第12話 娘たちの戦い

 タルハンの弔いの支度を残った者たちに任せて、一時の休息のために自宅へ戻ってきた時のことであった。


 天幕ユルタの外でザリファが羊を解体していた。


 エザンはつい苛立ち交じりの声で「何をやっとるんだ」と言ってしまった。

 非常事態で誰も彼もが忙しくしているというのに、うちの娘だけが何の手伝いもせず自分の家の食事を支度している、というのが、許せなかったのだ。


 ザリファが鼻をすすりながら顔を上げたのを見て、我に返った。

 母に似て気丈な彼女がこんな顔を見せるなど、滅多にないことだ。


「見てのとおりよ。羊をね、夕飯に出そうと思って」


 落ちてきた髪を払おうと手の甲で頬を拭った。

 固まり始めて粘り気のある赤黒い液体が、彼女の頬広くついてしまった。


「昨日の夜のでたくさん死んだから……、せっかくだから、どうにか、ちょっとでも、食べて……、食べてもらって、ナズィロフ様に元気になっていただかないと」


 エザンは黙って頷いた。

 ザリファは目を逸らして、しばしの間喉を詰まらせていた。


「しかし、なんだ、その……、道理で見掛けぬと思ったら、ナズィロフは帰っておったのか」

「ええ。それで、言うのよ。僕が行くべきだったのに、僕こそが族長の息子だというのに? 馬鹿馬鹿しいわ、情けない」


 それこそ本来のナズィロフらしい言葉だと思う。

 族長の長男として生きてきた歳月が彼にそう言わせたに違いない。彼は少し責任感が強すぎる。


 「いまさらそんなことを言っても仕方がないのに」と、ザリファがいきどおる。


「馬鹿兄貴がナズィロフ様を差し出して帰ってきていたら、今頃わたしが馬鹿兄貴を張り倒しているわよ」


 容易に想像できた。

 思わず笑ってしまった。

 そして、こういう時だからこそ、こういう笑いも必要だと思った。

 ザリファのおかげで目が覚める思いだ。ザリファは良い女に育っている。


「そんなに心配しなくても、お腹が空いたら帰ってくるに決まっている。あの人にそんな繊細な神経などありはしないんですからね」


 エザンは笑いながら「まったくだ」と頷いた。


 だが、ザリファは次に、わずかに声を揺らした。

 続く「母さんも」という声が、弱々しく響いた。


「朝からずっと、アリム、アリム、アリム……。母さんこそ、兄さんは死んだのではないんだから」


 ついつい、手を伸ばしてしまった。

 幼い頃してやったようにザリファの頭を撫でた。


「そうか。お前だけが普段どおりでおるのだな。強いぞ、ザリファ。お前とて兄が心配だろうに、イゼカの女として立派だ」


 十六の今にそんな扱いを受けるのが照れ臭いのであろうか、ザリファは赤い頬で外を向いた。


「心配など、してなんかいませんよ。兄さんなんか勝手にすればいい」


 言いつつ、頬に涙の雫を落としている。

 口では憎まれ口を叩くが、普段はとても仲の良い兄妹だ。アリムは年の離れたこの妹も可愛がっている。ザリファもあの腕の立つ兄をたのんでいる。


「どうせ、すぐに帰ってくるんですから」


 エザンは大きく頷き、あえて「そのとおりだ」と口に出して言ってから、ザリファの頭より手を離した。

 「夕飯を頼んだぞ」と告げ、天幕ユルタの中に入った。


 中に入ると、意外にも、デニズとナズィロフが二人で身を寄せ合っていた。

 一瞬面食らったが、背中を向かい合わせで密着させている様子は、男女というより姉と弟のようである。

 デニズは実家に弟が二人いたらしいことを思うと、そう不自然でもない。それぞれ気持ちが参っているゆえに違いない。

 二人とも、エザンが入ってきたことにすぐ気づいたようだが、強いて離れようとはしなかった。


「あら、お義父様。お帰りなさいませ、今日は戻られないかと思っておりましたが」


 デニズがそう言い、手を止めた。

 何やら繕い物をしている。ナズィロフの服のようである。


「お前がナズィロフの服を繕っておるのか」


 暗に、そういうことは本人か本人の嫁であるザリファにやらせろ、と言ったつもりだった。

 デニズは微笑んで「ええ、ザリファさんが羊の下ごしらえをしてくださると言うので」と答えた。


「婿殿にいつまでも穴の開いた服を着せておくのは胸が痛むではありませんか」

「それはそうだが、しかし――」

「いいのです。アリム様は、切られた服のまま、アルヤに行ってしまわれたのですから。今繕うべき服は、ナズィロフ様の服しかないのです」


 久しぶりにデニズの穏やかな笑顔を見た。最初の子を亡くして以来失っていたものを取り戻したかのようだ。


「何かをしていた方がいいのです。働かせてください」


 二人のすぐ傍に座り込む。デニズがふたたび針と糸を手に取る。


「すまんな、デニズ」

「はい? 何がでございましょう」

「俺はお前を見くびっていたようだ。お前は戦をいとうておったからな。このようなことになった今、お前が一番取り乱しておるに違いないと思っておったのだ」


 エザンの顔を見ることなく答える。


「戦は嫌いです。今も怒りや戸惑いがないと言えば嘘になります」

左様さようか」

「ですが、夫が留守だというのに、妻が甘えているわけにはまいりませんでしょう」


 エザンは思わず唸った。


「アリム様がいらっしゃらないからこそ、私はしゃんとしなければ。それこそ、アリム様が心配なさるといけません。留守中私が夫の顔に泥を塗っていたとも思われとうございません」


 女とは強い生き物だ。女の強さは時として男の強さをはるかに凌駕するのだ。思い知らされた。


「それに――聞いた話から想像する限りでのことですが、いずれにせよ、あの人ならこうしたと思うのですね。たとえ私が止めても――誰が止めても、それこそ、ナズィロフ様や、他の族長のお子たちが何とおっしゃっても」


 おそらく、ナズィロフとザリファが夫婦喧嘩をした場にデニズも居合わせたのだろう。二人の会話から状況を察し仲裁に入った彼女の姿が頭に浮かんだ。


「あの人はそういう方ですもの。ですから、仕方がないのです。あとは、ザリファさんの言うとおり。きっとそのうちひょっこり戻ってくるでしょうから、私は落ち着いて家事をしながら待っていようと考えております」


 また一度微笑んで、「戻られた時に、これから子が生まれるという時に勝手なことをして、と叱るくらいのことはするかもしれませんけれどね」と付け足した。そんなデニズは美しく、エザンはこの嫁も愛しく思った。


 そして思うのだ。

 自分は、家族の皆にまで無理を強いることになってしまった。


「――申し訳ありません」


 デニズの話の切れ目がちょうどいいところで、ナズィロフが小声で切り出す。


「取り乱したのは僕の方ですね……みっともない」


 普段の落ち着きが戻ってきている今こそ、そうは言っても彼もまだ年長者の手が要る数え十八の青年であることを痛感する。


「後からこんなに喚いたところで何にもならないと、頭では分かっているのに……ニルファルはまだこどもなんだから僕がしっかりしないと……まして今はアリムもいないんだ」


 エザンはおもむろに首を横に振り、「理屈と感情が別であるのは当たり前のことだぞ」と、囁くように言った。

 デニズも手元を見たまま「そうですよ、貴方あなたがそんなことを言っていると知ったらそれこそあの人は落ち込みますよ」と言う。

 だが、ナズィロフからの返事は戻らない。

 自分で自分を許せないのだろう、膝を抱えてとうとう黙り込んでしまった。


 先ほどザリファにしたように、ナズィロフの頭へ手を伸ばした。

 髪を撫でる。

 そう言えば、ナズィロフは大人びているからと、小さい頃から考えてみてもこんな扱いをしたことはなかった。もしかしたら初めてかもしれない。

 ヤシェトやニルファルにはあるのに、と考えると、ナズィロフも今くらい甘えてほしいと思う。


「謝らねばならんのは、俺だ。デニズも、ナズィロフも。すまなんだ」


 守るべき人々を、泣かせ、強がらせ、傷つけ、自らを責めさせている。

 こういうことのないように、自分は戦士として生きてきたはずだった。

 今や戦士としてどころか、この家を率いる者としても、自分は最低限の務めも果たせずにいる。

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