贈り物の魔法 2
ハーニーはいつもと違うベッドで見慣れない天井を眺めていた。
今日は遅くなったので、全員パウエル邸に泊まることになったのだ。空き部屋をそれぞれ割り当てられている。今頃皆寝ていることだろう。
大きなベッドの上、隣に眠るリアはすうすうと寝息を立てている。
ハーニーは横になりながら天井に手を伸ばしてみた。右手は何も掴まず、薄緑の光が目に入る。ぼおっとその明かりを眺めていると、声。
『……眠れませんか』
何度も聞いた問いかけ。暇を埋めてくれる声で救われた気持ちになる。
「眠れないよ。考え事ばっかりだ」
『……私に何かできればいいのですが』
「その気持ちだけで嬉しいよ」
『そうかもしれませんが、私にも分かっているんです。あなたは何かを求めている。その何かは……でもきっと私には……』
続きを待つが沈黙だけ。やがて『いえ』と諦めたようにぽつり。
「……まったく。僕はいつまでこんな調子なんだ。しっかりしないと……!」
意気込んで見せるが言葉は空虚に響くだけ。心を上書きしようとしても変わらない。
「……はぁ」
ため息が出る。それは周りまで不幸にする自分への失望。コトにもネリーにも、そして今はセツにも気を遣わせて、結局僕は変われない。自分で自分が嫌になる。
「……ん」
廊下の方で物音がした。
微かな足音だ。音を立てないように気を遣った静かな音だ。それが近づいてくるのが分かる。
ハーニーは身体を起こした。ベッドを出て、音を立てずにドアの方へ近づく。
……こっちへ来る。
足音は小さくても確実にこっちへ向かっていた。やがてハーニーの部屋の前で足音は消えた。ドア一枚向こうの廊下で立ち止まったのだ。
最初は警戒していたが、雰囲気に馴染みを覚えた。無意識に感じる魔力のおかげで、誰がドアの向こうにいるのかなんとなく分かる。
「……ネリー?」
「っ!」
ドア越しに声をかけると後退る音。
だが下がるのは一歩だけで、それ以上離れることはなかった。
反応を待っていると小さく一言。
「入って……いい?」
「あ、うん」
ドアを開ける。
いつも着けている青い髪留めのないネリーがいた。金色の髪がさらりと流れている。俯きがちな姿はしっとりして見えた。
「どうしたのこんな時間に」
「えと、眠れなくて……。……ううん。違う。私は……」
ネリーは深呼吸を数回した。
一つ覚悟をするように目をつむって、開いた碧眼をハーニーに向ける。しっかりと目を見つめながら言い直した。
「ハーニーと話しに来たの」
言って、なお目は合ったまま。
「僕と?」
「そう。リアちゃんは……寝てるみたいね」
「ああ、うん」
ネリーから強い意志を感じて部屋に通す。
部屋はパウエルからとりあえずで貸し与えられた部屋だ。椅子などはない。
ハーニーはベッドに腰かけ、ネリーも同じようにする。
ベッドの側面は大きな窓に向かっていた。こうして座ると丁度夜空が見える。二人の視線は自然と窓に吸い寄せられた。
静かな星空を眺めるだけの時間が数秒。
「話って?」
ネリーは無粋に尋ねたハーニーの顔を見て、照れをなくした。顔を僅かに紅潮させていても、穏やかな声色で小さく声を発した。
「ハーニー、我慢してるでしょ」
「我慢なんか」
「嘘。私だって今は平気だけど、家が没落して人目を気にする生き方をしてきたのよ。ハーニーほどじゃなくても機微には気づく」
「……そっか」
背景のある言葉だ。何も言い返せない。
黙っているとネリーがゆっくりと話し始めた。窓の向こうで思い出を映すように懐かしむ口ぶりで。
「……いつか、私が悩みを抱えてた時ハーニーは自分のことを話してくれたの。辛いこととか話してくれて、身を削って傍に来てくれたことがあったの憶えてる?」
「ネリーがユーゴと戦った時のことだっけ」
「そう。私が負けて落ち込んだ時の」
負けず嫌いのはずなのにネリーはくすりと笑った。そして一つ息を吐き、顔を近づけてきた。不安そうな表情で、決心を伴う声色。
「私も不器用だから、真似する。今から自分のこと話すから聞いてて」
ネリーは返事を待たなかった。
声は静かに、瞳はぶれず。
「私いろんな悩みがあった。貴族のこと。魔法のこと。……寂しさも。それらは小さくても、ずっとまとわりつくような辛さがあったの。……でもね、あなたがその辛いの吹き飛ばしてくれた。私が寂しいときは傍にいてくれて、願う以上の言葉をかけてくれたのよ」
ネリーは下を向きながら紡ぐ。
「没落して貴族には嫌われて、平民の仲間にもなれない……理屈ばかりで面倒な私にハーニーは優しくしてくれた。あなたと出会ってからの一か月は、人生で一番色濃い一か月だったと思う。その間にたくさん変わったもの。私を、私の考え方も変えて、この街だって居心地のいい街にしてくれた」
改めてネリーはハーニーを見つめた。潤んだ瞳を揺らして見上げるように。
「私、ハーニーに救われたのよ。あなたが寄りかかっていいって言ってくれたから、私は今の私でいられるの。だからね、私だってあなたの支えになりたい。あなたのための私になりたい……」
いつも恥ずかしがって僕の顔を直視できないネリーが、今は真っ直ぐ見つめてきていた。難解な話でもないのに目を見て言いきっていた。
あなたのためになりたい、なんて覚悟の要る言葉なのに。人の心に踏み入る恐怖があるはずなのに。
「……あ、えと」
何か返事しないと。
義務感を真っ赤な顔のネリーが止めた。
「い、いいの。恥ずかしいこと言ってるのは分かってるから。でも今は置いといて。今、大事なのはハーニーの気持ち。今はそれだけでいいの。他のことは全部、私も見ないふりする。だから、聞かせて? ……お願いだから」
「ネリー……」
ネリーは泣きそうになっていた。恥ずかしさなどのせいではない。自分を想う気持ちの表れだと気付いて、ハーニーは簡単な言葉を返せなくなる。
「僕は……」
一つ息をのむ。
取り繕うという考えは浮かばなかった。ネリーの真摯な心に流されて、ハーニーは重たい口を開いた。開いていた。
「僕は分からないんだ……。どうすれば辛くなくなるのか分からない……」
「何が辛いの?」
相槌に誘われて言葉が引き出される。
「僕が強くなったって皆言う。でも違うんだ。サキさんが預けてくれた記憶のおかげで強いだけで僕の力じゃない。……でも僕はそれを使って戦ってる。皆自分の力で精いっぱい生きようとしてるのに、僕は人に縋った力で戦っていて」
悔しさではない。罪悪感から俯く。床を見つめる。
思い出すのは自分が斬った相手。東国の貴族の姿。一生懸命、己の力で戦いきった戦士。
首の傷が痛い気がした。手で覆う。
吐き出された言葉は震えていた。
「ズ、ズルいじゃないかっ。借り物の力で戦う僕はズルいっ。それで命を奪うなんて、背負えるわけないよ……」
お互い全力で戦うからこそ命は等価値になるという。それなら一人で戦っていない僕は何だ。努力せず強いフリをする僕はどうなる。
そう考えて、湧き上がるのは異なる罪悪感。
「でも、それをズルいことだって言ったらサキさんは……? サキさんは僕が殺したんだよ? それなのにこの力を、記憶を重荷に感じるなんて無責任過ぎる。自分勝手だ。……だけど、そう思っちゃって、それなのに力は使ってて……そしたら僕が全部悪い気がしてくる」
剣術を褒められた時。
サキの経験に救われた時。
自分以上の価値が見出された時。
「僕がサキさんの力目当てで殺めた気がしてくるんだ……記憶ごと奪い取ったみたいに。それだって思っちゃいけないことなんだよ? 精いっぱい戦った結果のはずなんだから。でもそう感じることを止められないんだ……だから悪くて、申し訳なくて……ネ、ネリー……」
ハーニーはたまらずネリーの手を掴んでいた。床を見る視界の端に映った白い腕。痕が付きそうなほど強く握ってしまいながら、ずっと言えなかったことが口をついて出た。
「僕怖いんだ。僕はズルをしてるから笑っちゃいけない気がして、幸せになっちゃダメなんじゃないかって思うんだよ……。生きてる分だけ幸せにならないといけないのに、でも義務感だけじゃなれなくて……もうどうすればいいのか分からないよ……っ」
泣きそうになりながら訴える。
「でも僕はサキさんを背負いたいんだよ……! 受け止めて前に進みたくて僕なりに頑張って笑おうとしたっ。でもいくら頑張っても、胸を締め付ける感覚が消えなくて……ッ──あ……」
不意に我に返った。握りしめていたネリーの腕の細さに気付いて言葉が途切れる。
「……ご、ごめん」
ハーニーは掴んでいた腕を離した。白く華奢な腕は自分を責めるように赤くなっている。
……何やってるんだ僕は。こんなことしても何も変わらない。ネリーを傷つけただけじゃないか。
自己嫌悪のあまりネリーから離れようとした。
「ハーニーっ」
逃げようとしたハーニーの腕をネリーが引き留めた。そのまま引っ張って、ハーニーの首に手を回す。逃げないように頭を胸に寄せ抱いた。
「ネ、ネリーっ?」
「ハーニーは馬鹿っ! そんなにつらい思いしてて、どうして言わないの? 私じゃなくても傍に誰かいたはずでしょっ? どうして一人で抱え込むのよっ」
ネリーの震えた声に流されてハーニーの声も揺れる。
「だ、だって分からないじゃないか……どうやったらこんなこと話せるんだよ。自分を許せないのに、誰かに受け入れてもらおうなんて図々しいっ。僕は僕だけで何かしてきたわけじゃないんだから……!」
「私だったら許してたっ。話してくれたら嬉しかったっ。もっと早く話してほしかったっ」
ぎゅうう、とネリーが抱きしめる力を強くした。何をしても離れない。そう伝えるように強く。
ハーニーは温もりを感じながら、でもどうすればいいのか曖昧で動けなかった。心は満たされている気がしても、ネリーに体重を預けることができない。
ネリーはその躊躇いを見透かしたように、抱擁されて固まっているハーニーの頭に手を乗せた。髪を梳くように撫でて。
「……我慢しちゃダメよ」
「っ」
「きっとハーニーのことだもの。笑っちゃダメだって思うように、泣いちゃダメだって思ってたんでしょ? その、サキって女の人がいなくなってから、ちゃんと泣いた?」
泣きそうになったことは何度もある。でも目に涙をためるだけで流したことはない。
ネリーは返事がなくても察した。
「泣いてないんでしょ。……でも、分かる。お父さんが死んだ時、私泣けなかった。泣いたらお父さんが悲しむと思ったの。……本当は泣きたかった。誰かがいればって。今ならハーニーがいればって……思うから」
見上げると慈しむネリーの穏やかな顔。潤んだ目をして優しく微笑んでいた。
「我慢しないで泣いてごらん?」
微笑みかけるネリーはとても綺麗で、見てはいけない気がして俯く。
「で、でも僕は卑怯者で……」
「ハーニー、私を見て」
ネリーはハーニーの頬に手を添えて、自分へ向かせた。
淡い色の唇が動く。
「贈り物って」
「え?」
「ハーニーは贈り物って言ったのよ? 私がお父さんの研究を使って自分だけが強く在れた時、利用してる気がして心が咎めてた時、まるで贈り物みたいだって言ってくれたの。親と子を繋ぐ優しさみたいだって言った。……ハーニーも同じ。サキって人があなたに記憶を委ねたのなら、力だって贈り物でしょ? だって記憶よ? 過去よ? それは時間を共有するってこと。どこかにお出かけして、一緒に時間を過ごすのと同じ。それなのに嫌々のはずないじゃない。一緒にいたいから記憶を預けたのよ。私が今、あなたに時間を委ねてるのと変わらない」
一緒にいたいから、時間を委ねている。
身体を覆っていたどんよりするものが身体を離れていく気がした。
「私が保証する。それでも自分を許せないなら……私を許したらいい」
「ネリーを……?」
「私だってずるいのよ。でもハーニーが許し方を教えてくれた。だから、私のことを許して? 贈り物なんだよ、って言ってよ……」
ネリーの辛さ。父親の成果を独占している罪悪感。
確かに僕は思った。
「贈り物だと思った……羨ましいなって思った」
ネリーは噛みしめるように目をつむって、笑った。
「ならハーニーも一緒。あなたもそう思っていいの。私のせいにしてもいい。私を助けるために思いこまなくちゃいけないって、誰かのための無理やりでいいから、ね?」
甘美な誘いだった。
一から十まで任せるような依存。責任のない身勝手。
「そんなの君に悪いよ……?」
言葉だけでも断ろうとする。
受け入れちゃいけない気がして。
「いいの。私なら、いいの」
また抱きしめられる。ぎゅっと顔に胸を押し付けられる。ふわふわした柔らかな場所。
「良い人じゃなくていいから」
その言葉で、ぞくりと背筋が震えた。
言われてはじめて気づく。自分は知らず知らずのうちに『良い人』であろうとしていたことに。
記憶も身寄りもない自分が、無意識のうちに目指していた『良い人』。自分に価値がないから、そういう見えない褒められる共通項になれば居場所を得られるかもしれない。そうなれば嫌われないかもしれない。だから、良くあろう。常識を持とう、と。
「自分を抑え込むことないの」
しかしネリーはそう言ってくる。心の弱い部分に言葉が入り込んできて、奥底に溜まっていた感情が揺れる。
胸中にある、常識という良い人の象徴が反発する。情けないことだ。自立しなくてはいけない。戦いの責任を取るべきだ、と言う。
でも、今僕を包んでくれるこの人は許してくれる。完全に寄りかかっていいと言う……。
「う……ううっ……」
ハーニーは自分から求めるようにネリーの身体を抱きしめていた。女の子ということを考えずに素直に寄りかかっていた。
口から出るのは行動と真逆の言葉。
「こんなっ、こんなのダメだっ……こんな甘え方ずるいっ……」
「ダメじゃない。ずるくない」
頭を撫でられる。頭の上から聞こえる優しい声が心を包むようで、恥ずかしさよりもほっとして力が抜ける。目が熱くなる。
「うああっ……っ。ううううっ」
涙が出た。ネリーが抱きしめるから涙はネリーの服の胸元に吸われていった。今までどこにあったのか不思議なほど涙が出て、布地を濡らす。
サキのことも頭を巡った。
サキさんはもういない。寂しい。戦いたくなかった。もっと一緒にいたかった。
身体の一部を失ったような喪失感が膨れ上がる。心の穴を埋めたくてネリーの温度を求めた。
声を上げながら、しかしリアを起こしてはいけないから抑えて。
「我慢しちゃダメ」
そう言われて抑えられない。
ネリーは恨みたくなるほど優しくて、溺れる。現実じゃないような感覚の中、ただ泣き続けた。
泣いていいと言われてしまったから。
許された分だけ泣いていいから。
誰かに言われなければ泣くこともできないのかと思うと、結局自分は支えばかりの中生きていると実感した。
それは情けないことでも、同時に幸せなことだった。
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