第22話 逆さ棘
オルティが同行を快諾したのに対して、ジガルは少し渋った。
今ニルファルの傍を離れるのはどうかと言うのだ。
ナズィロフはニルファルの兄であり、本来は葬儀の先頭に立って
支度をしながら説得しているうちに、一同はニルファルがアルヤ王国の要人たちに彼自身の成人まで時間を猶予してもらっていたことを思い出した。
ヤシェトは成人しているし、ナズィロフに至っては結婚までしている。いずれにせよ、ニルファル以外の者が族長となるなら、成人するまでという言い訳は通用しないかもしれない。
そうとなっては話が別だとジガルは重い腰を上げた。
そうこうしている間に想定外の事態が勃発した。
ザリファに見つかったのである。
彼女は自分が父と夫に二人がかりで騙されたことを知り激怒した。
そしてなんと自分も連れて行けと言い出した。
ザリファは弓の腕も良く、馬も男より立派に乗りこなす娘ではある。
だが、今回はわざわざアルヤに行ったことのある
山越えの苦労を説いて諦めてくれないかと懇願したが聞かない。
そのうち自分が煙たがられていることに気づいて、ザリファが泣き出した。普段は気丈が過ぎて可愛げのない娘だと思っていたのだが、兄が拉致され、父と夫の留守も長く続いて、気持ちが参っているのかもしれない。
ナズィロフが土産を買ってくるということでどうにかまとめようとしたが、彼女は納得せず、外を向いて拗ねた。
ザリファの機嫌が回復するのを待つことを諦め、ナズィロフたちは馬を走らせ始めた。
ナズィロフたちの背中が地平線に消えるまで、エザンはずっと見送っていた。
その間、ザリファはずっとあらぬ方を見ていた。
三人の姿が米粒より小さくなってから、ザリファが苛立ちをあらわにしたまま
「どうなっても知らないんだから」
我慢の限界が来ていた。
ここは一度叱らねば、とエザンは咳払いをした。
ザリファももはや結婚している身だ、このようなじゃじゃ馬では困る。ましてここのところは息子たちがこんなに頑張っているのに、彼女だけを見過ごすわけにはいくまい。
「ザリファ、お前、その態度は何だ。兄や夫の足を引っ張って恥ずかしいとは思わんのか」
ザリファが振り向いた。
その黒い瞳に激しい感情が渦巻いているのが見て取れた。
こういうところを見るたび、エザンは、トゥバの若い頃を思い出し、尻尾を巻いて逃げたくなる。
踏みとどまってどうにか睨み返した。
「お言葉ですけれど」
らしからぬ言葉遣いで、ザリファが言い放つ。
「わたしは何も、ナズィロフ様の邪魔をしたくて騒いだのではありません。夫の身を思えばこそ」
何が夫の身を思えばだと罵りたいのを
「何ゆえ騒いだのか教えていただきとうござる」
意地悪な気持ちも半分、からかう気持ちも半分で、エザンもわざと丁寧な口調で問うた。
どうせ浅はかな小娘の口答えが返ってくるに違いないと思っていたのだ。
珍しいことに、ザリファは一瞬押し黙った。
頭と舌がよく回る彼女だ、自分の都合であればすぐにあれこれ並べ立てて反抗してくる。
それが、間を開けた、ということは、何か本当に真剣な理由があって話せないに違いない。
「お父上があんなことになって、弟君までこんなことになって、さぞかしお疲れでしょうに。三日三晩くらいは休んでいただいた方がいいだろうと思ったの。母さんもデニズ姉さんも言ったわ、そんなにきりきりしていたらデキるものもデキないとね」
「嘘をつくな」
ザリファが口を尖らせた。
「何かあったのか? 言うてみろ、早く」
問い詰めると、彼女は「知らない」と言ってまた後ろを向いてしまった。
歩き出そうとするので、腕をつかんで引き寄せる。
「痛いっ」という甲高い声が上げる。
しかし相手はアリムをも引きずり倒す怪力だ、何の遠慮が要ろうか。
「ザリファ、言え」
嫌な予感がした。
何とも言えない何かが、胸の中で渦を巻いている。頭の中では警鐘が鳴り響く。ともすれば嘔吐しそうだ。
「い、言わない」
何かあるのだ。
「言うんだザリファ、言わないと酷いぞ」
「酷いぞというのは何よ、どうするのよ」
「口答えをするな! いい加減に――」
予感は的中した。
いななきと
ザリファの腕をつかんだまま、後ろを振り向いた。
自分の目を、耳を、信じられなかった。信じたくなかった。
若い戦士たちが幾人も、愛馬にまたがり、いづこかへ
誰も彼もが戦支度をしていた。鎖
駆ける
彼らが勝ちどきを上げながら地平線へ向かっていくのを、ただただ口を開けて見ていることしかできない。
「ザリファ! もういい!」
「ありがとう! 無茶を言ってすまなかった!」
聞き間違えようもない。
声の主はヤシェトだ。
何が起こったのか、エザンには、理解できなかった。
それまで暴れて逃れようとしていたザリファが大人しくなった。
手を離した。
その他に何もできなかった。
しばらくそのまま突っ立っていた。
彼らが地平線に消えていくまで、呆然と、黙って立ちすくんでいた。
「……お父さん……?」
ザリファがこわごわと声をかけてきた。
それを聞いてから、エザンの頭はようやく動き出した。
「どういうことだ。ザリファ、説明しろ」
薄々分かっていた。
だが、確かめたかった。
そうでないと受け入れられなかった。
ザリファは嫌がった。
首を横に振った。
長い三つ編みとともに透明な雫が踊った。
そうして下唇を噛む様子は見知らぬ女のようだった。
それでもなお問いただすために彼女の二の腕をつかんだ。
今度は左右とも強く握り締めた。
彼女はもう痛いとも言わなかったし抵抗もしなかった。
ただ溢れる涙をそのままに首を振り続けた。
「答えるんだ!!」
そう怒鳴ってようやく口を開いた。
「言ったでしょう、ナズィロフ様に休んでほしかったの!」
「わたしが何も感じていないと思っているの」と怒鳴り返された。
声には迫力こそなかったが、エザンは目の覚める思いでその叫びを聞いた。
「ヤシェトと約束したのよ! これ以上ナズィロフ様とは争わない、家のこともイゼカのことも全部全部ナズィロフ様に譲る。だから、ヤシェトが今からしようとすることを、父さんやナズィロフ様に見つからないよう、見つかったり何か予想外のことが起きたりしたらできる限り引き留めるよう振る舞ってくれ、と。そう言われたの」
血の気が引いた。手が震えた。
「ヤシェトはニルファル様の
いまさら後悔した。
なぜ昨日のうちにヤシェトと話さなかったのか。
どうしてヤシェトをそこまで思い詰めさせたのか。
「分かっていたから。ヤシェトは全部ナズィロフ様の双肩にかかっているのだと悟っていたから。だから、ナズィロフ様が絶対にできないことを自分がやるのだと言って出ていったのよ」
「馬鹿者が」
ザリファを半ば突き飛ばすようにして離した。
走った。
「皆の者! 起きろ!」
でき得る限りの声で叫んだ。
「非常事態だ!!」
ある者は
「どうした、エザン殿が、珍しい」
「何かあったのか」
まだ何が起こっているのか気づいていないようだった。
好都合だ。情報が錯綜していては混乱が広がるばかりである。まとめて話すのが一番良い。
広場の真ん中に来てから、エザンは立ち止まった。
問い掛けてくる者はあったが、すぐには説明しなかった。
集まってくる人々の顔を眺めて、若い戦士たちを除いた面々のうちの八割以上が集ったと判断できるまで待ってから、皆に向かって叫び、告げた。
「若い衆が出ていった! ヤシェト殿がニルファル殿の
どよめきが起こった。
皆が辺りを見回した。
息子が、夫が、いない。若い戦士たちが姿を消している。
「なんてことだ」
「何ゆえそのような軽挙妄動を」
「エザン殿は何か聞いているのか」
最初に「議論している場合ではない」と言ってから、一つ深呼吸をする。それでもなお上がったままの息の間でどうにか言葉を紡ぐ。
「すぐに追い掛けて止めねば――最悪我々おとなが体を張ってでも止めねばならぬことだ。皆の者、すぐ支度をしてくれ、頼む!」
エザンの言葉に誰もが頷いた。
「アルヤの兵はとかく数が多い、いくらイゼカの少数精鋭といえどわずかな数と装備で敵う相手ではない!」
男も女も皆が自らの
「若い者たちをむざむざ死なせるわけにはいくまい」
急がなければならない。
デニズの手が、金だらいの中の湯に、汚れた手拭いを押し込んだ。
湯の中で少し揉んでから持ち上げ、丁寧に絞り上げた。
「お義父様は大丈夫でしょうか」
デニズの問い掛けに、祈りを捧げていたトゥバが、「大丈夫ですとも」と答えた。
小刀を、ニルファルの背中に突き立てる。
「あのひとはね、あれでいてね、イゼカで一番の戦士なんですからね。普段はぼんやりしているし、タルハン様の時やニルファル様の時は隙を突かれてしまったけれど、あのひとが本当に本気で動いてどうにもならなかった時など一度たりともないんですから。本当に、ただの一度たりともよ」
一点の曇りもない、全面的に信頼したトゥバの言葉と表情に、デニズは微笑みを返した。そして穏やかな声で「そうですね」と言った。
「そういうところはアリム様と一緒。本当に
「そうですとも。あの子は本当、父親そっくり」
トゥバは再度、「お前が気にすることは何にもありませんよ」と告げた。
「ザリファも反省しているし、仕掛けられた戦でもないんだからね、特に何というわけでもないでしょ。あたしたちはここでこうしてみんなの帰りを待っていればいいの。ニルファル様のお体の手入れをして、すぐに葬儀ができるようにしておけばいいのよ」
姑の穏やかな言葉に、デニズは「はい」と頷いた。
昨夜は冷たく硬直していた
残った女たちは、深く刺さっていて昨日はどうにもできなかった矢尻を、彼の背中から摘出することにした。
エザンの妻として務めを買って出たトゥバは、長年羊をさばいて養った手さばきで、難なく肉を分けた。
嫁のデニズはその正面で姑のすることを見ていた。
こうして肉を裂いても、ニルファルが痛みを訴えることはない。
「ほれ、取れた」
赤黒い塊の中から、灰色の硬いものが出てきた。
トゥバが摘まんで取り出すのを、デニズが手を伸ばして受け取る。
たらいの湯の中に放り込む。
透明な湯が、赤黒く濁っていく。
デニズがふたたび涙の浮かんだ目頭を押さえようとした。
しかし――その次の時だ。
「……お義母様」
二つ目を摘まんでいたトゥバが、「何だい」と顔を上げた。
デニズは震える指先でたらいの中の矢尻を取り出した。
「これ……」
トゥバも目を丸くした。
矢尻は独特の形をしていた。
基本的には細い円錐状だが、鋭角に逆さの棘が生えていた。それも無数に、だ。肉に食い込んで離れない仕組みになっているのであろう。
デニズは、「このような形、先のアルヤの騎馬隊が夜襲をかけてきた時には見かけませんでした」と言った。
傍に控えていた女たちも身を乗り出し、デニズの手元を覗き込んだ。
デニズより知識と経験に長けたトゥバは、顔を蒼くして首を横に振った。
「これは……!」
女たちが息を詰まらせた。
いち早く自分を取り戻したトゥバが立ち上がる。
小刀を脇に置いて
「ザリファ、ザリファ!」
すぐそこで友人に愚痴を零していたザリファは、すぐさま「母さん?」と顔を上げた。
「すぐに馬を出しなさい! お父さんを追い掛けなさい、一刻も早くこのことを伝えなければ」
「どうしたの、何があったの」
「アルヤではなかった」
トゥバの手に握られていた二つ目の矢尻が、日の下に晒された。
ニルファルの肉を纏ったその矢尻にも、逆さ棘が生えていた。
「これはキズィファ族のもの。あのキズィファ族がイゼカ族に矢を向けているんだよ……!」
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