第4章 嘆く間もなく世界は色を変えてしまった

第19話 帰り道での奇襲

 山を下る途中でも、もう一度休憩をとった。


 いったい何度目の休憩か。


 草原はすでに目の前で、あと二日も駆ければイゼカ族の皆に合流できるはずだ。


 だが、一行の足取りは重い。

 アルヤ領を出てからずっと寄り道ばかりしている気がする。


 オルティが黒馬の背を撫で、「荷が軽くなって良かったな」と囁いた。

 馬は黙って撫でられ続けていた。

 実に大人しい馬だ。

 それでいて立派な体格をしており毛並みも輝いている。

 本来は軍馬で、当分現役で活躍する予定であったと聞いた。

 それをカズィ・ナディルが、アルヤ側で用意した復路のための食事二週間分を積んでよこしたのだ。


 頂戴して良かったのであろうかと、いまさらになって考える。

 おそらく騎馬隊に就役していた馬だろう。

 引き渡された時こそエザンは跡取り息子が馬一頭に代わるものかといきどおったものだが、アルヤを出でて七日六晩が経過し頭が冷えてきた今では、見れば見るほど名馬で不安になる。


「返却しようにも、次にアルヤへ参る予定が三年後では、な」


 この一週間ずっと世話をしているオルティは、「別に返さんでもいいでしょう、お宅で乗った後ザリファちゃんの馬に種をつけさせれば良い」と言う。

 ジガルも「別に良かろう」と言った。


「イゼカは此度こたびそれ以上の損害をこうむったのだからな」

「確かに、あの夜の件について納得のいく調停はなされなかったが――」

「あの夜のことではない。我々のアルヤ行きの話だ」


 彼は溜息をついたのち、エザンに向かって「お前一人が分かっておらぬ」と言ってきた。


「アリムの不在はイゼカの再建を大きく左右すること。お前が思うておるより全体に関わることなのだ」


 失笑し「大袈裟な」と言ったら、「お前もアリムも謙虚すぎる」と返された。


「慎み深いのは良いことだが、過ぎたれば及ばざるがごとし。お前がイゼカ一の戦士でなくなった時、誰がその座に就くと思うておる」


 それこそ世襲のものではない。「腕のある若者を選べば済むこと」と答えた。

 ところがそこで「今の二十歳前後の連中でアリム以上に腕のある者というのは浮かばない」と呟いたのはオルティだ。

 アリムは確かにイゼカの若い衆の中では恵まれた体格をしている。腕力も強く弓も剣もそれなりにできるはずだ。

 だが、エザンは彼にイゼカの若い荒くれどもという重荷を負わせたいとは思わない。

 我が子の評判が良いこと自体は嬉しいが、エザンは素直に喜べなかった。


 倒木の上に腰を下ろしていたナズィロフが、頭を抱えた。


「僕が代われば良かった」


 吐き出された言葉は、深い悲哀に満ちていた。きっと七日間溜め込まれて熟成されていたのであろう。


「アリムのことを待っている人はたくさんいるのに。立場だけなら、族長の長男である僕の方が適任だったのに」


 エザンはあえて強い語調で「馬鹿なことを言うな」とたしなめた。


「義弟にそのようなことをさせてアリムの顔に泥を塗る気か」

「でも――」

「比べてはならぬことだ。お前を待つ者もある。アリムも言うておったろう、お前はお父上に代わって弟たちを見なければならぬ」


 納得がいかないようだ。ナズィロフは首を横に振った。このひと月ほどで彼が如何いかに頑固かを思い知らされた。


 さてどうしたものかと言葉を選んでいるうちに、オルティも「そうだ」と助け船を出した。


「あやつはナズィロフ殿が家を守ってくださると思ったからこそああしたに違いない。それでナズィロフ殿がそうも塞ぎ込んでは、あやつの見込み違いということにもなろうに。あやつの名誉と家族を守ってやってくだされ」


 アリムと同い年の男が言っただけあってか、ナズィロフは顔を上げこそしなかったが、「それは、そうだけれど」と呟いた。


「義姉上や義母上がどれほど嘆かれるかと思うと……」


 痛いところを突かれた。

 エザンもうつむいた。

 あの二人へは何と言い訳をすればいいのだろう。今も自分たちがアリムを連れて帰ってくると信じているに違いないのだ。最愛の息子を、そして夫を三年もアルヤで留め置かれる話になっていると知ったら、嘆き悲しみ怒り狂うだろう。


「仕方があるまい。アリム自身が決めたこと、分かっていただくしかなかろう」


 オルティはまだ若くアリムの立場で考えているからそんなことを言えるのだ。

 しかしかつて彼らと同じ青年だったエザンも、結局それしかないと思ってしまう。

 女たちに何とかして戦士の決意を理解してもらうしかない。イゼカの女なら受け入れてくれると信じる他ないのだ。


「ナズィロフよ」


 穏やかな声を意識して話し掛ける。

 ナズィロフがようやく顔を上げる。

 その目尻には涙の痕が見えた。


「おそらく、赤子が歩いたり話したりする頃には間に合わぬ。アリムが戻るまでは、叔父のお前が父役を務めるのだ」


 ナズィロフはしばらく黙って唇を引き結び耐えていた。

 だいぶ経ってから、「はい」と険しい表情で頷いた。


 直後、「そんなに待たせることはありません」と言う声が入ってきた。


 声のした方を振り向いた。

 泣き腫らして真っ赤な目をしたニルファルが、拳を握り締めていた。


「もういいでしょう。三年もなど。そんなに待つことはないでしょう」


 誰ともなく「どうした」「どういうことだ」と訊ねると、彼は半ば狂乱した様子で言った。


「アルヤに下りましょう。もうあれこれ考えなくても結構。アルヤの配下になりましょう」


 唖然とした。エザンだけでなくその場にいた誰もが言葉を失った。


「そうしたらアリムを返してくださるとあの将軍が言っていたではありませんか」

「ちょっと、ニルファル、落ち着きなさい」

「あの将軍の言うとおりだと思うのです」


 しかしこれこそがこの七日の間で彼の出した答えなのだ。


「アルヤはあんなに豊かですよ。アルヤはみんな煌びやかで、王でなくともたくさんの料理を客人に振る舞えるだけの富がある。チュルカ人だって大勢暮らしていたではありませんか。みんな見たでしょう?」


 それがニルファルがアルヤで見て感じたすべてに違いない。


「それにあのナムザという方はケルクシャ族です。我々とてもそれなりに働けば報いられるのではないですか? お金も住まいも保証してくださると言っていましたよ。アルヤの下に入っても、支配され窮屈で不自由な暮らしをするわけではないのです。むしろ暖かな地で豊かな暮らしができるかもしれません。何を拒む必要がありますか」


 確かにアルヤの人々はそう言っていた。エザンが見たものもそういうものだった。


「ねえ、悩む必要がありますか? アルヤに下れば、アルヤに脅かされる心配もなくなるのですよ」


 エザンはそれに対する反論を持っていなかった。

 他のおとなたちも同様らしくうつむいてしまった。


 そんな中、口を開いたのは唯一、それまでずっと黙って聞いていたヤシェトであった。


「確かに、暮らしは潤うだろうな」


 次兄が肯定的なことを言ったのに、驚いたらしかった。ニルファルは目を丸くして「ヤシェト兄さん?」と呟いた。


 ヤシェトは、真剣そのものの顔をしていた。

 落ち着き払っていた。

 穏やかな口調で語った。


「金も、女も、家も。確かに、アルヤは与えてくれるかもしれぬ」


 しかしそこからが、ヤシェトであった。


「けれど、おれは受け取らない」


 エザンは胸の奥をかれた気がした。


「餌を与えてもらって肥えていくのは家畜のすることだ。やはり奴隷に違いない。アルヤに下れば結局飼われることになるのだ」


 この子はそれでもなお、古いイゼカの誇りを守ろうとしているのだ。


「おれはあのカズィ・ナディルという男を哀れに思った。あの男は恐らく自らの意志で草原を駆けることを知らないに違いない。風を読み、誇りだけを抱き、ただただ駆けていくよろこびを、あの男が味わったことはあるまい」


 ニルファルは一度「ヤシェト兄さん」と呟いてから地面に視線を落とした。


「でも……、それでは、腹が、膨れません」

「そうだな」


 ヤシェトが笑った。その笑みはけして優しいものではなかった。


「お前の言うとおりだ。おれの言うことは理想だな。父祖の営みを守っていたいという夢だ。だが、戦士の本懐だ。草原の狼として生きてきたおれたちの誇りだ」


 ナズィロフが呆れた声で「お前はもう黙れ」と言った。

 ヤシェトはもはやナズィロフを睨むことすらしなかった。


「何はともあれ、帰って皆に合流すべきだ。他ならぬアリムが、必ず全員の意見をまとめるように、と言っていたのだから。ここでこの面子めんつだけで結論をいてはそれこそアリムの言葉に反することになる」


 そう言いながら、ナズィロフはニルファルの肩を押した。馬の方へ行くよう促す。


「ヤシェト、ニルファル、お前たちの気持ちはよく分かった。特にニルファル――僕も正直なことを言えば、これ以上アルヤに抵抗する意義を改めて考えねばならないと感じている」

「ナズィロフ兄さん……」

「いずれにしても帰って皆の意見を聞いた方がいい。長老たちや女たちの話も聞かないと」


 ナズィロフに「そうですよね」と問われて、エザンは慌てて頷いた。

 ジガルも「応とも、おおせの通りだ」と答えた。

 若い者の切り替えは早くて良い。オルティもわざと明るい声で付け足す。


「そうそう、ここで思い詰めた顔をしていても悲観的になる一方。俺たちがこの目で見たことを皆に伝えたら案外簡単にまとまるかもしれんしな、女たちの話を聞く方が妙案の出る時もあるぞ」


 めいめい馬にまたがった。

 皆が山の下を向いて動き出そうとした。


 先頭を行こうとしたのはニルファルだった。


 警戒を怠ったのかもしれない。大切な次期族長は間に挟んでおくべきだったのかもしれない。


 あまりにも、突然すぎた。


 風を切る音を聞いた。

 それも一つ二つではなかった。左右からいくつもの音が空気を裂いて飛んできた。


 すでに体の重くなったエザンが動こうとする前に、事は動いていた。


 ニルファルの背に、突如何本もの矢が生えた。

 息が喉に詰まったような音が聞こえてきた。


「……う」

「ニルファル!!」


 それぞれが馬から下りた。

 あまりのことに自らの守りはまったく考えていなかった。ただただニルファルの傍へ行かねばならぬという気に走らされていた。


 ニルファルが手綱から手を離し地面に落下した。

 すぐさまナズィロフが抱え起こした。

 まだあどけない顔が人形のように真っ青になっている。血の気を失った唇が震える。


「ニルファル、しっかりしろ」

「兄さ……なに……」


 当人も何が起こったのか分かっていないらしい。

 エザンは痛ましさにうち震えたが、すぐさま腰帯にくくりつけていた小袋をひっつかみ、気つけ薬と血止め薬を取り出した。

 オルティが黒馬の背に水袋を積んでいたのを思い出し、「オルティ、水!」と指示する。

 返事する間もなく碗に入れられた水が持ってこられた。


 エザンが手渡した気つけ薬を、ナズィロフが口移しで飲ませる。

 ニルファルが激しく咳き込む。

 ニルファルとナズィロフの服の胸に赤い飛沫が散った。


 ヤシェトが蒼い顔で「どうしたらいい」と訊ねてきた。戦で傷を負う者の手当ては一応成人した戦士皆に教えてあるはずだが、緊急事態においてはやはり経験がものを言うのだ。

 焦ったオルティが「矢を抜かないと」と答えたが、エザンとジガルはそれを制した。


「薬が足りぬ、無理に引き抜いて肉を裂き多量に出血すれば死ぬ」


 ジガルが放った死という言葉に、ナズィロフとヤシェトが硬直した。


「まずは矢を折れ、矢尻は出そうなら摘まみ出すのだ、無理に肉を裂いて取ろうとしてはならぬ」

「だが体の中に矢尻が残ったら――」

「それもまた命を脅かすが、このような場で肉を断ってはそれこそ膿んでしまいかねん」


 オルティが手を伸ばし、短刀で切り込みを入れながら矢を折り始めた。

 振動がつらいのか、矢を引かれるたびニルファルが呻き声を上げる。

 見たくない光景ではあったが、目を背けるわけにもいかない。

 エザンは黒馬の背から毛皮を取り出してニルファルの体に巻き付けた。


「アルヤか」


 ヤシェトが怒りに震える声で呟き、先ほどオルティが地面に捨てた矢を拾った。

 彼の言うとおり、矢羽根はアルヤの軍旗と同じ色を――全体を蒼く染め、先だけを金に塗られたものを用いていた。

 矢が飛んできた角度も自分たちが来た方からだった。


はかったな……!」


 震える手が、矢を折った。

 拳の中から血が滲み出てきた。


 ニルファルは、口を開けたり閉じたりして、風が抜けるような息をしている。肺臓に達しているかもしれない。


 エザンは状況について深く考えることを放棄した。

 さらなる攻撃があるかもしれないという可能性を考えることはやめた。

 同時にどこから誰が射かけてきたのかも考えるのをやめた。


 幸か不幸かそれ以上矢は飛んで来なかった。

 それでいい。

 今はこれ以上論ずるべきではない。


「このまま一気に帰るぞ。アルヤに戻っていては如何いかな駆け足でも五日はかかってしまう。平原を一気に行けば遅くとも二日、そうでなくとも天が味方につけば南チュルカの部族に出会って助けてもらえるかもしれぬ」


 エザンの提案にジガルも賛同した。「それが一番だ」と言うと、「時は一刻を争う、すぐに支度しろ」と自らの馬にまたがった。


「オルティ、貴様は黒馬とニルファル殿の馬を引いて後から参れ、誰かの馬が潰れたらすぐに替えられるようにするのだ」


 オルティがニルファルの乗っていた馬の手綱を引いて「応」と答える。ジガルが続ける。


「ニルファル殿はエザンとナズィロフ殿が交替でお運びしろ、出来得る限り刺激せぬよう」


 返事をする前に、ナズィロフは当然とばかりにニルファルを抱いたまま馬の背に乗った。

 そして器用に手綱を繰り、馬を走らせ始めた。

 その目はまっすぐ帰路を見ていた。


 一方ヤシェトは後ろを睨みつけていた。

 矢を放った敵の姿を目で探しているようだった。

 しかし今はヤシェトに構っている場合ではない。

 エザンは彼に声を掛けずナズィロフの後を追い掛けた。

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