湖畔の魔女 9

 自由に使っていいと言われた籠を片手にハーニーは湖畔周辺を歩き回っていた。目的は食糧調達。もうお昼時だというのに朝から何も食べていない。昨日も果実しか口にしていないからかなりの空腹だった。

 獣の捌き方などはサキの記憶にあるためできそうだが、あいにくこの森に動物はいない。かわりに山菜や果実は無事なものが多いので喜ぶべきなのだろう。腹持ちは良くないが、木苺や山葡萄などは甘味もあり、ついもう一粒と手が伸びる。

 時間を浪費しているという不安もあるが、セツのことが解決していない今、他にどうしようもない。

 できれば明日までに戻りたいとは思う。明日は豊穣祭だ。詳しくは知らないが盛大なお祭りだそうで、リアがとても楽しみにしていた。ネリーと踊る約束もある。……破っても許してくれそうだが、ネリーを悲しませたくはない。


「こっちにもありましたっ」


 ハーニーと一緒に散策していた女の子が先に行った木の陰で嬉しそうに手を振った。

 リインフィルに「少しでも一緒にいた方がいい」と言われて共に行動しているが、女の子に実体はないので食事はいらない。つまり、ただ手伝ってもらっているということ。

 外に出てすぐ、手伝わせて申し訳ない旨を伝えると「私はあなたしか知らないから、あなたのためになったら嬉しいです」と言われた。不意打ち気味の言葉にドキッとして、自分の知るセツも言いそうだな、と思うと不思議と安心した。

 感情的な部分を除けば、彼女はセツの面影を宿している。


「あっ、あそこにもありますよ! ほらっ」


 女の子が無邪気な子供のように駆けだそうとするが、ハーニーは苦笑気味に止めた。


「結構集まったからもういいかな。リインフィルさんはいらないって言ってたし」


 リインフィルは「自分の分は自分で」という謎の自論で食べ物を代わりに採ってくることを断固拒否した。こちらとしては少しでもお礼をしたいところだが、嫌だと言われて無理に渡すわけにもいかない。


「そうですか……? ならいいですけど、これからどうします?」

「……どうすればいいのかな」


 ハーニーが笑うと女の子も同じようにした。食料を確保したのでやることがない。

 夏なのに不思議と暑くない森の中で立ち尽くす。

 何気なく尋ねた。


「君は、どう? 呼んでほしい名前とか浮かんだ?」

「……ごめんなさい」


 しゅん、と落ち込んだように俯く女の子。


「まだ何も思いだせなくて……きっと、名前を呼んでほしくなるとしたセツなんだとは思うんですけれど……今はまだ分からない、です」

「そっか。一応言っておくけど、急かすつもりなんかこれっぽっちもないからね? 君は君でいて──」


 ふと強い記憶の残像が脳裏によぎり、言葉が途切れた。

 慌てて言葉を継ぎ足す。


「いていい。君は君でいていいんだ」

「は、はい。……あの、どうかしました?」

「あ、いや。ちょっと思いだして……はは、何でもないんだけどさ」


 誤魔化そうとするが、うまく笑えた自信がない。

 セツが自分を認めてくれたことなど、精神的な関わりについては女の子に話していない。彼女に話したのは、ガダリアやアクロイドで共に困難を乗り越えた冒険譚のようなものだけだ。


「……過去の私のことですよね?」

「あー……」


 答えに窮する。

 女の子は寂しそうな顔で笑おうとした。


「私、あなたに悲しんで欲しくないって感じます。それは今の私が感謝してるからというのもあるけれど、それだけじゃなくて心の底から思うんです。それってきっと過去の私が在る証拠だと思うから……教えてください。私、知りたいです。あなたのこと」


 真っ直ぐな瞳はハーニーだけを見つめている。他はどうでもいいと言わんばかりに、こちらの気持ちを探ろうとしていた。

 もう隠す気は起きなかった。


「……セツと出会って、僕は救われたんだ。心の支えとかよりも深いところで、本当に」


 ガダリアが襲われ、自分の居場所を失いかけてパウエルにきつく当たってしまった時のことだ。


「『あなたはいていい』って言ってくれたんだ。それが僕には……いや、今の君なら分かるよね。僕らみたいに記憶がないと、自分がいていい理由がない。セツはそれをくれた。許してくれたんだ。君に同じことを言おうとして、それを思いだした」


 女の子は戸惑った。


「私に同じことを? でも今の私は何も思いだせなくて、あなたの知るセツとは違うのに、いていいんですか……?」

「だとしても、だからこそ言いたいんだ。その心細さは分かる。分かるから言わずにはいられない」


 改めて言う。


「君は君でいてもいいんだ。記憶のない、僕の知らない感情的な君でも」


 セツには戻ってきてほしいと思うけど、これは譲れない気持ちだ。これを曲げると僕のあの寂しさまで否定してしまう。言ってくれた時の幸せまでも消してしまう。

 心が痛むのはよく知るセツに戻ってきてほしいからだ。どっちも本心からの望みだ。

 女の子は目を見開いて驚いた。やがて目の端に光るものを滲ませて俯いた。


「私でもいいんですか? でも本当は……」

「セツへの気持ちは確かにあるよ。戻ってきてほしい。でも今言ったのは、今の君に対してだ。……はは。あまり重く受け止めないでよ。きっと僕は、同じような立場に置かれた人がいたら同じことを言う。言いたいんだ。それだけなんだ」


 女の子は沈黙の後、僅かにほっとしたように息を吐いた。

 こちらを数度窺い、瞳を伏せる。


「私、元に戻りたい……」


 元、を知らないのに女の子は言う。その声は、人間になりたいと言っていたセツと被って聞こえた。真逆なのに、同じことを言っている気がした。

 なぜ今戻りたいと言ったのかは分からない。ただ一つ、何度も思っては疑ったことをやっと確信する。

 この心の動きは知っている。

 間違いない。この子はセツだ。

 理屈などよりも直感からそう思えた。

 気づいてみるとほっとして、ハーニーは頬が緩んだ。


「な、なんで笑うんですかっ。私は本気で悩んでるのに!」

「いや、何でもないよ」

「や! 何かあります! 隠してます!」

「気分が良いんだよ」


 セツに言われて嬉しかったことを、返せた気がして。

 女の子は明るさを取り戻しながら怒った素ぶりを見せる。本当に怒っていないのは、声色や雰囲気で丸わかりだ。


「これはあれです。過去の私がどんなに苦労したか分かりますっ。自分で他の人にも同じことを言うって言うし、絶対ぐにゃにゃーってやきもきさせられたに違いないです」

「なにそれ」

「女の子の友達多いですか?」

「多くはないけど」

「何人ですか」

「えと、二人?」


 リインフィルさんは友達って感じじゃないな。

 女の子はセツとは思えない大げさな反応をした。おでこに手を当てて呆れたように首を振る。


「過去の私に同情です……あ、同情というか同心? 同じなんでした」

「あの、大丈夫?」

「やめてください本当に心配したような目で見るの! あなたのせいなんですよっ」


 女の子は悔しそうに背伸びすると子供みたいにそっぽを向いた。

 見た目の年齢を考えるとおかしくないのだが、セツだと思うと違和感がすごい。


「もういいです! 怒ったからどっか行っちゃいます!」

「あまり離れたら結界が──」

「家の近くで離れるからいいです!」


 大した距離じゃなさそうだ、と言う間もなく女の子は走り去った。

 ハーニーは一人立ち尽くし、苦笑が零れた。


「あれがセツだって? ……まあ節度を守るところはセツらしいのかな」


 独り言に当然返事はない。毎度、肩透かしの気分を味わう。

 ……まあ、セツのいない感覚に慣れたくないから毎回がっかりしててもいいか。


「しまった。あの子と離れない方がいいんだった」


 リインフィル曰く、一緒にいた方が記憶に近づける、だ。食料を確保した今、すべきことといえばそれくらいなのに逃げられてしまった。

 ……しかし、この調子でセツの記憶は戻るんだろうか。

 今のところそれらしい予兆はない。自分への印象は良くなったようだが、それは今のあの子の気持ちだろう。元に戻るどころか、あの子らしさが強まっている気もする。

 ……否定するわけじゃないけど、このままあの子だけが残って僕の知るセツが消えたりしないよね。

 ため息を吐く。周囲には誰もいない。自己完結のため息だ。


「……見つけた」

「ッ」


 低い女の声に後ろを振り返る。

 木々の間に東国服の女性、シノが暗い瞳をして立っていた。

 ハーニーは通用しないと分かっていながら包淡雪に手を掛ける。

 抜刀しなかったのは、シノがその場から動こうとしなかったため。

 いや、正確には足を進めようとしている。だが見えない壁が邪魔してこれ以上こちらに来れないのだ。

 リインフィルの結界だ。家周辺にも張っていると言っていた。

 ハーニーは安全圏にいるわけだが、殺意の宿った視線を浴びせられると気は抜けない。

 沈鬱な目を真っ向から見返しながら問う。


「……僕を殺しても意味ないでしょう。僕はあなたに何もしていない」


 シノは表情を変えずに会話に応えた。


「意味? ……そんなものなくてもいいの。私はただ殺したいだけ。私の人生を壊した貴族を一人でも多く。あんな戦争の時代にした貴族を一人でも多く。それ以外どうでもいいの」


 サキも憎しみは消せなかったが、貴族を殺す理由は単なる憎しみではなかった。幸せだった思い出を取り戻したくて貴族を殺していた。つまり殺しは目的への過程だったということ。

 対してシノは殺すこと自体に意味があると言っている。殺しそのものが目的だ。

 前提からしてサキと異なっているのに説得が通じるとは思えない。

 ……サキさんだって説得できなかった。説得自体無茶な話なのか。


「……僕も星霜零花の剣術を譲られた身。シノさんじゃ殺せませんよ」

「そう? だとしても私は止まらない。無理なら他の貴族を殺すだけ」

「殺しても気は晴れないのに?」

「それは分からないし、どうでもいいわ」

「どうでもいい?」

「もしかしたらこの感情から解放される時が来るのかもしれない。でも、私はこの気持ちがあるから存在していられる。だからこのままでもいいの。先のことなんて知らない。ただ殺したい。それだけで理由は十分だから、どうでもいい」

「……大切な人を奪われたらそうなるんですか」

「さあ。知らない。聞いてどうするの? 私は他人の理解を求めてない。今の私にあるのは殺したい欲求だけよ」


 理解を示せば変わってくれる。そんな甘いこともないようだ。

 眼前に存在するシノは、元は武器に宿る思いだ。これほど純粋な意志でないと霊剣にならないのかもしれない。

 だとすれば。


「君はその殺意を失ったら消えてしまうのかな」

「それなら分かるわ。答えは、ええ。きっと消える。私はそれだけを存在理由にしているから。だから説得は無駄。……どうする? 私を殺す? あの貴族みたいに」

「……いや。僕は君に勝てない。お手上げだ」


 シノがマリスと同列の存在だとしたら、リインフィルなら勝てるかもしれない。だが、それを頼むのは恐ろしいことだ。殺意とはいえ、人の心を殺せとは言えない。殺意ばかりのものであっても、人の形をしている。

 どうすべきか考えて出た答えは、答えといえないものだった。


「君はこの湖に残った方がいいのかもしれない」


 諦念で構成された言葉にシノは暗い瞳を細めた。


「ご勝手に。でも私は消えないわ。ずうっと残り続けて、いつの日か壁が消えたら外に出る。そしてこの短刀を──私を使う者を待つわ。そして殺し続けるの。この身が朽ち果てるまで」


 この身、とは切四片のことだろう。しかし切四片は長い年月を経ても劣化していない。あの様子だと霊剣として在り続けるだろう。

 リインフィルがいつまで結界を張り続けるかは不明だが、シノの底なしの殺意はこのままだと永久に残りそうな気がする。

 ……それでも、この方がましか。誰も使わないようにした方がいい。

 ハーニーはため息を吐いた。


「それじゃあ、さよならか。僕は……いや」


 今までの感謝を口にするのはやめた。理解は要らないという彼女に何を言っても無駄だろう。

 ハーニーは背を向ける。シノはずっとこちらを見ていた。何も言わない。表情も変わらなかった。

 離れながら、内にある気持ちを見直す。

 僕にしてはあっさり引き下がった。きっとそれはもしも僕だったら、を考えたからだ。もしリアがシノの大切な人と同じ目に遭ったら、間違いなく同じことをする。それが分かっているから強く言えなかった。

 彼女と自分の違いは僅かなものだ。絶望を経験しているかどうか、それだけの違いでしかない。


「……分かるだけじゃ意味ないよ」


 つい零れた独り言は無力な自分を責めるものだった。

 セツがいれば慰めか叱責をくれるだろうから、空虚な思いが胸を鉛にする。

 シノが木々で隠れて見えなくなったあたりで頭上から声がした。

 見上げるが眩しくて目を開けられない。陽は傾いたがまだ夕暮れという時間でもない。大方三時前と言ったところか。

 晴天の日光を背にリインフィルが影を揺らす。


「あなたが自分を責める必要なんて何もないのよ」

「リインフィルさん、また飛んでるんですか? しかも聞いてたんですね」

「結界の中で不安材料があればもちろん気にかけるわ。──失礼」


 リインフィルは木の葉を避けながらハーニーの横まで降りてきた。それでも箒に腰かけたままで低空を浮遊している。風が吹くと帽子を押さえる仕草が不思議と魅力的だ。


「いやらしい目」

「め、目じゃなくて考えを読んでるくせに」


 と言いながらも慌てて目を背ける。後ろから笑う気配がして恥ずかしい。


「私なりの照れ隠しなの。あなたは許してくれるでしょう?」

「そりゃあ、ええ」


 答えを委ねられると素直に答えるしかない。

 ……そういえば、シノにはここに置いていくと言ったけどリインフィルさんにはどう言おう。そもそも厄介事を押しつけていいんだろうか。


「あら、いいけど」

「いいんですか? ……もしかして」

「勘違いしないで。私は悪意と戦っているけれど、それは誰かが受け止めてあげなくちゃいけないからやっているの。人の想いを消す気はないわ。つまりシノちゃんとは戦わない。……大体、あの子は戦って消えるタイプじゃないわ。想いを果たすか、未来を見られるようにならないと……。まあ、とにかく構わないということ」


 ひとまず放っておいてくれるということか。いつまでもというわけにもいかないだろうが、当分見ていてくれると。


「……」


 リインフィルは目を伏せて静かに微笑む。肯定の合図だろう。


「私、シノちゃん嫌いじゃないわ。根本的なところは似ているって感じるからかしら」

「え」

「うふふ。誰かを殺そうと思ったことはないわ。強い想いで『今』しか見ないところが似ているって意味」

「……はあ」


 よく分からないでいるとリインフィルは言い直してくれた。


「私にだって普通の女の子の頃があったのよ」

「んー……あまり想像できないですね」


 パウエルやアルコーの若い頃を想像できないのと同じでリインフィルもピンと来ない。

 大人の余裕はともかく、よく微笑むところは昔からなのかな。


「あら、私のこと明るい女の子と思ってくれるの? ふふ、ざーんねん。私って滅多に喋らない大人しい子だったのよ。感情が表に出ないから、お面、なんてあだ名を付けられてたわ」


 ひどいでしょう? と笑み混じりに言うリインフィル。確かに表情の変化は小さいが、話と今の姿はまるで似つかない。


「時は人を変えるわ。今は、このご褒美みたいな出会いに舞い上がっているの。お面と言われた私だって喜ぶ。──そうね。せっかくだから聞いてくれる? たまに話さないと風化しそうだわ」

「風化? 話を聞くのはいいですけど、どういう意味です?」

「昔のことをそのままの形で覚えていたい。ロマンチックな女の子っぽいでしょう?」


 女の子というよりは老人のような──


「あ」

「……心を読んだ私が悪いとはいえ、ちょっと傷つくわ」


 ちょっとどころじゃないひどいことを考えてしまった。


「あ、あのリインフィルさんは美人ですから」

「……好きになりそう?」

「えっ」

「冗談よ。うふふ。あなたって予想外な状況になると本当に頭が真っ白になるのね。そしてすぐにどう答えたらいいか考える。自分の気持ちより先に相手の気持ちを考慮するの、私は労りたいと思うわ。同情する」

「……こう、僕の気持ちを汲まれるとどうすればいいか分からなくなるんですけど」

「じゃあ私が話すから聞いて。相槌を打って。あ、それと『リインフィルさんは好きな人の類だ』って気持ちはありがたく頂戴したわ」

「もういいですよそれで」


 リインフィルは楽しそうに笑って、そのままの調子で語り始めた。


「私はラ・エスタで仕立て屋の両親の一人娘として育ったわ。人と関わるのが苦手で、一人遊びばかりしていたの。友達と騒ぐってことに向いてなかったのね。考え事をしている方が楽しかった」

「貴族じゃなかったんですか?」

「私のところだと貴族制なんてなかったのよ。あなたには想像できないかもしれないけど、私のところでは誰もが魔法を使えたから。もちろん力の強弱はあったわ。大体の人はダブル……あなたでいう二層魔法までが限界だった」

「リインフィルさんは?」

「私は十になる頃には三層魔法が使えた。感応背景も理解できたし、向いていたのね。心を感じ取れるせいで内向的になっていったけど」

「すごいじゃないですか! 僕の師匠が三層なのに、リインフィルさんは子どもの頃からできたなんて」


 リインフィルは照れずに僅かに俯いた。


「いいことばかりでもないのよ。突出した力を持てば気味悪がられるもの。誰でも魔法が使えるからこそ、出る杭は打たれるのよ……」

「リインフィルさん……」

「おかげでリルリルとは呼んでもらえなくなったわ」

「り、りるりる?」

「小さい頃は皆からそう呼ばれてたの。可愛いでしょう? でも魔法ができるようになってから呼ばれなくなっちゃったわ。寂しい」

「……てっきりひどい目に遭ったのかと思ってすごく同情したんですけど」

「あら。親しい友達ができなかったって意味だから同情していいのよ?」

「そんな遠回しに言われたら伝わりづらいですよ」

「あなたも感応背景を視ることね。さ、伝わったなら同情してリルリルって呼びましょう。ハイ」

「……呼んだら嬉しいですか?」

「うふふ。どう思う? あなたには分からないかしら?」


 また婉曲な言い方をする。とはいえ、にこにこ笑顔を見れば逆らえない。


「リルリル……さん」

「逃げたわね。でも許します。『この笑顔を消せない』というあなたの考え方は素敵だから」

「何でも口にするのやめてくれませんか! 大体年上の方を呼ぶのに使う名前じゃないでしょ!」

「知らない。でもリルリルって呼んでもらえたわ。ふふふ~ん」


 リインフィルは嬉しそうに空中を飛行して見せた。無邪気な動きに毒気を抜かれる。

 ……これも狙ってやってるんじゃないか。だとしたら、困ったことにそれはそれで無垢に思える。


「ああ、楽しい。じゃあ話を続けるわ」

「まだ続けるんですか?」

「ええ。これは意味あることよ。許して?」


 この言い方をされて、冗談ではなく許さないと言える人がいるのだろうか。


「さて、私は魔法の才能がありました。それでだけど、私自身魔法が好きだったのよ。魔法は嘘をつかないし、人柄を言葉以上に表現するから。だから私は魔女を目指したわ」

「あの、魔女って普通の魔法使いとは違うんですか?」

「一般人は魔法を道具にする。それに対して魔女は魔法の果てを目指すの。その過程で人を助ける魔法が生まれることもあれば、大量虐殺の魔法を生むこともある。まあ大半が後者に近かったわ。魔法を追究すると犠牲や命に鈍感になっていくものだから」


 リインフィルはこちらが何か思うより前に慌てた。


「あっ、私は違うわ。私は単純に魔法が好きだった。より理解したいと思って、人の役立つ魔法を探したいと思ったのよ。……ついでに、そうすれば私を──魔法が好きなことも含めた私を、少しは認めてくれるかもしれないとも思っていた。今思うと若かったわね。恥ずかしい」

「そうですか? 普通のことですよ。それに人助けも兼ねてるなら立派じゃないですか」

「それが自分にとってすごく楽しい趣味でも少数派の場合って多いわ。あなたは存在の承認欲求が強いから分かってくれるけれど、両親は猛烈に反対してね。……ふふ。喧嘩別れみたいになっちゃった」


 沈んだ気持ちを隠そうとするような不自然な声色で察する。気遣いの言葉は言う間を与えられない。


「別にそこで落ち込んではいないわ。私は世界の片隅で人の役に立っているもの。両親が知れば誇りに思ってくれるはずだから、いい。それで私は魔術師組合に所属して世俗から離れたの。当時のことは今でも覚えてるわ。……後悔もちょっとあったり」

「なんです?」

「うふふ。可愛い話よ。好きな人がいたの。十八歳だもの。気になる人の一人くらいいたわ」

「へ、へえ」


 普通のことなんだろうが意外だった。リインフィルは神秘的な印象があるせいで、色恋の気配を感じない。

 心を読んだのだろう。リインフィルは薄い苦笑いを傾けた。


「あたり。何もないまま終わったわ。人並みの恋愛ができなかったのは惜しいと今でも思う」

「どうして何もなかったんです?」

「相手はラ・エスタの教会の神父見習い。災厄に近いとされる魔女とは結びつかないでしょう。そもそも話したこともあまりなかったわ。数度、祭事の時に挨拶を交わした程度で……何、その顔は。いけないかしら。私は元々人と関わるのが苦手な内向的女の子だったのよ。……ふん。かえってよかったわ。関わりが薄くて。恋愛なんて牽制のし合いで面倒くさそう。きっとそう」


 ぐずぐずと拗ねたようにつぶやく姿はいじけた女の子然としていて可愛く見えた。

 そしてそう思えばすぐにばれるのがリインフィルという人物。すぐに悪戯な瞳になって意地の悪い笑みを小さく作った。


「あらあら。こういう女の子が好みなの? あなたらしいわ。少し面倒なくらいが必要とされてる気がして嬉しいのね? ……ふうん? 女の子が何人も頭に浮かんだわ。ええと~」

「そこまで心を読まなくてもよくないですかっ?! もはや八つ当たりですよ!」

「聞こえない聞こえない。ええと、ネリーちゃんにコトちゃん。それにセツちゃんも。皆癖があるのねえ。サキちゃんはあなたの記憶を埋めた子か。リアちゃんはあなたの理由の子。それに……リ──あら?」


 ハーニーは諦めてなすがまま任せていたが、リインフィルは饒舌な口を閉じた。驚きの表情が消えると今までで一番優しい顔をした。


「負けたわ。まさか私まで入ってるとは思わなかったもの」

「……僕にとっては身近な女の人ですよ。リインフィルさんは何ていうか、とりつくろわない。駆け引きをしない。だからたった二日でも親しく思えるんです。……僕のことは僕より分かってそうだし。大体大事なのは時間じゃないんだ」

「時間じゃない。そうね。良いことを言うわ。本当に」


 そう言って染み入るリインフィルは大げさだ。


「リインフィルさん?」


 表情は小さいのに妖艶な笑みで流し目を送ってくる。


「うふふ。残念ね? その言葉をもっと昔に言ってくれていたら、恋してたのに」

「そ、そんなに? って、僕はそれを聞かされてどうすればいいんですか」

「あなたも残念がればいい、なんて……冗談よ。嬉しかったわ。あと、いじめてごめんなさい」


 律儀だ。


「あなたを見習ったのよ。……あなたは必要とされる人柄だわ。必ずセツちゃんと湖から出すから」


 どういうつながりでその結論に至ったのか、思考の道を追うことはできない。

 もしも僕が接続者になれたら、それを理解できるんだろうか。

 ……それはそれで、気が引ける。知られたくないことまで知るのは気が重くなりそうだ。


「あなたは素直だから負担にならないわ」

「悪かったですね。中身が薄くて」

「寂しさは深いでしょうに。でも境遇からしてあなたの感じ方は自然よ」

「……逆立ちしたってリインフィルさんには勝てません」

「うふふ。どうかしら?」


 ハーニーは力なく笑って見せたが、無邪気な笑顔が返ってきてそれにつられた。

 穏やかな心地で周りを見ると、この動物のいない森が神聖なものに感じられた。

 ……リインフィルは不思議な雰囲気を持っているが、善良な人だ。こんな人が一人で戦っている。それはいいことなんだろうか。


「何も一人で戦わなくてもいいんじゃないですか?」

「ん」

「人の悪意が力を持つなら、それは人すべての脅威でしょう。それなら皆に話して協力を募った方がよくないですか? そうすればただ戦力が増えるだけじゃなくて、平和を目指すようになるかもしれない」

「人はあなたが思うより直線的よ。大局的な物の見方はできない、したくないものなの。だからこの話を広めようとしても無駄ね。それこそ、私がマリちゃんを抑えられなくなって、危機が世界に広がらない限り。そうなったらもう手遅れだけど」


 「それに」とリインフィルは困ったような眉をした。


「マリちゃんはあなたたちじゃ相手できないわ」

「リインフィルさんの魔法じゃないとダメなんですか? もしあの流星の魔法じゃなきゃダメなら、それを皆に教えてくれたら──」

「いえ。魔法の種類の問題じゃないわ。もっと根源的に違うの」


 リインフィルは考え込んだが、その姿はただ表現に困っている風には見えない。悩むほどに元気を失っていく。黒い三角帽子が心に合わせて折れる。

 そして深い息。


「やっぱりいいわ。この話はあなたに必要ない。聞いても仕方ないことよ」

「……話して楽になるなら聞きますよ」

「甘い誘いね。でもそれは必要な──」


 リインフィルの軽口を止めたのは、爆発音かと間違うほどの水しぶきの音だった。同時に身体を突き刺すぞっとする悪寒。さらに人を不快にさせる人外の叫び声。


「な、なんだ?」


 異形のモノ、マリスを前にした時と似ているが圧迫感が段違いだ。

 音は湖の方からしたようだが……。


「外界で何かあったのね。予想より早い」

「え?」

「この感覚は知っているわ。湖の外で不安などの負の感情が増大すると、現れるのよ」

「昨日見たやつですか」

「あれは小物よ。この重圧は別者。十倍以上の力を持つマリちゃんの集合体が、世界の不安に合わせて現れるの。……あなた言ってたでしょう。今は戦争中って。小さなマリスはその世情の不安で現れていたけど、集合体が生まれたってことはつまり、外で大きな事件があったということ。大規模戦闘か、政変か。大勢の心を乱した何かが起きた」

「まさか旧王都が攻められて!? 豊穣祭の近くに戦争は起きないって言ってたのに……!」

「詳しくは分からないわ。……でも、あなたは早く戻った方がよさそうね。この予兆のない発生からして事変が起こった場所は近い」

「近くで多くの人がいるのは旧王都くらいですよっ?」


 戦時中ということを考えると一番有り得るのは襲撃か。

 でも平民が主な戦力である東国が大切な祭事を無視して攻めてくるだろうか。民意を無視した戦をするとは思えない。西国を恨んでいるからこそ、民に強要する形は取らないはずだ。

 ならば何が起こったというのか。


「大勢に不安を与える何かが起きたのは間違いないわ。でもあなたの大切な人が巻き込まれたとは限らない。落ち着くことね」

「そ、そうですね。まだリアたちに危険が迫っていると決まったわけじゃない」


 深呼吸をする。次第に周りの音が耳に入ってくるようになった。

 不規則的に聞こえる水の騒音の中に、高い声が混じった。


「ハーニーさーん! どこですかー!」


 セツ、と言うべきか未だ分からない女の子だ。

 返事をすると緑の中から姿を現す。実体がないので草木は触れても揺れない。

 女の子は焦りと恐怖から声を震えさせていた。


「み、湖にこの前よりすっごく強そうなのが出たんです! しかも私を襲ってきたのもたくさん出てきて……あれは何なんですか!?」

「人の悪意よ。まずは見てみましょうか」


 一帯に危機感を呼ぶ魔力の圧があるにも関わらず、リインフィルは平然としていた。


「あら。私は言ったはずよ。マリちゃんとは大きな戦いを十回したって。今回のもそれと同じよ。そのうちまた現れるとは思っていた。覚悟もとうに済ませているの。……ずっと前にね」


 巨大な何かが暴れる音の方へリインフィルは歩く。足取りに迷いはなく、ハーニーはその勇ましさを頼りに後を追った。

 湖の光景は一変していた。

 湖の中央にどす黒い異形の塊がいる。その姿は城ほど巨大で、大きな湖の半分以上を埋めるほど。

 頭部には目らしき赤い結晶が七つ。そのうち一つだけ輝きが強く光の塊のようになっていた。


「──!!」


 耳を塞ぎたくなる不快な音。世の怨嗟の声が全て一つになったらこう聞こえるんじゃないか。そう思わせる邪悪な鳴き声だ。

 黒い球状の体には腕が無数に生えている。腕の先に手はない。鋭利な刃の形を成している。

 その腕たちは無作為に暴れるのだ。水は立ち、大地に接すれば地面は削れる。

 さらに足元の湖には通常のマリスがうじゃうじゃと沸いていた。

 幸いこちらをまだ認識しておらず、マリスたちは留まっている。

 しかし。


「こんなの無茶苦茶だ……」


 マリスを化け物と言わないで欲しいと言われたが、無理だ。一帯の空気まで淀ませるこの存在を人の一部と考えられない。


「人ひとりで考えないの。人は集まり協力すれば大きな力を生むわ。それと同じよ」


 リインフィルは振りかえり、笑って見せた。


「まあ、あなたは気にしなくていいわ。この子は私が何とかしておくから」

「そんな!? これを一人で?!」

「何度も言っているけど、初めてじゃないのよ。それに、ほら、見れば分かる通り、ね、私はここにいる。……生きているのよ? 意味は、分かるでしょう」


 これまで何とかなっているから、今回も大丈夫。

 そう言いたいのだろう。


「……でも歯切れの悪い言い方でしたよ」

「あなたと別れるのが寂しいのよ」

「……それだけ?」

「ええそれだけ。さて、ここにいたら見つかって狙われるわ。大きなマリちゃんは生まれてすぐは湖にはまって動けないから、一旦家に戻りましょう。あなたを帰すからには、セツちゃんも元の場所に戻してあげる必要がある。そのために準備が要るの。少し特殊な魔法を使うからね」


 こんな状況なのに僕を帰すことを優先する? させていいのか?


「……あなたに何かできる? さあ行きましょう」


 先に行くリインフィルの後ろ姿を見、もう一度異形を振り返った。

 確かに僕は何もできない。足手まといだ。小さなマリスでも歯が立たないのに、こんな巨大な存在に対して何ができるというのか。


「これと戦ってきたのか……?」

「大丈夫なんでしょうか」


 女の子も不安を露わにする。


「実際生き残ってるってことは何とかなってるんだろうけど」


 外から見た限りリインフィルには大けがをしたような様子もない。今までほとんど無傷で切り抜けてきたということだ。

 ……大したことないのだろうか。彼女からすればこれが普通なのだろうか。


「……悩んでも仕方ない。リインフィルさんを追いかけよう」


 異形は動けないことに苛立つがごとく暴れる。ハーニーの足は大地の震動から逃げるように速足になっていた。

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