第24話 誰も彼もこのような形で失われるべきではないのに

 アルヤの豪奢な城壁が、堅牢なとりでと化していた。

 城壁の上からわずかに顔を出した兵士たちが弓を引いている。巨大な石弓を使い三人がかりで巨石を投ずる者たちもある。


 このような戦い方をエザンは知らなかった。

 二十年以上も戦士を続けてきたエザンも知らないのに、この二十年近く大きな戦を経験していないイゼカの若い戦士たちが突破口を知るよしはない。


 馬に乗った若い戦士たちが次々と射取られ、押し潰され、大地に倒れていく。

 混乱した馬たちがいなないて駆け回り血に濡れた土を踏み荒らしていく。

 幾人かは堅く閉ざされた門扉の鉄の出っ張りにしがみついたまま動きを止めていた。


 誰も彼も大事に育ててきた子らだ。誰一人としてこんなところで虫を潰すように殺され母や姉妹らに見せられぬ姿になっていい子らではない。


 一人でも多くの子を平原へ帰さねばならない。彼らの父母の下へ生きて戻らせねばならない。


 怯える馬を撫でた。

 長らくエザンと行動を共にしてきた馬も初めての経験に恐れおののいている。

 エザンは苦笑して「耐えてくれ」と囁いた。

 そして手綱を強く引き、馬の腹を蹴った。


 目指す先はすでに決まっていた。

 先頭に立つ少年の背中をまっすぐ追い掛けた。


 彼はすでに泥だらけの血みどろだ。馬もどこへやってしまったのだろう。

 それでも刀を握り締める右の拳と大地を踏み締める左右の足は健在だ。左手では拳の背で顔を拭っているらしい。

 動いている。

 それに感謝した。もうそれだけでいい。

 否、もうそれ以上のことは何もしないでほしい。


 一拍の間を置いて、ふたたび雨のように矢が降り注いできた。

 エザンは馬を跳ねさせて前へ躍り出た。


 左手で手綱を握ったまま、右腕を掲げた。

 右腕の向こう側に見えていた太陽を何本もの矢が遮った。

 そしてそのままエザンの右腕に降り注いだ。


 もしかしたらこれでもう二度と剣を振るえなくなったのかもしれない。馬に乗って帰ることすらままならなくなったのかもしれない。


 だがもう何でもよかった。

 何でもいいから止めねばならない。


「エザン!!」


 少年の――ヤシェトの声が響き渡った。

 大きな声だった。元気だ。

 安心した。

 この子はまだ、生きている。

 天に感謝した。


「やめろッ!!」


 馬にまたがったまま、ヤシェトに背中を向け、両腕を広げた。


 城壁の上のアルヤ兵たちもためらってくれたのか動きを止めた。

 ヤシェトの背後で少年たちも立ち止まったのを気配で感じる。


「やめんか馬鹿者!!」


 ヤシェトが小声で「エザン」と名を呼んだ。

 エザンはそれだけではまだだと思って振り向かなかった。

 「皆に武器を捨てるよう指示なされ」と答えた。

 ヤシェトは「でも」と言って背こうとした。

 エザンは「ならぬ!」と怒鳴った。


 間もなく双方とも攻撃が止んだ。

 アルヤ兵たちもこちらの動きを窺っているようだ。

 イゼカの若い戦士たちもヤシェトの反応を待っている。


「せっかく……っ、ここまで、来たのに……っ」

「これ以上続けられるならばエザンを斬れ」


 エザンの言葉に、ヤシェトが「え」と喉を震わせる。

 エザンはなおもたたみかけるように言う。


「今すぐ選ばれよ! エザンを斬り、さらなる被害を出すのを承知の上で無益な戦を続けるか! エザンに従って武器を捨て、手を引き負けを認める勇気を出すか! 今すぐ決められよ!!」


 どれほどの間が開いただろうか。


 ヤシェトは逡巡しゅんじゅんを続けた。


 エザンも耐えた。

 かくなる上はヤシェトを殴らねばならぬか、あるいは、と思いを巡らせなければならなかった。

 今ここでキズィファ族の罠にはまっていることを説明する気はなかった。

 そうしている時間はなかったし、何より、ヤシェト自身に自ら現状を認識させねばならないと思った。


 辺りには血の臭いが漂っていた。

 巨石が転がり、肉が飛び散っていた。

 人馬が土の上に積み重なっていた。

 少年たちは疲弊し切っている。矢も馬も友も失っている。


 門扉は閉ざされたままで開けられる見込みはない。


 彼我の力の差は圧倒的過ぎる。


 それでも戦い続けるということはどういうことを意味するのか、ヤシェトに分からせなければならない。


 やがて、土の上に何か重いものが放られる音がした。

 足元を一瞥すると、タルハンの形見の剣が、土の上に転がっていた。


 エザンは一度大きく深呼吸をした。

 それから馬を下り、地面に足をつけた。

 背を折り、膝を曲げ、手をつく。

 額を土で汚しながら叫んだ。


「チュルカの言葉を解するお方よ、兵らの長に我が言葉を伝えたまえ!」


 喉は乾いていた。それでも血が出るかと思うほど絞った。


 ヤシェトや少年たちは「エザン、やめろ」「おやめください」と口々に言ったが、エザンは「お前たちも頭を下げるのだ」と一喝して制した。


此度こたびの反乱は我々イゼカ族のおとなたちの不徳の致すところなれば、拙者エザンが亡き族長タルハンに代わり心よりお詫び申し上げる! 如何いかなる罰をもこのエザンがお受けする心積もりゆえ、何とぞお許し願い申す! 何とぞ、何とぞよろしくお伝えしたまえ!」


 エザンの隣に出てきて同じように両手を地面についた少年があった。

 エザンは横目で彼を見た。

 彼はこめかみから滝のような血を流しながら涙を零していた。


 反対側からも若い戦士が出てきた。

 「お頼み申す!」と叫びながら膝を折り、わざと刀を放り出して見せた。


「投降する! このとおりもう武器は捨てる!」

「お許したまえ! お助けたまえ!」


 少年たちが次々と剣や弓を捨て始めた。


 エザンは肩から力が抜けていくのを覚えた。

 自分は最悪の事態を回避することができたのだ。


 おもてを上げ、辺りを見回す。


 いつの間にか、自分の周りは地面に膝をついた少年たちでいっぱいになっていた。

 立っているのはたった一人だけだった。


「……エザン……」


 見上げたヤシェトの顔に、エザンは、安堵の息をついた。

 血と泥にまみれてはいたが傷は見当たらない。

 目もまだ死んではいなかった。

 弱々しいながらも光を燈した瞳から、一筋の透明な雫が頬を伝って泥を洗い流した。


「おれ……は、」

「ヤシェト殿」


 膝をついたままヤシェトを見上げて、エザンは力強い声で語った。


「勝つことだけが強さではござらぬ。もっと言えば戦うことだけが強さではござらぬ。お父上をご覧じて感じたことはござらぬか。族長とは、民を導く者。民の先を思い、民のためにならぬと思えば、時として、戦士たちを引かせる務めも負わねばならぬものにござるぞ」


 ヤシェトは、頷いた。

 眉間に皺を寄せ、はなをすすりながら拳の背で頬を拭った。


「すまなかった」


 エザンもまた、頷いた。


 もっと叱らねばならぬこともある。

 待つ者たちやキズィファ族と刃を交えている者たちのことを思えば、叱るだけでは済ませられぬこともある。

 犠牲は少なからず出た。


 だが今は、これで充分だ。


 最後のヤシェトも膝をついたのを確認したのだろう。

 城壁の上から大きな声での呼び掛けが聞こえてきた。


「モラーイェム将軍、カズィ・ナディル将軍、ナムザ副長が停戦を確かめるためそちらに向かう! 騙し討ちなどゆめゆめ考えず、大人しく待っているように!」


 その三人は見知った顔だ。

 エザンは助けられたような気がした。

 ヤシェトもだろう。顔を起こして肩から力を抜いたのが見て取れた。


「皆、武具を解け。それぞれ落ち着いて座れ」


 振り向き、若い戦士たちに指示する。

 彼らは急に大人しくなった。誰一人エザンには向かうことなく従った。ある者は鎧を捨て、ある者は尻を地につける。その様子は微笑ましくすらあった。

 この子たちが死ななくて良かったと、心の底から思った。

 同時に、間に合わなかった子らのことで胸が痛んだ。父母がまだある子もいる。彼らの悲しみは如何いかばかりになるだろう。


 やがて、重い音がした。

 前を向くと、巨大な門扉が内側から数人の兵士の手によって押し開けられているところであった。


 こちらに向かってきたのは、アルヤ兵の言った三人だけではなかった。

 護衛を左右に従えた深い緑の甲冑のモラーイェムと、漆黒の鎧で身を固めたナムザは予想どおりだったが、ナムザと同じ漆黒の鎧を纏っているカズィ・ナディルは、予想外の人物を抱きかかえた状態で、導くように一歩一歩を確かめながら歩いてきていた。


 エザンは目を丸くした。


「ナズィロフ!!」


 血の気が引いた。


 ナズィロフの足はもつれていて、まっすぐ歩けていなかった。

 左腕は白い布で首から吊られている。

 顔の左半分も包帯を巻かれていた。その包帯は赤黒く汚れていた。


 思わず立ち上がり駆け寄った。


「ナズィロフっ」


 ヤシェトもそれに続いた。


「兄貴!」


 ナズィロフに向かって腕を伸ばした。

 カズィ・ナディルも差し出すようにナズィロフを離しかけた。

 ナズィロフは顔を上げることもしなかった。表に出ている右目は地面を見ていた。

 否、意思をもって見ているのかどうかは怪しい。

 ナズィロフは、何の反応も示さず、ただただ、うつむき続けていた。


「兄貴、どうしたんだ、何なんだよこれっ」


 ヤシェトの訴えに答えることはなかった。

 ナズィロフはまるで人形のように黙りこくっていた。


 モラーイェムが前回とは打って変わって困惑した表情でナムザに何かを告げていた。

 ナムザも眉根を寄せたまま頷く。


「北の村で兵士が保護したのだ。医者は手当てが間に合ったので命には関わらぬと言うておる。傷が深く出血も多かったゆえ、寝かせておくべきか悩んだが、とりあえず、お連れした。要らぬ心配の種は少しでも減らしておくべきかと思うたのだ」


 エザンは「ありがたきご配慮、感謝致す」と答えた。

 そしてすぐにでもこちら側に来てほしくて腕を伸ばした。

 ナズィロフはそれでも反応しなかった。


 腕を伸ばして、気づいた。

 ナズィロフが左腕に何かを抱えている。


 ナムザが言いにくそうに間を開けてから続きを語り出した。


「その……、かたじけない。間に合わなかったのだ」

「なに――」

「ここに運ばれてきた時は、出血が激しく、意識がまだ朦朧としておった。キズィファ族の不逞のやからの陰謀でかようなことになったのだと、ようやく話を聞かせてくれたのは、すでにすべてが済んでからのことであったのだ。ゆえに――」


 急に胸の中がざわついた。鼓動が大きく鳴り出した。


「北部の村に武装した戦士たちが攻め入ってきた時点で、イゼカ族は誓いに背いた、と。我々は、判断した」


 心の臓が耳元で動いているのではないかと思った。


 震える手を伸ばした。

 ナズィロフが抱えている荷物に触れた。

 白い布に包まれたそれは下部が赤黒く染まっていた。


 見たくなかった。

 けれど見ねばならなかった。


 ナズィロフの腕から、それを、抱え上げるように抜き取った。


 布の頂点は丁寧に結わえられていた。


 手が震えていた。見れば右腕にはまだ矢が生えていた。忘れていた。


「ヤ……シェト、殿」


 ヤシェトの肩が大きく震えた。


「エザン」

「あ……開けてくださらぬか。拙者は、手が、よう動かぬ」


 ヤシェトは一瞬ためらったようだった。

 けれどそのうち頷いて、手を伸ばした。

 その手はやはり何かを感じているのか大きく震えていた。

 結び目はさほどきつく結われているわけでもなさそうなのになかなか解けない。

 しばらくしてようやく解けたが、今度は布を退ける気になれない。


 胸が爆発しそうだ。

 でも、目を、背けられない。


 指先で布の端を摘まんで、払った。

 黒い髪と白い耳が見えた。


 もう一枚、摘まんでめくった。

 白い顔が見えた。


 穏やかな、本当に穏やかな顔だった。

 緩くまぶたを閉ざして、軽く唇を引き結んだ、何の苦痛も感じていないかのような、眠っているかのような顔だった。


 だが、首しかない。

 ここにはアリムの首しかない。

 アリムの体がどこにもない。


「お……おお」


 他にどうしたらいいのか、エザンには、分からなかった。

 ただ息子の頭を抱き締め、その場に膝を折った。

 そのうち前が見えなくなってしまった。

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