第20話 誰からも愛される子
思えば、ニルファルは本当に誰からも愛された子だった。
明るく素直で愛嬌のある子だった。
母の命と引き換えに生まれてきた子だったが、屈託なく育った。
甘え上手で人を立てることに長けていた。
タルハンが「娘だったら良かったかもしれぬ」と嘆いたこともあったが、大所帯となったイゼカ族にとっては、絆をつなぐことに何よりもの価値を見出していた彼こそ、この時代に族長たるべき人格の持ち主だっただろう。
ニルファルは、最期、エザンに向かって「アリムに会いたい」と呟いた。
エザンはそんなニルファルの手を握って「すぐに連れて参る」と約束した。
彼は「そうしてください」と微笑んだが最後動かなくなった。
族長の大きな
女たちだけでなく、年の近い少年たちや同じくらいの年の子がある男たちも嗚咽を
人の死などいくつも乗り越えてきたはずの長老たちでさえ沈んだ面持ちでうつむき嘆息した。
エザンも歯を食いしばりともすれば零れ落ちそうになる涙を呑み込んだ。
トゥバがニルファルに縋りつき、大きな声を上げる。
それを皮切りに近くで座っていた女たちも次々と喚き始めた。
しばらくの間誰も動こうとしなかった。
何人かがニルファルの頬や肩を撫でたり自らの涙を拭ったりするだけで、立ち上がる者はなかった。
祈りの言葉を呟く者もあったが、床に額をこすりつけて祈るばかりで特に何になるわけでもない。
何にもならないのだ。
思考が停止していた。
この先のことは考えられなかった。
ニルファルとの約束すら、果たす気になれない。ここを動くこと自体が億劫になった。
きっとここに集まったイゼカ族の皆が同じ気分だろう。老若男女皆がただその死を
そう信じていたのも、背後で立ち上がる音がするまでの話だ。
「殺してやる」
突如聞こえてきた低く唸るような声に、エザンの背筋も震えた。
「アルヤの連中、みんな、みんな殺してやる」
振り向いた。
ヤシェトが立っていた。
頬にとめどなく伝うものを拭うことなく、彼はニルファルの抜け殻を睨みつけていた。
震える手には刀が握られていた。
「油断させておいてこのような真似っ、絶対に、絶対に許さないッ!!」
腹の底から吐き出された叫びだった。こちらの腹にまで響いた。彼が本気であることを思い知らされる咆哮だ。
すぐに同調する者が現れた。
「許すまじアルヤ……!」
ある若者が立ち上がり、同じように拳を握り締めた。
「タルハン殿のみならずっ、ニルファル殿までっ!」
またある若い戦士も立ち上がり、拳で涙を拭った。
「まだ初陣も済ませぬニルファル殿をかような目に遭わすとは、彼奴らは鬼畜生なのだ」
「同盟に値せぬ蛮族どの、目にものを見せてやるべきだ」
三人、四人と、次々後に続く。誰も彼もが真っ赤な怒りを顔に
「アリム殿とて
「討ち入るべし!
長老のうちの一人が立ち上がり、「何を言うておる、落ち着け」と両手を伸ばした。ジガルも立ち上がって「そう簡単に事を運べる相手ではない」と諭そうと試みる。
しかし決起した若い戦士たちの
「冗談ではないぞ、このような侮辱」
「すぐにでも
エザンも止めねばなるまいと思った。
ジガルの言うとおり相手は一筋縄ではいかぬ連中だ。豊かで兵の数も多く何の準備もせずに突っ込んでいって勝てる見込みはないだろう。
挙句の果てにこちらはアリムを人質にとられている。イゼカの戦士たちがこのように意気込んでいることを知ったら、それこそアリムがどうなるか分からない。
だが、若い戦士のうちの一人が発したある言葉に、
「そうは言うても
ヤシェトが目を真ん丸にしてそう言った若者を振り向いた。
その若者を中心とした数人の戦士たちが「そうだそうだ」と唱和した。
若者の言うとおりだ。掟に従うならば、ニルファルのすぐ上の兄であるヤシェトにお鉢が回ってくるのは、妥当なことなのだ。
「次の族長がアルヤと戦うと
おとなたちが黙った。
エザンも混乱した。
ヤシェトが族長になるなど考えたこともなかった。
タルハンなどヤシェトをイゼカ族から出すことさえ考えていたくらいだというのに、そのヤシェトがイゼカ族の族長となってしまうことなど、想像だにしていなかった。
ヤシェト自身もどうしたらいいのか分からぬ様子だ。戦士たちを見回して言葉を探している。
そんなヤシェトを若い戦士たちが「なあ族長」とからかうように呼んだ。
状況を変えたのは、女たちだった。
「何が族長だ」
「皆を危機に晒す真似はいくら族長たりともまかり通ることではない」
その声は
「族長とは部族を迷わせることのないようにあるもの。部族を迷わせてでも族長となるならまさしく本末転倒」
「この前の戦で幾人を送ったと思っておいでなの」
「私の夫も足をなくしたわ」
「私の息子は目をやられた」
「誰のせいでこんなことになったと思っているのよ」
女たちが赤い目のまま迫りくる。
普段は安らぎを与えるはずの柔らかな声が男たちにまとわりつく。不快だが、拭えない。
女たちがいてこそ戦士は戦えるということを、エザンは身に
女たちだけではなかった。「そのとおりだ」と戦慣れした戦士たちも立った。
「守るために導く族長に導かれて滅ぶなど笑止千万! 子孫に残せるイゼカが見えずとも戦えるほど我々は愚かではない」
「無鉄砲で向こう見ずの族長は時代遅れよ。頭の足りぬ族長の発言は戦士の魂を懸けるに足るものか? 答えは否!」
辺りがいつの間にか族長の子の臨終場面とは思えぬ有り様に発展していた。
互いが互いを睨み合う。
零れるようだった言葉がいつしか濁流へ変わっていく。
「だいたいヤシェト様はご幼少の頃より傍若無人でうちの子は何度泣かされたことか」
「それはお前の教育が悪いからだろうが、イゼカの戦士の長が弱くて何とする」
「タルハン様の言い付けに何度も背いて、今後もイゼカを危機に晒すに違いない」
「戦う覇気があってこその戦士よ、もともと戦士とは戦を
「では族長の座はどうなる。空けたままにするのか? 誰が
議論が白熱する中、とうとうエザンがもっとも恐れていた事態が展開し出した。
「あら、タルハン様のお子はもう一人いらっしゃるでしょう」
地に額をつけてタルハンとビビハニムに詫びねばならぬと思った。
「ナズィロフ様がなされば良いこと」
それまでずっと、ただ黙って弟の髪を撫で続けていたナズィロフが顔を上げた。
「聡明で
「確かに。ナズィロフ殿ならば安心して任せることもできよう」
「そうだ、ナズィロフ殿であれば」
ナズィロフが、ニルファルの向こう側からエザンの顔を見た。その瞳はどこかうつろだ。
おもむろに首を横に振る。非常に弱々しい。
仕方がないだろう、彼はこの短期間に父だけでなく最愛の末弟まで失ったのである。
守らねばならない。
止めねばならない。
これ以上ヤシェトとナズィロフを競わせてはならない。
「やめぬかッ!」
エザンの低い声が
「ニルファル殿がかようなことになったその枕元で貴様ら、おとなげないとは思わぬか」
誰も文句を言おうとしなかった。
人々にまだ知性が残っていることを察して、エザンは小さく呼吸をし直した。
「族長の座が空いてしもうたこと、それをすぐに埋めねばならぬ状況であることは、紛れもない事実。しかし弔いすらせずにすることではあるまい。ましてナズィロフ殿もヤシェト殿もニルファル殿の実の兄、枕元で兄たちを相争わせるとは、貴様ら、ニルファル殿への敬意はないのか」
やはり、反論はなかった。
それだけ皆のニルファルへの思いが強かったのだと思うと、彼が息をしていないことも否定したかったが、今のイゼカ族にはそんな感傷を許す余裕さえない。
「この件、ニルファル殿の葬儀が終わるまで、自分が預からせていただく。自分はこれでもナズィロフ殿の嫁の父、同時にビビハニム殿とタルハン殿からヤシェト殿の後見を託された者。この程度の権利は認めてもらえまいか」
「エザンの言うとおりにせよ」と最長老が援護してくれた。
「まずは死者へ敬意を払わねばならぬ。まして族長になるべき子が成人することも妻帯することもなく逝ったのだ。丁重に天へ送ってやらねばならぬ」
ふたたびすすり泣く声が聞こえてきた。
いきり立っていた戦士たちも、一人二人と座り直し始めた。
「むろん結論を先送りするだけのこと、近いうちに次の族長をタルハンの子らの中から選ばねばならぬことに変わりはない。だが、今は皆混乱しておる。かような空気で話をしても不和の種が撒かれるだけ、
長老たちが首肯した。
現役の者たちもそれ以上は逆らえなかった。言葉を発することなく、うつむいて従う素振りを見せた。
ただ、
「頭を冷やしてくる」
ヤシェトだけは座らなかった。
一同に背を向け、
「エザンに背くのか」
その背に鋭く声を投げかけたのはナズィロフであった。
ヤシェトは振り向き、ナズィロフを睨みつけて「違う」と答えた。
「言っただろう、頭を冷やしてくるだけだ。冷静になりたい、一人にしてくれ。何もしないから放っておいてくれまいか」
「本当に一人で?」
ナズィロフはその言葉を信用していないに違いない。
エザンはこのままヤシェトをここに置いておいてもせっかく場を鎮めた意味がなくなりそうな気がしていた。ナズィロフとヤシェトはそれほど互いを冷めた目で見ている。
すでに始まっているのだ。
止めねばなるまい。
この対立は、ビビハニムも、タルハンも、ニルファルも、絶対に、悲しむことだ。
「行きなされ。ただし何があるか分からぬ状況ゆえ、あまりお離れにならぬよう」
エザンがそう言うと、ヤシェトは頷きながらも向こうを向いてしまった。
「夜までには帰る」
それだけ言い残して、ヤシェトが出ていった。
それを機に、中にいた面々もそれぞれ自分の務めを果たそうと動き出した。
エザンとナズィロフだけが、ヤシェトの出ていった方をいつまでも見ていた。
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