第21話 星を見上げた最後の夜
怪我も病も何一つしなかったニルファルが、たったの十二で呆気なく逝ってしまうとは、夢にも思わなかった。
誰もがタルハンの跡目はニルファルが継ぐものと信じて疑わなかった。
ナズィロフとヤシェトを天秤にかけねばならぬ日が来ようとは、いったい、誰が予想しただろうか。
エザンにとってはいずれも我が子同然の大切な若者だ。選ぶことなどできない。
万が一選べたとしても、エザンの決定を機に、二人の仲は完全に修復できないものとなるだろう。
そしてイゼカ族は大分裂というさらに大きな危機を迎える。
だが、族長は絶対に必要だ。最終的に意思を決定する者は必ず要るのだ。
そしてその者は一人でなければならない。
平時は複数の人間が協議するのも良い。しかし戦の時は誰か決まった一人が強固な決断力で戦士を統率するものだ。でなければまとまりを欠き平原を行くこともままならなくなる。
頭を抱え込んだ。額を掻いて小さく
女たちや経験を積んだ戦士たちの言うとおりだ。
適性だけで言うならば、エザンは次の族長にナズィロフを推さねばなるまい。
イゼカ族は大きくなり過ぎた。もはやヤシェトのような者が力ずくで動かそうとして動ける部族ではない。ナズィロフのような者が後ろから追い込んでいくのが良かろう。
また、ヤシェトのような一戦士が暴走した時、ナズィロフのような族長が頑として動かずにいれば止めることができる。
そもそも、ヤシェトはイゼカ族を出たがっていた。
逆に考えれば、これは彼にとって好機だ。
いまさらイゼカ族を背負えと言うのも酷だ。彼の夢を奪ってしまうことになる。
ナズィロフにイゼカ族を託して、ヤシェトは仲間たちとエザンを連れてイゼカ族を出ていけばいい。
さらに言うなら――これは死んでも口には出せぬと思うが――ナズィロフであれば、アルヤに対して妥協的に出るように思う。
ヤシェトだと、アルヤに攻め入りかねない。
今アルヤにいるのは、他の誰でもない、エザンの一人息子だ。
もしも対アルヤ交渉をヤシェトに任せてしまったら、アリムは帰れなくなるかもしれない。
しかし安易にナズィロフを指名するわけにもいかない。
意外と頑固すぎることが分かってきた。自らが正しいと思ったことを意地でも貫く男だ。実弟のヤシェトのことでさえ話も聞かずに追放を訴えるほどである。
族長が柔軟性に欠けるのは困る。
それに万が一族長となったナズィロフ自身が暴走を始めた時、もしもエザンがいなくなっていたら、誰がナズィロフを止められるだろうか。
ナズィロフは長男であり、ヤシェトを小突くナズィロフ自身のような兄をもたない。
それは危険なことだった。
もっと深く考えれば、もしもナズィロフが族長になった場合、ヤシェトはどうなるのだろう。
本格的に排斥されないだろうか。
たとえヤシェトが出ていくとしても、元は同じ部族に身を置いていた者同士、同盟を組んでいてほしい。
だが、そうはならない気がする。断絶するどころか、最悪ここで戦になってしまいかねない。
窓から外を仰ぎ見る。
地平線に日が沈み、天上に星が輝き始めていた。
こんな日でも空はいつもどおりに移ろう。
変化するのは人だけだ。
ニルファルの
こんな時、タルハンだったらもっと
誰よりエザンにそれが欠けている。
エザンには、重要なことを決める力がない。
ただタルハンに従って盲目的に戦い続けてきたつけが回ってきたのだ。
改めて、若者の意見をもっと聞きたいとも思った。
自分が老いたから、頭が固くなったから、うまくいかないのではないか。
あるいは、自分が親の立場でナズィロフとヤシェトを見ているから、悩むはめになっているのではないか。
ひょっとして、彼らの同年代の若い戦士たちは、まったく別の見方をしているのではないか。
若い戦士たちの多くは、今、ヤシェト同様に
そうではない、中立的な立場でものを考えてくれている若者はいないか。
こんな時こそアリムだと思った。
アリムの考えを聞きたい。
アリムもまたあの兄弟をよく見てきた人間の一人で、なおかつ、エザンも信頼できる人物だ。
自分で認識していたより、自分はアリムを頼って生きていたようだ。自分がもう老いて子に従うのみの頃になったことを改めて実感した。
アリムも同じ星を見上げているだろうか。
とうとう感傷的な気分になってそんなことを考え出した頃、
「義父上」
ナズィロフの声だった。
エザンは驚いて
ナズィロフはずっとニルファルにつきっきりでこちらに戻ってくることはないと思っていたのだ。
黙って絨毯に上がると、エザンと向き合って座り、姿勢を正して口を開いた。
「先ほどは取り乱して失礼致しました」
エザンは胸が強く締め付けられるのを覚えた。たった十八の青年、それも後継ぎと
「義父上のお手を煩わせるようなことを――」
「そのようなこと……! それ以上言うな、言わずともよい」
思わず手を伸ばし頭を撫でようとしてしまったが、相手はとうに成人し妻もある身だ。
「あちらはどのような様子だ」
エザンの問い掛けに静かな声で「はい」と答える。
「ニルファルのことは、女たちや長老たちが良くしてくださっています。僕のことは、大長老様に一度ゆっくり休むようにと言っていただきました。もともと葬式を取り仕切ったことがなく、支度の手順もいまいち分かりかね、ただただ眺めるだけでしたし……どうしてもぼんやりしがちでしたので、邪魔をするよりはお言葉に甘えて仕切り直そうと思った次第です」
その判断は正解だと思う。エザンは「そうか、そうだな」と頷き、「ありがたく受け止め、布団に入るように」と告げた。
ナズィロフは素直に「はい」と応じた。
「ただ義父上、その前に」
「応」
「ひょっとしたら、義父上も、今、お悩みなのではないかと思って」
図星だった。
エザンは何も言わなかったが、ナズィロフはそれを汲んで「そのことについても、前もってお話ししておかねばなるまいと考えておりました」と続けた。
「このようなことになるとは、思っても、みませんでしたが。ニルファルの手を握っておりましたら……もう、そのようなことを言って逃げるわけにもいくまいと……」
失われていく体温を前にして、彼は何を感じていたのだろうか。
かける言葉は見当たらなかった。ただナズィロフが紡ぐ言葉を聞いている他なかった。
「誰が何と言っても。自分の気持ちは変わりませぬ」
「変わっておりませぬ」と、彼は繰り返した。
「族長タルハンの息子としてでなく、戦士エザンの娘婿として、修養を続けたい、と。今でも、そう思っております」
その言葉は嬉しかった。けれど、
「でも、イゼカ族全体の未来のためであるならば、己れの意志を
エザンは一度、目を閉じた。
黙って一人腕組みをし、唇を真一文字に引き結んで、暗闇の中で自らに問い掛けた。
自らの中を探した。こういう時、何と言うべきか。
「ただ一つ、不安があります」
エザンがふたたび口を開く前に、ナズィロフが言った。
何の言葉も出なかった情けなさを封じて、何でもない様を装い、「何だ」と静かに問うた。
「僕は自分を気性の穏やかな人間であると思っておりました。いえ、そうであろうと努めておりました。けれど実際はそうでもない。義父上に申し上げることではないかと思いますが、今も外でザリファと派手な喧嘩をしてまいりました」
「それは、あれの気性が荒いからやむを得んのだ」
「いいえ、ザリファは何にも間違ったことを言っていません。彼女のおかげで冷静になりました。彼女が言ってくれたのです――もしも族長になったら、ヤシェトをどうするのかと」
エザンは心の臓が跳ね上がるのを覚えた。
我が子ながらとんでもないことを言う娘だ。自分が聞きたくても聞けなかったことをこうも簡単に投げかける。
しかも案の定ナズィロフの神経に触れたらしい。
内心震え上がったが、
「正直に告白すると、恐ろしいことを考えていました。ヤシェトを平原に一人放り出そうと思っていた。腹が立って仕方がなくて……」
そう語る表情は恥じ入っているもののどこか優しい。
「でもそれこそ、ニルファルは望んでいない。あの子が心配していやしないかと思うのです。僕とヤシェトの喧嘩を仲裁するのはいつもあの子でした。いい加減おとなになって、ヤシェトをなだめたり、ヤシェトの処遇をどうするか他のおとなたちと話し合ったり、そうやって、穏便に解決していけなければ、
目頭が熱くなったのを
「ニルファルとそう変わらないのですが……、義父上や義兄上のようになりたいのです」
ついつい首を傾げてしまった。ナズィロフは「そういう謙虚なところも含めて」と言った。
「上手く説明できませんが……、義父上の泰然としたご様子や、義兄上の悠然とした構えに、ずっと憧れていたのです。僕は乱れてばかりですから、お二人のような、揺るがぬ戦士になりたいのです」
我慢できなかった。
腕を伸ばして、ナズィロフを強く抱き寄せた。
ナズィロフは抵抗することなく、ただ恥ずかしそうに「痛いですよ」と笑った。
そんなことはない。見せ掛けだ。
エザンは口下手なだけだし、アリムは何も考えていないだけだ。
ナズィロフの方が年若くしてよほどできている。
言いたかったが、言わなかった。
たとえまやかしでも何か追い掛けるもののある方が弟のいない隙間を埋められる可能性が高いと思った。
それに、何より、嬉しかった。
「本当は、僕も義兄上に一刻も早く戻っていただきたい」
エザンに抱き締められたまま、ナズィロフが囁くように語った。
「僕にとっては、義兄上をただアリムとお呼びしていた時からずっと、兄は彼しかいませんでしたから。僕も、いてくれた方が安心なのです」
徐々に身を起こす。
それにしたがってエザンも腕を解く。
ふたたび互いの顔を見ることができた。
話ができた解放感からか、ナズィロフの顔色がわずかばかり良くなったように見えた。
「それに、アルヤの富は本物です。お会いしたアルヤの方々が嘘を言っているとも思えない。ニルファルの件は許せません、けして許せません。けれど――僕には何か行き違いがあるように思えてなりません」
エザンも気になってはいた。
アルヤ王国にとってニルファルを殺すことに益はない。
ニルファルはアルヤにつくと言っていたし、まだ
アルヤがイゼカ族を取り込みたいと言うのも、あれほどの手間暇をかけていることからすれば本気だと思えるし、そのためにアリムまで人質に取ったのである。
あるいは、どうせ殺すのならば全員始末しても良かったのではないか。
なぜニルファルだけを狙ったのか。
次期族長だからだろうか。
自国に従順な次期族長を殺して中途半端に恨みを買う方が危険なのではないか。
「あるいは、アルヤでも内紛があるとか――分かりませんが、我々がお会いした方々とニルファルを殺した連中は別の組織かもしれない、と」
「うむ、そのおそれはある」
「ですから、もし僕が族長になったら、僕はまずアルヤと和議を結んで疑問点を片端から解決したく存じます。ニルファルを殺した犯人を捕まえ償わせたいし、今後の禍根も断たねばなりません。アルヤの傘下に入ることになるかもしれませんが、ナムザ殿の話を聞く限り、そう悪いことではないように思います。改めて長老会や女たちの意見を聞こうと思っていますが、アルヤを敵に回すことだけはないでしょう」
エザンは頷いた。
ナズィロフもそれを見て安心したらしく、表情をわずかに緩めた。
これで心配事が一気に減った気がした。あとはヤシェトの気持ち一つだ。
「――このことを、義兄上にお伝えしたいですね」
ナズィロフが呟いた。
エザンが「アリムにか」と確かめると、彼は「はい」と答えた。
「義兄上だったら、どう考えられるのか、と。ヤシェトのことも上手く説得してくれそうだし」
思わず「その手があったな」と口に出してしまった。
ナズィロフとニルファルだけではないのだ。ヤシェトもアリムには特別に懐いている。アリムだったらヤシェトの手綱も引けるのだ。
「アリムに文を出すか」
ナズィロフが目を丸くして、「そんなことができるのですか」と問い掛けた。
エザンはさっそく立ち上がり、棚の道具入れから
「制限されてはおらぬだろう。それにすぐにでも伝えた方が良かろう」
ナズィロフは「そう急ぐほどの――」と言い掛けた。
エザンは首を横に振り、「間に合うかもしれぬ」とうつむいた。
「話が早くまとまれば……、ニルファル殿の弔いに、あやつも参列できるかもしれぬ」
ナズィロフは一瞬黙った。一拍置いてから、震える声で「そうですね」と言った。
「ニルファルは、あんなに、義兄上に会いたがっていたのだから。送り出す時には、いてくれたら、喜びますね」
エザンは大きく頷いた。
「善は急げよ。アリムに話が伝われば――加えてアルヤの皆にイゼカ族の意見がアルヤにとって良い方にまとまりつつあると知れれば、あるいは」
しかしそこまで言ってから、重大なことに気づいて口をつぐんだ。
自らの考えの浅さを恥じて黙り込む。
「いかがなさいました?」
「いや……、その、すまぬ。文を
聞いた途端、ナズィロフが「それなら」と答えた。
「僕が届けます」
エザンはつい「何だと」と声を大きくしてしまった。
ナズィロフは何ということもない顔で「アルヤには一度行っておりますし」と答えた。
「それに僕が直接事のあらましを説明した方がアルヤの面々も分かっていただけるでしょう。僕も前族長タルハンの息子の一人だし、次期族長候補と分かれば、話を通してくれるかもしれません」
それから肩を落として、「葬儀では何をしたらよいのか分かりませんし」とぼやいた。
エザンは「そのようなことは考えずともよい」と言ってナズィロフの頭を撫でるように優しく叩いた。
葬儀には数日かかる。何かしていた方が気も紛れるに違いない。
「では、お前に文を託すぞ。そしてその間に俺がヤシェト殿とじっくり腰を据えて話をすることにする」
「はい、ぜひとも」
ナズィロフは大きく頷いた。この様子なら途中で気をおかしくして帰ってこなくなるということもなさそうだと思えた。
「どうせだ、あの黒馬で行け。それで、置いて帰ってくるように。あのような名馬はやはり気が引ける、帰りは安い馬を借りるか誰か連れていって同乗させてもらった方が良かろう。ましてニルファル殿がかようなことになったばかりだ、道中何があるか分からんし、念のため誰か信頼のおける者を伴って行くこと」
エザンの言葉に、ナズィロフは素直に頷いた。
「では、オルティとジガルに頼みます。あの二人でしたら、一緒にアルヤまで行った仲です、事情も分かってくれましょう」
「応、確かに。文ができたら俺からも頼みに行く」
言いながら文箱のふたを開けた。
滅多に使わない筆は乾燥して硬くなっていた。
それを見ていまさら自分が筆不精であることを思い出したが、ここは一念発起だと自らに言い聞かせ、どうにかこうにか最初の一文を書き出した。
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