
女の子は胸を抑えるようにしてハーニーの言を飲み込んだ。瞳からずっと宿していた不安の色が消える。
「そうですねっ! 見てくれる人がいるのは大事なことです!」
ハーニーは頷いた。
この子なら伝わると分かっていた。普通の人のように、家族という見えない支えがない僕らは、些細な支えがどれほど心強いか知っている。
「……『私はそれでもあなたを恨んでいませんよ』か。まったく」
サキの記憶が導いた答えは、本人の本当の気持ちではないのかもしれないが、それでも彼女の言いそうなことだ。少し皮肉っぽくも嬉しい。
『それでも』とは、サキに対してできなかった感情優先の行動をしても、ということだ。
「身代わり、ってわけじゃない。分かってくれるよね」
「?」
女の子が独り言に首を傾げる。返事はなくとも言葉を口にしたことに意味があると思うから、これでいい。
ハーニーは指輪をとりあえず、と人差し指に嵌めた。
「よし、戻ろう! そして、ちゃんと伝えるんだ」
「はい!」
結界に背を向けると、迷いが消えた。
リアにはネリーたちがついている。リインフィルさんは一人だ。選択肢を蹴った後だと、これで良かったと確信できた。
「臆病なのはどっちだよ」
リインフィルは最後、言葉を遮ってばかりいた。それは逃げだ。自己完結的な献身は気が楽だから。身を削っていることを他人に知られると重荷に思わせそうで、その負担の申し訳なさから逃げたんだ。
「それくらいなんとも思わないのに!」
言いながら、自分にも当てはまると感じる。
僕が一人で気を遣っているのを、周りは同じ風に感じていたのかもしれない。だとすれば、これから気を付けよう。一人で終わる自己犠牲は外から見るとたまらなく寂しい。
ハーニーは湖の方へ踏み出した。
別れの辛さは、意味があるから苦しいんだ。
その心の声にサキの返事はもちろんない。肯定されない。
だが否定もされなかったということ。
自分勝手な理屈をこねて意志に変える。
「走るよ!」
ハーニーは来た時と真逆の心地で走り出した。
陽は暮れつつある。太陽はほとんど真横だ。赤い空が夜の準備をしており、月が主張を増しつつあった。もうすぐ夜が来る。
湖にある程度近づくと急に破壊音が聞こえ始めた。今まで衝撃や音を遮っていた家付近の結界を抜けたのだ。耳が痛くなるほど激しい音が連続し始める。さっきも暴れていたが、今の轟音の量は桁が違う。山が壊れるような音の暴力。連鎖的な水と大地の抉れる振動。
「もう戦ってるのか……!」
駆ける足が急ごうとするが、女の子を置いていくわけにはいかない。小柄な彼女に合わせると速度は落ちる。
遠目に黒い影が空を飛ぶのを見た。前傾姿勢で風の抵抗を小さくする戦術的な飛行をしている。
ハーニーは木々を抜けやっと視界が開ける湖の傍まで来た。改めて見上げる。
湖の中央に座するマリスの集合体は無数にある巨大な腕状の切っ先を滅茶苦茶に振り回している。リインフィルは不規則な動きで相手を翻弄していた。その速さは加速魔法で駆けるよりもはるかに早い。
夕暮れと夜が混じった空を暗色の魔女が飛翔する。
マリス集合体の攻撃の手が緩んだ瞬間、リインフィルの周囲に円形の青い光が広がった。魔法陣というべきだろうか。記号らしき文字で形成された光の円は輝きを放つ。
星の魔法だ。
宵空高くから黄炎を纏った流星が五つ降り、マリス集合体に直撃する。
けたたましい爆音が鳴った。
湖面の水が蒸発し光が弾けた。
「────!!」
不快な鳴き声は苦悶を示しているように感じられた。事実、マリスの集合体は大部分を損失している。周囲に群がっていた小物などは総じて跡形もない。
「やった!」
さすが一人で世界を守ってきた魔法使いだ。魔法の格が違う。
これで大勢は決した。心配することなどなかったのだ。
「リイ──っ?」
呼ぼうとした声が止まったのはマリス集合体に異変があったから。
ぐちゃぐちゃと肉をこねくり回すような生々しい音が幾層にも重なって響く。
再生し始めたのだ。それも早い。信じがたい速度で欠損が埋まっていく。
そして気づいた。
リインフィルから見えない背の部分から細い腕が生え、伸びるのを。
彼女は与えた手傷を確かめているのか速度を落としている。
あの背中から生えた腕の曲がり方、切っ先の方向は……まずい!
「背中の腕が狙ってるッ!」
遠く空にいてもリインフィルは警告にすぐ気付いた。回避運動は早い。
──しかし、悪意の振るう鋭利な腕は音よりも早かった。
耳に残る不快な音がした。
「ああっ!?」
「ひっ」
ハーニーと女の子の声が重なる。
音速の一撃がリインフィルに直撃した。
箒は砕け、暗い空に散る。
目で追うのがやっとな速さでリインフィルは大地に叩き落されていった。
木が折れる音と衝突音が湖に木霊する。
「────!!!」
夜光の下、異形の存在が異音を咆哮した。まるで勝利の雄叫びのような長い吠え声。
今起きた現実に膝が折れそうになる。
「そ、そんな……嘘だ……」
湖に近づけば視界が広がる。月光を湖が反射するため、湖の反対側まで確認できた。どこに落ちたのか探す。
見つけた。場所はここから湖四分の一周ほど行ったところ。
リインフィルは根元から折れた木の近くで力なく倒れていた。遠目で状態は分からない。
「こんな……こんなことがっ!」
ハーニーは全速力で走りだした。今はもう女の子に気を配る余裕などない。ただひたすら駆けた。
生きていてくれ。軽傷であってくれ。木にぶつかったから大丈夫かもしれない。あの人ほどの魔法使いなら対策を講じていたはず。
状況を見れば期待薄な願望ばかり胸にして走った。
幸いマリス集合体は流星魔法で傷ついた形を再生するのに集中しているらしく、追撃はない。
だから多少目立っても最短で行けるのだが。
「くっ」
どんなに急いでもセツがいないから加速魔法はできない。
情けない。一人だとなんて弱弱しいんだ。こんな基本的な魔法もできない。
もう少し。もう少しだけど……!
「リインフィルさん! リインフィルさあああん!」
勝てない相手の注意を引くと分かっていても安否を確かめられずにいられなかった。
少しずつ近づいていく彼女の身体は動かない。ぴくりとも。
「まだ何も伝えられてないのに……っ!」
完全に目視できる距離まで近づくと、走る力が抜けていった。確認することが怖くて、終いには歩みになってしまう。
落下地点は暴風が通り過ぎたように荒れていた。木は折れ、地面は削れている。
リインフィルは倒れ伏せていた。荒れた森の一部を見れば絶望に沈みそうになる。
理性を保てたのはそんな中にも安心材料があったからだ。
まず血の跡がなかった。またリインフィルの体は原型を留めている。骨折すら外から見て取れない。無傷にすら見えた。
やっぱり対策していたんだ! さすがリインフィルさん!
気力を取り戻し近寄ろうとして──
「来ないで」
「っ」
リインフィルは手で制しながらよろよろと立ち上がった。
「リ、リインフィルさん? 大丈夫なんですか?」
恐る恐るの一歩はほとんど無意識だった。
「……言葉足らずだったわ」
「えっ?」
彼女の落胆の混じった声で立ち止まる。
「────!!!」
悪意の叫びに攻撃の意志を感じ、注意を向けようとした時にはハーニーの足元に魔法陣が生まれていた。
「プレスウインドッ」
魔法陣から風が巻き立つ。緩やかな風なのに力があり、ハーニーは地から足が離れた。
飛ばされるハーニーの目にハッキリと映ったのは、異形の身体の一部──鋭利な部分が散弾となって、一瞬前にハーニーがいた場所と──リインフィルを貫いた光景だった。
着弾の勢いでハーニーは風の魔法から解放される。バランスを失って地面を転がった。やがて体勢を立て直して声を荒げた。
「リインフィルさんッ!?」
「──あ……」
消え入るような微かなうめき声と共に、リインフィルは後ろにゆっくりと倒れた。
「う、嘘だ……嘘だッ」
明らかに身体を貫いたのを見たハーニーは、立つのもままならず這い寄った。
近寄り、言葉を失った。
「え……?」
絶句は目の前の事象を理解できずに。疑問は目に見えるものが嘘に思えて。
リインフィルの体にはいくつも空洞が開けられていた。
だが、そこから流れるべき赤色、生命の象徴がない。
深紅の血の代わりに光の粉が空に舞っていた。
「そ、そういう攻撃なのか……?」
気を失っているらしいリインフィルに手を伸ばす。肩を掴もうとした手は──何も掴まなかった。
正確には、何も掴めなかった。
「な、何で?」
何度も触ろうとして透ける。霧を捕まえても無駄なようにリインフィルに届かない。
ハッ、と思い出す。
似た経験を何回もした。
シノ、セツ、マリスも同じ。
僕は触ることができない。
なぜ?
──彼女たちには実体がないから。
ということは、リインフィルさんは、まさか。
「あなたと同じフリをしたかったのよ」
気づけばリインフィルは細い目を開けていて、柔らかい表情をしていた。
「また心を……。じゃあリインフィルさんは」
「何百年も前に生まれた人よ。……近いわ。恥ずかしい」
大して恥ずかしくなさそうに言うから、ハーニーは現実感を取り戻した。
「そんなこと言ってる場合じゃない! 早くここから逃げましょう! 身体がこんな……!」
いくつもの穴から光の粒子が漏れ出ている。それは存在そのものを失っているように見えた。
焦るハーニーに対して、リインフィルはひどく落ち着いていた。
「いいのよ。私のことは放っておいて。私は霊体、心は削られるけれど大丈夫。私はまだ耐えられるわ。……今はちょっと動けないけど、あの子は私に気付いてるからまあ、いい」
「何言ってるんです! 見つかってるからまずいんですよ! このままだと動けないのに攻撃される! 嬲り殺しですよ!」
「それでいいのよ」
「え……?」
リインフィルは空を見ながら諦めたようにつぶやく。
「あの子たちは悪意の発露、エネルギーと言ったわ。動けば減っていくのよ。人って感情に任せて暴れたら楽になるでしょう。それと同じで」
「だからっ!?」
「私が受け止めればいい。……大丈夫。私に痛覚はないから」
「な……何言ってるんです? そんなことさせられるわけないじゃないですかっ」
「あら……二勝八敗と言ったはずよ」
一瞬頭の中が真っ白になった。すぐに悪寒が全身を伝う。
「は、八回も身を差し出したって言うんですか!? あの言葉の通じない悪意の塊に!?」
「……」
伏せた目は答えを物語っている。
「そんな……」
憤り、同時に悔しさが爆発する。
「そんなッ、そんなのおかしすぎる! 自己犠牲にも限度があるでしょう!?」
「誰かがやらなきゃいけないことよ。私にも意志がある……意志しかないの」
リインフィルは起き上がろうとして、断念した。
「ちょっと……無理ね。少しの間動けそうもない。……さ、あなたは行って。あなたまで巻き添えになっちゃいけない。あなたは生きているのよ。私は意志がある限り残り続けられるけど、あなたは取り返しがつかない。……私なら大丈夫だから。あなたがくれた人の心に触れる時間は私に力を与えたわ」
ハーニーは歯噛みしながら俯いた。
存在そのものが奪われる苦しみをリインフィルさんは感じ続けてきた。いや、僕らが押しつけてきたんだ。何も知らない僕ら、皆が。それなのにこの人は恨みもせず、自分が犠牲になることを厭わずに「大丈夫」という。霊体だから、意志があるからと。
だから何なのか。それがこの人を見捨てる理由になるのか。
なるはずがない! 断じて!
「僕はリインフィルさんに独りじゃないと伝えに来たんだ! ここで見捨ててたまるかッ!」
ハーニーは震える心に従いリインフィルを庇うように立った。
異形を睨みつける。
たかが見知らぬ大勢の悪意などに、この人を傷つけさせていいはずがない。
覚悟は固まっていた。
「だ、大丈夫ですかー!」
遅れて辿り着いた女の子にハーニーは怒声混じりに命令した。
リインフィルはマリスを攻撃できる。
つまりだ。
「霊体同士なら触れるんだろ!? リインフィルさんを連れていってくれ!」
「馬鹿言わないで……私は大丈夫よ。あなたじゃ勝てないわ。絶対に」
「え、え?」
戸惑う女の子にハーニーはもう一度強く言った。
「リインフィルさんを連れてくんだ! 僕が時間を稼ぐ! 僕を信じろ!」
「は、はい!」
「無理よ……ダメよ……!」
リインフィルが弱弱しく手を伸ばしてくる。ハーニーは一瞥して湖に走った。
心を読めるんだ。僕に何を言っても聞かないことくらい、分かるはず。
リインフィルを連れ出す時間……大体五分か、注意を引く時間は!
「こっちを見ろ化け物ッ!」
リインフィルたちから前に進み出て、湖の傍から挑発する。
「──!!」
巨大なマリス集合体の頭部。七つの目が一斉にこちらを見た気がした。
自分の数十倍はある巨躯。圧倒的な邪気。
寒気がする。恐怖も感じた。
だが足は、声も、震えなかった。
「何が……何が人の悪意だ! 皆辛いこと我慢してるって? はけ口がないからこんな姿になって暴れるって? ふざけるなっ! 本当は辛さに立ち向かうために使うべき力を、無駄に使ってるだけじゃないかっ!」
人語の通じない相手に叫ぶ。それは誰にも届かない。マリスからしてみれば音の羅列でしかないのだろう。しかし、想いを世界に残したことが無意味だと思わなかった。
現に恐怖心は消え去っている。
「僕は我慢しないぞ! ちゃんと自分で立ち向かってやる!」
「───!!」
異質な叫びが轟く。マリス集合体の敵意が完全にこちらを向いた。身構える。
生者から霊体への攻撃は届かない。勝ち目のない戦い。
だが勝ち目がないだけだ。負けないことはできるはず。
異形は味を占めたのか、リインフィルを貫いた散弾を放ってきた。
「くっ!」
ハーニーに防ぐ手立てはない。剣で受けても魔法で受けても透過し、死につながる。全力で横に走った。
最寄りに木があったことが幸いした。身代わりになってくれる。
木も生物に思えるが、死者が力を持つこの湖に生きているということは、植物は生と死の狭間に在するものなのかもしれない。なんにせよ盾になることが分かった。
勝機が見えた。
「それだけか! 僕はまだ生きてるぞ!」
遠距離攻撃を凌げると分かればこっちのもの。樹木には悪いが盾にするように動く。
集中は深化しており回避に淀みはない。サキの記憶を自らの意志で利用できている実感。罪悪感が完全に解消された今、記憶の再現は素直だ。たまに肉体が追いつかない時もあるが、それはセツに助けられすぎていた証。
ただ逃げ回り、時間を稼いだ。
ひたすら避けて。ひたすら動いて。知性のない相手だから同じことを繰り返すだけで済む。
「……もう、いい頃だ」
マリス集合体は湖から動けない。
時間は十分稼いだと確信したハーニーは湖から離れ、森に紛れた。
自分では勝てない相手を何度も振り返り睨みながら、リインフィルたちと合流すべく逃げた。
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