第23話 真相

 斜面を駆け上がる。

 砂塵さじんが舞い上がる。


 白いもやの向こう側に褐色の雫の痕が見えた。

 そう言えばニルファルが射られたのはまだ三日四日前の話だ。まだ血が砂に埋もれていない。はる彼方かなた昔のことのように思っていた。


 あの時に戻りたいと思った。

 あの時に戻ってニルファルの身辺警護を固めたら、こんなことにはなっていないだろう。

 否、タルハンが息を引き取った後、あの兄弟喧嘩をもっと上手く仲裁できたら――さらに前、タルハンを庇って死なせずに済んでいたら――もっと前、ヤシェトをすぐに連れ戻していたら――

 考えれば考えるほどさかのぼりたくなる。後悔ばかりが胸に湧いてくる。


 時は戻らない。

 死者は帰らない。

 振り向いていてはならない。


 急いで山を登らなければならない。

 一刻も早くヤシェトたちに合流しなければならない。


 これ以上族長の子らに血を流させてはならない。


 馬のひづめが岩を蹴り、平らなところへ躍り出た。

 最後にニルファルと昼食を取った場所だった。

 自然感傷的な気分になる。

 まさかあれが最後の食事になるとは思っていなかった。

 あの場にいた者はきっと皆同じ思いを抱いたことだろう。

 ナズィロフは、ヤシェトは、何を考えながらここを抜けたのだろうか。


 後に続く者たちを振り向いた。

 少し遅れている。

 仕方がない、中心となっているのはエザンの同世代の戦士たち、すでに息子たちへ武具や家畜の権利を譲ったり譲ろうと準備したりしていた者たちだ。中には二十年ぶりに弓を取った長老会の者もある。

 追い掛けている相手はその息子たちの一部で、中でも血気盛んで腕に覚えのある連中だ。

 はたして彼らがアルヤ王国に着く前に追いつけるだろうか。


 嘆息しながら前を向き、体勢を整えようとした、その時であった。


 岩陰から、湧き出るように現れた者たちがあった。


 エザンは自分の目を疑った。

 馬に乗った彼らの衣装に見覚えがあったのだ。

 白く分厚い布を埋め尽くす刺繍、胸を包み込む毛皮と革の鎧――同じ北チュルカ人の一部族、キズィファ族のものだ。


 キズィファ族はイゼカ族よりもさらに北方で生活している部族だ。

 アルヤ王国に向かって南下している今この場所で出会うのはおかしい。


 岩と岩の間で横に広がったイゼカの戦士たちと相対するように、キズィファ族の男たちも横へ広がった。

 行く手が阻まれた。


 嫌な想像が頭に浮かんだ。

 まるでこれから戦が始まるかのようだ。


 彼らを代表してのことか男が一人前へ出てきた。

 痩せこけた頬をしている。年は三十路かもう少しといったところか。


 鋭い目つきでエザンを見つめている――否、睨んでいる。


「老けたな、エザンよ」

 どうやらエザンを知っているらしい。

 エザンに覚えはない。

 キズィファ族と最後にやり取りをしたのはビビハニムがタルハンに嫁いできた日の話だ。もはや二十年が経過している。当時の男はまだ、成人前、もしかしたら声変わり前の童子だったかもしれない。


「時の流れとは残酷なものだな。かつてはイゼカ一の勇猛果敢な若武者だった貴様も今や禿げ親父か」

「失礼つかまつる。貴殿は拙者をご存知のようだが、おそれながら拙者には心当たりがない」


 男の表情がわずかに歪んだ。


「俺の顔を見ても己の所業を思い出さぬか」

「と、言うと?」

「我が名はシャヴカト、キズィファ族族長」


 名乗ってから、彼――シャヴカトはふたたび唇の端を持ち上げた。


「貴様が殺した男サビルの弟だ」


 二十年前の戦の最中に起こった出来事が急に頭に浮かんだ。

 自分は二十年前確かに彼と似た面立ちの男と刃を交わしている。


 細身で、目つきは鋭いがまだ少し幼さを残した若者であった。当時のエザンよりも少し年少のように思われた。

 どこかでエザンがイゼカ族一の戦士とうたわれていることを聞きつけてきたらしく、自ら一騎討ちを申し込んできた。


 エザンは後悔していない。

 相手も後悔していないと信じている。

 あの時自分たちは命を賭けていた。相手の命を狙いながらも互いの強さに敬意を払っていた。

 結果相手の命を絶ってしまったが、向こうも一騎討ちを申し込んだ以上覚悟を決めていただろうし、エザンも自分がそうなるかもしれないことを承知で臨んだものである。


 エザンが戸惑っているうちに、シャヴカトの後ろから出てきたキズィファの者たちが、馬上からエザンたちの馬の足元に何かを放り投げた。


 最初は大きな黒い球だと思った。

 人の頭ほどもある重そうな球である。

 それが二つ地面に転がった。


 それらが動きを止めてから、イゼカの者たちの間から声が上がった。


 人の頭ほどもあるのではない。

 人の頭そのものだ。

 人の首が放り投げられたのだ。


 黒い髪の裏側、表面に血の気を失った白い顔があった。

 砂と血で汚れ、苦悶の表情に歪んでいたものの、誰の顔かは判別できた。


「オルティ!?」

「ジガルおう!」


 エザンは喉を詰まらせた。

 自分が送り出した三人のうちの二人が、こうして、首だけで転がっている。


「返してやる」


 シャヴカトが言い放つ。


「一人小僧を取り逃したがあの傷ではもはや生きてはおるまい」


 今朝送り出したナズィロフの顔が浮かんだ。


「何ゆえっ、このようなっ」

「ようやく貴様らの餓鬼どもがアルヤに自ら殺されてくれに行きよったというのに、先に辿り着かれ安易に和平でも結ばれたら敵わん。余計なことを言う前に始末せねばならぬと思ったまでのことだ」


 腹の底から激情が沸き上がる。全身を駆け廻り口からほとばしる。

 目玉や頭の血管が弾け飛びそうだ。


はかったのか……っ」


 シャヴカトは「気づくのが遅いわ」と即答した。


「考えればすぐに分かりそうなものだが、頭の中身まで筋肉でできていそうな貴様のためだ、説明してやろう」


 その瞳にはもはや狂気しか見えない。


「ネガフバーンとかいうアルヤの豚を斬ったのも、貴様らの可愛い子羊を射殺すように命じたのも、全部、全部、俺だ」


 エザンが「いつからだ」と怒鳴ると、シャヴカトが涼しい顔で「二十年前からよ――と言うてやりたいが」と語り出す。


「アルヤに王国軍へ入らぬかともちかけられた時、これだと思ったのだ。彼奴らは必ず王国軍に参加するならば褒美に何でもやると言う。俺は迷わず答えた、物品は要らない、他の部族の動向を逐一教えてくれ、と。何も知らぬ異教の豚め、彼奴らはそれを単なる通商上の問題や仲間の動きを見て行動を取ろうとする獣の習性と一緒くたに捉えたようで、何の疑いもなくいつ頃どんな面子めんつでイゼカへ向かうか丁寧に教えてくれよった」


 手綱を握る手が震えた。


「後は、いくら力任せに殺すことしか知らぬ木偶でくの坊の貴様も想像できるだろう。アルヤの豚はチュルカ人の区別がつかぬ。我々がイゼカ族だと名乗れば、彼奴らにとって我々はイゼカ族なのだ。何の苦労もない――いや、想像以上の僥倖ぎょうこうだ。まさかイゼカの戦士をここまで減らしてくれるとは――あまつさえ連れて帰ったのがよりによって貴様の息子だったとは!」


 シャヴカトが笑った。

 その笑い声は山に、谷に、空に、どこまでもこだました。

 イゼカの戦士たちが押し黙り戦慄するほどに、深く響き渡った。


「どうだエザンよ、どうだイゼカの愚かな戦士たちよ!? 我が憎しみを思い知ったか! 我が兄を殺し我が姉を犯した罪の重さをその身にみて感じ入っているか!?」


 挙句の果てに「安心するがいい」と付け足した。


「貴様らがここで死んでも、イゼカの残った女子供は一人残らず我々が手分けしてほふり適当なところでアルヤに売ってやる。先のことは案じずに死ね。ティズカも一緒だ。使者はうっかり葬ってしまったが、まあもういいだろう」


 そして、剣を抜く。


「我々がどれだけの時を待ったか、思い知るがいい」


 もはや迷わなかった。

 ためらうことなくエザンも剣を抜いた。

 その他にないと思った。

 この男だけはどうしても許してはならない。絶対にここで斬らねばならない。


 考える必要はなかった。人の斬り方は知っていた。

 エザンの体重に慣れた馬も共に駆け出した。風が頬を切って後ろに流れていくのを感じた。


 感情に任せて雄叫びを上げた。

 風の向こう側に見える復讐鬼と化した男の歪んだ笑みだけが視界の真ん中にあった。


 刃を振りかざした。

 相手もまた刃を薙ぐように前へ払った。

 刃と刃が重なり合う。金属の音が岩肌に反響する。


 それが合図となった。


 エザンの後ろに控えていた戦士たちも一斉に駆け出して前へ突進した。


 シャヴカトの後ろで黙っていた男たちも突撃を開始した。次々と刃を突き上げて咆哮を放ちイゼカの戦士たちの群れへ突っ込んだ。


 叫びと叫び、刃と刃がぶつかり合う。

 馬のひづめに踏み荒らされた砂が宙を舞う。

 頭上の太陽がかすかに曇った。


 刃を押す腕の力はいまだ衰えず敵の抵抗を許さない。老いたといえどエザンは今もまだ自分が一流の戦士であることを感じ取っていた。


 予想外の重さだったのであろう敵の笑みがわずかに引きつる。けれど意地でも表にしたくないらしく声は出さない。

 引くこともしない。ただ刃を刃で受けたままエザンを睨みつける。


 来ないならば行くまで。

 エザンの方がさらに力を込めて薙ぎ払った。


 相手の刃が震えた。

 そのまま弾け飛ぶのではないかと思ったが、相手はつかを握り直した。


 自らの手でたおすのだ。

 息子たちの将来のためにこの男を斬り殺さねばならない。


 今度は斜め下から顎を狙って斬り上げる。

 男が器用に馬を操って下がる。

 しかし完全にエザンの眼前から退くことはしない。エザンの横へ回ろうと馬の鼻先を引く。


 機敏な手さばきは彼の兄を思わせた。

 だが目が違う。

 あの若い戦士はイゼカ族の戦士である自分を熱い眼差しで捉えていた。

 だからエザンも彼をキズィファ族の戦士と見て真剣に戦った。

 目の前の彼の目は戦士の目ではない。ただの復讐鬼だ。


 再度振りかぶった時、後ろから声が聞こえた。


「やめろエザン!!」


 目の前の男が唇の端を吊り上げたので、振り向くことはできなかったが、


「その男はもはや戦士ではない! お前が本気で戦うべき相手ではないぞ!」


 長老のうちの一人の声だった。エザンは顔をしかめた。

 長老だけではなかった。


「そのような小者は放っていけぃッ!」


 二十年前、ともに戦った男たちの声が、エザンの背中を押した。


「お前が今すべきは何だ!?」


 我に返った。目が覚めた気がした。


「かかったな」


 目の前でシャヴカトが囁くように言う。


 しまった。

 一刻も早くヤシェトに追いつかねばならないのだ。

 そうこうしているうちにヤシェトたちがアルヤへ突入してしまう。

 それこそ目の前の敵の思うつぼではないか。

 こんな小者に気を取られている場合ではない。


「お前はアルヤに向かえ!」


 怒号と金属音の中から戦士たちの訴えが聞こえる。


「ここはわしらに任せろ」

「性根の腐った連中に負ける我々ではないわッ!」


 その言葉を信じる。

 口には出さなかったが、エザンはそう決意した。

 手綱を強く引いて身を翻した。


 シャヴカトが初めて余裕の表情を崩し「貴様」と怒鳴った。

 だが彼はただの鬼であり戦士ではない。この衝突はけして戦士同士の神聖な決闘ではない。


「逃がすかっ」


 無視した。

 声も掛けなかった。

 ただ馬を走らせた。

 相手をする必要などない。


 わずかに逃げ遅れた。

 すれ違いざま右肩に熱く鋭い痛みを感じた。

 エザンは気がつかなかったことにした。

 そんなことよりも大切なことがある。


「貴様ッ、戻れ!! 俺と戦えエザン!!」


 舞い上がる砂埃すなぼこりの中次の斜面を一気に駆け抜けた。


 急がなければならない。

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