第18話 宴の席 2

 ややして笑いが抜けた頃、エルテバーティがカズィ・ナディルとナムザに何かを問い掛けた。

 カズィ・ナディルもナムザもエルテバーティの方を向いて何かを説明し出した。二人とも真剣な表情でアルヤ語を話している。


 エザンは眉間の皺をさらに深くした。

 通弁は彼らの会話を訳そうとしなかった。

 アルヤ語が分からないともどかしい。


 会話が途切れたところで、こちら側の面々が不審の目で見ていることに気がついたようだった。

 カズィ・ナディルが「大したことではない、気にするな」と言った。

 そんなカズィ・ナディルを、ナムザが「そのような言い方では誤解を招く」とたしなめた。


「卿は未婚の客人も見えられたことを不思議にお思いだ。何ゆえあどけない少年に山越えの苦難を強いるのか、先の族長には他に子がないのかとの問い掛けに、チュルカでは末の子が家督を引き継ぐ慣わしゆえ、族長に複数の子があっても世継ぎは成人しておらぬこともあり得る、と説明し申した。アルヤでは成人し結婚した長男が親から土地と家屋を譲り受けるのが慣わしにござれば、このような食い違いもござる」


 まったくナムザの言うとおりだ。

 それまで大人しく食事をしていたニルファルが、「そうだ」と声を上げた。


 隣のニルファルを見る。

 ニルファルは赤い頬で拳を握り締めていた。唇を引き締め、何を言うべきか考えているようだ。


 エザンとニルファルの間、一歩下がったところで、先ほどの小姓がニルファルを見つめている。

 彼とニルファルは同い年くらいに見える。

 だが、ニルファルは次の族長だ。


「ニルファル殿」


 声をかけると、ニルファルがエザンを見た。

 緊張のあまりか、瞳が潤んでいた。


 エザンは黙って頷いた。

 ニルファルはそれを合図に、頬を緩ませながら正面を向いた。


「お察しのとおり、イゼカ族族長タルハンが末子このニルファル、いまだ初陣も済んでおらぬ若輩者にございます。ですが、十五になればイゼカの長となる者です」


 出てきた言葉は明瞭だ。

 エザンも気持ちが緩んだ。

 末っ子として皆が甘やかしてきたと思ったが、族長となる子はやはり特別だ。


「まずは、わたしのような未成年の者も温かく迎え入れてくださったこと、厚く御礼申し上げまする」


 頭を下げたニルファルに、カズィ・ナディルとナムザが手を振って「何の、何の」「やむを得ぬことだ」と答える。エルテバーティとモラーイェムも、通弁の言葉を聞きながら穏やかな声を返した。


「それで、此度こたびの話にございますが」


 ニルファルは言葉を切った。

 途端不安げに眉を垂れ後ろを振り向いた。


 ニルファルの後ろには、ナズィロフがいた。

 ナズィロフもまた強張った面持ちでニルファルを見つめていた。

 けれど彼はこの末弟こそがまことの族長であるとわきまえている。

 余計なことは一切言わずに「申し上げなさい」とだけ告げた。


 ニルファルはすぐに前を向くことはしなかった。

 ナズィロフの次に、自分の横――アリムの顔を見た。

 アリムはなぜニルファルが自分を見たのか分かっていないのか、囁くように「どうした」と問い掛けた。


「あのね、アリム」

「ああ」

「言ってもいいですか」


 アリムが笑った。


「戦士アリムはすべてを族長の御心のままに」


 ニルファルも笑った。


 エザンは目尻に皺ができるのを覚えた。

 懐かしい光景であった。

 それは二十年以上も前から自分とタルハンが何度も何度も繰り返したことだった。


 もはやタルハンを失ったことについて嘆くことはない。

 今ここに、次の族長がいる。


 ようやく自信を持てたのか、ニルファルがアルヤ側の人々へ向き直り、宣言するように力強い声で語った。


「わたしは齢十二、皆の助力と助言に従いイゼカの総意をもって馳せ参じた所存ではありますが、イゼカの皆のさだめをこの場で断じるほどの力量はございませぬ。そこで、アルヤの皆々様には、まことに僭越ながら、猶予を頂戴しとうございます。わたしが成人する三年の後まで、イゼカ族の回答をお待ちいただきとうございまする」


 言い切った。

 やっと本題を伝えることができたのだ。


 ニルファルを抱き締め頭を撫でて褒めてやりたくなった。

 だが、この場では、と我慢する。

 それに、もはや、ニルファルは幼子でなくなった。

 彼はもうすでに族長だ。

 こちらこそ彼に対する振る舞いを改めねばなるまい。


 アルヤ側の面々が、互いに顔を見合わせた。

 エルテバーティとモラーイェムの顔からもとうとう笑みが消えた。

 おのずと息を飲む。しかしアルヤ語が分からないので、四人の協議を見守る他ない。


 時の流れが突然緩やかになったように思われた。

 言葉が分からないということがこれほど苦痛だとは思っていなかった。

 おそらくこちら側の皆は同じ思いでいるのだろう、背後から苛立ちも漂ってきたのを感じる。

 だが、誰も何も言わない。

 エザンには分かりかねた。

 何も言わないのははたして、分別があるからだろうか。それとも、能力がないからだろうか。


 イゼカの一行の意向を汲んだのか、協議には参加せずずっと黙って見ていた通弁が、アルヤ語で四人に何か話し掛けた。

 アルヤ人の二人が言う前に、カズィ・ナディルが言った。


「お前、今モラーイェムが言ったことをそのまま奴らに伝えられるか?」


 通弁が押し黙り、恨みがましい目でモラーイェムを見つめた。

 モラーイェムが肩をすくめた。そしてちょっと笑って何事かを告げた。

 通弁が何かを答える。

 今度はエルテバーティが笑って手を振る。


 カズィ・ナディルがアルヤ語でエルテバーティとモラーイェムに何かを言ってから、通弁とナムザに向かって「いい、俺が話す」と宣言した。


 その一連の流れを見た時、エザンはようやく悟った。

 アルヤ側が用意する通弁は皆偉そうな言葉遣いをするので、ずっと不快に思っていた。

 きっとそう振る舞うようしつけられているだけだ。根は戦士の魂を理解するチュルカ人の青年だ。


 アルヤ人たちは戦士の誇りを愚弄するようなことを言ったに違いない。


「今俺は、チュルカ人として、モラーイェムが言ったことこそアルヤの総意と見たので、それをそのまま貴様らに包み隠さず伝えてやろう」


 カズィ・ナディルが言いながらこちらを向く。

 こちら側だけでなく、通弁やナムザも姿勢を正して、わずかに体を強張らせる。


 頭の中で早鐘が鳴るのを聞いた。

 落ち着いて聞かねばなるまい。

 それでも交渉の余地はある。

 問題は、こちら側の誰かが混乱してつかみかからぬか否かだ。そうなってしまった場合はそれこそお終いだ。


 カズィ・ナディルはエザンが心配していたこととは違うことを告げた。


「猶予を与えることについては問題ない。周辺と切迫した国交状態にあるわけではなく、イゼカ族以外のチュルカ人部族を多数吸収したところで、その整備が済んでから改めてイゼカ族を迎え入れ再編成するというのもけして悪くはない。また、いくら次期族長と言えども確かにまだ数え十二の小僧ではとても頼りない」


 ナムザが隣で「カズィ・ナディルが怒りに任せて引っ掻き回してしもうたゆえ、立て直しも図らねばなるまい」と補足した。カズィ・ナディルは反省の色なく「戦力の半減した部族を取り込んでも仕方がないものな」と言い放った。


「したがって、アルヤ側としては、三年でも五年でも待ってやらぬことはない」


 「ただし条件がある」と彼は続けた。

 それこそが重要であろうと、エザンは身構えた。

 ニルファルは少し前のめりの姿勢になりながら、「何です、お聞かせください」と訴えるように言った。


 そこで初めて、カズィ・ナディルが口ごもった。

 今まであれだけ堂々と振る舞っていた彼がと思うと、さらなる緊張が襲った。


「アルヤ側からしても、チュルカ側とは金の介在する付き合いだ。心からの信用はできない。ましてアルヤの軍備は機動力に劣る。貴様らが三年かけて軍備を増強し他の部族を巻き込んだり外国と手を組んだりして襲ってくることはない、という、保証は、ない――とこいつらは考えている」


 とうとうこらえ切れなくなったらしい。こちら側から「そのようなこと」「まことの戦士が約束をたがえるか」という苦情の声が上がった。

 「分かっておる」と制したのはナムザだ。そして「だがアルヤ人に左様さようの理屈は通用せぬ」と言う。


「ど……、どのように、したら、よいのですか」


 ニルファルが訊ねる。

 その声からは先ほどの気迫が消えていた。


 カズィ・ナディルの目は、いったい何を意味していたのであろうか。

 アルヤ軍人として、イゼカ族の境遇を憐れんだのであろうか。チュルカ出身者として、アルヤ人の奸佞かんねいな性質を嘆いたのであろうか。


「貴様らが裏切ることのないよう、人質を置いていくように、と。貴様らが少しでもアルヤに反すると思われる振る舞いをすればその者の首をねると――そうして貴様らの行動を制限することができるのであればよい、と言っている」


 まるで時が止まったようだった。

 しばしの間、誰も話さなかったし、誰も動かなかった。

 イゼカ側どころか、アルヤ側もだ。互いを見合ったまま、互いに互いの反応を待っていた。


 エザンは、何を言われたのか、すぐには呑み込めなかった。

 ややして、人質、という言葉が頭の中に繰り返し響いた。

 それは取り返しに来たものではなかったか。そのために来たというのに、それを置いて帰れと言われたのか。


 エザンが混乱しているうちに、若い頭は動いたようだった。

 沈黙を打ち破ったのはアリムの声だった。


「それは期限のないものか?」


 アリムの問い掛けに「否」と即答したのはカズィ・ナディルだ。


「イゼカ族がアルヤに下るか、それとも別の形でアルヤにはけして背かぬという誓いの証を見せるか――いずれにしてもその小僧が成人しイゼカ族が今後どうなるか確定するまでのつもりでいるはずだ」


 そこまで言ってから、カズィ・ナディルは自分で「違う」と訂正した。


「俺がそうさせる。それ以上チュルカの戦士を愚弄するのは俺が許さない」


 通弁は忠実にもそれをアルヤ語にしたようだった。

 エルテバーティが身を乗り出し、険しい表情でカズィ・ナディルに何事かを訴えた。


 制したのは、意外にも、モラーイェムだった。

 モラーイェムは、エルテバーティの前に手を出し、おそらく下がるよう促したのであろう、アルヤ語でたしなめるような素振りを見せた。

 エルテバーティは納得していないのかもしれなかったが、ともかく元の位置に戻った。


 モラーイェムがカズィ・ナディルに何かを耳打ちする。

 カズィ・ナディルが溜息をついてから頷く。


「モラーイェムはそれでいいと言っている」


 アリムが「信じていいのだな」と確かめた。

 カズィ・ナディルが「誓う」と断言した。


 止めなければ、と思った。


「ならばこちらとても問題ない。俺がこのまま残ろう」

「アリム!」


 名を呼ぶと、アリムが苦笑して振り向いた。

 その表情はタルハンをうしなったあの夜同様ひどく大人びていて、エザンは恐怖さえ覚えた。


「何を、何を言っているのですかアリム」


 ニルファルが震える手を伸ばす。

 アリムの服の袖をつかむ。

 声にはすでに涙が滲んでいる。


「ぼくたちはアリムを連れ戻しに来たのですよ。アリムを連れて帰るために」

「ニルファル、泣いてはいけない。お前は族長だろう?」

「アリムを置いて戻ることなどできません。そんなことなど」


 後ろからオルティとナズィロフも身を乗り出す。


「お前以外の誰がイゼカの若衆の長を務めるんだ、お前以上に信頼されている者などいないぞ」

「阿呆、オルティ、お前がやれ」

「デニズの義姉上はどうするのです、赤子が生まれますよ」

「馬を覚えるまでには帰れるだろう、それまではナズィロフが見ていてやってくれないか」


 できることなら叫びたかった。

 目の前にある料理の皿を引っ繰り返して、アルヤ人どもを薙ぎ倒し、馬鹿馬鹿しいと言って帰ってしまいたかった。


 頭の中に突如小さなこどもが出てきた。

 彼は母親が裾を詰めた袴をはいて自分よりもずっと大きな仔馬の手入れをしていた。寒さのためかはなを垂らしているが、自分の馬が手に入ったことを真剣に考えているらしく、仔馬の手綱をしかと握っている。


 ――熱心だな。


 声をかけると、彼は首肯した。


 ――だってオレがのるんだもの。

 ――お前に乗りこなせるのか?

 ――できるぞ。オレもセンシになるんだからな。ウマぐらいのれなかったらこまるだろう。


 エザンは笑って彼の頭を撫でた。


 ――そうか、アリムは戦士になるのか。


 男の子も笑って答えた。


 ――うん。オレもな、とびっきりつよいセンシになってな、かあちゃんやみんなをまもるんだ。


 あの頃から、何一つ変わらない、と思っていた。ずっと、体格ばかりが良い、大人しい子だと思っていた。


「俺が残る。皆は帰ってこのことを伝えてくれ。それからイゼカ全員の意見をまとめてくれ。必ず全員の意見を」


 彼はいつ、おとなの戦士になったのだろう。


「ニルファルならば、できるだろう。俺は、ここで、待っている」


 変わっていないのかもしれない。

 何一つ変わらず、ただ、イゼカの戦士として家族や部族の仲間たちを守るという意志だけを胸に生きているのかもしれない。

 だからこそ、迷いなくこんなことを言うのかもしれない。


 ニルファルが声を上げて泣き出した。きっと自分の言ったことがこんな結果を招くとは思っていなかったのだ。

 腕を伸ばしアリムに縋ってただただ号泣する。

 アリムは苦笑して「こら、こら」と言うばかりで、拒むこともなければ、撤回することもなかった。


 本当はエザンもニルファルと同じように振る舞いたかった。

 たった一人の息子だ。自分のすべてを注ぎ込んで戦士に育てたつもりだ。今や自分より立派な戦士に育った息子なのだ。

 あるいは、できるならば代わりたかった。彼こそ帰って彼の母親や妻子を守るべきだ。その方がエザンもトゥバも安心するだろう。

 だが、戦士であり父親である自分が、戦士であり息子である彼の決意をろうするのか。


 戦士とは、何だ。


「……アリム」


 声は、震えていたかもしれない。けれど誰もそうとは言わなかった。

 ただアリムだけがエザンをまっすぐ見ていた。


「何だ」

「何か、家の者に伝えておきたいことはあるか」


 アリムは満足げに微笑んだ。


「特にない」


 そして「ただ」と一つだけ、付け足した。


「お袋の作った飯を食いたい」

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