第11話 ニルファルの思い描く未来

 ニルファルがしゃくり上げている。

 その頭を、目頭に涙をたたえたトゥバが撫でている。

 ニルファルがまだ五つ六つだった頃にはよくある光景だったが、この五年ほどでは初めて見る気がする。

 否、もしかしたらまるっきり初めてかもしれない。

 トゥバは強い女だ。

 彼女がこんなに憔悴しているところなど、彼女と連れ添って二十数年のエザンも見たことがなかった。二人目の子が流れた時でさえ会話くらいはできていたはずだ。

 そしてそう思えば思うほど、無力感にさいなまれる。


「お前のせいだ」


 呪いの言葉が紡がれた。

 顔を上げた。

 ナズィロフが、柱に背をつけ、膝を抱え身を縮ませた状態で、こちらを睨みつけていた。


「父上やみんなはお前のせいで死んだんだ」


 こちらを――正確には、エザンの隣に座り込んでいるヤシェトを、だ。


「お前の軽はずみな行動がみんなを殺したんだ……! 父上はよせと言ったのに、お前が父上に――長に背いたから」


 ヤシェトはすぐには言い返さなかった。目を丸く見開いて兄の言葉を聞いていた。


 代わりにナズィロフをなだめたのは、タルハンの体を清め着替えさせていた部族の女たちだ。いずれもトゥバと同じ世代でナズィロフよりも年上の子がいる女である。

 相手が族長の息子でも容赦ない。口々に「おやめなさいな、お父様の前でそんなこと」だの「こんな時に兄弟喧嘩などしなさんな」だのと浴びせかけてくる。


 ナズィロフも負けない。女たちにたしなめられても「こんな時だからだ」と言い返した。


「ニルファル」


 突然名前を呼ばれて、ニルファルが驚いた顔をした。


「この裏切り者を追い出せ」


 その場にいた誰もが絶句した。

 ナズィロフ一人だけが立ち上がった。

 堂々たる振る舞いはまるで彼が族長になったかのようだ。


「追放だ。イゼカ族を危機に陥れ幾人ものとが無き人々の命を奪った者をこの中に置いてはおけない。ニルファル、お前が族長の名の下にそう宣言して追い出すんだ」


 女たちが唖然とした顔でナズィロフを見上げた。

 いったい誰が温厚で弟想いの兄だった彼からこんな言葉が出ることを予想しただろうか。


 ナズィロフの目は真剣そのものでありながら狂気を孕んでしまったようにも見えた。このままだと彼は本気でそれを実行させかねない。


 しかしその気持ちを鎮めるすべは見当たらない。


 今のエザンに分かるのは、ナズィロフとヤシェトを離して座らせて正解だったということだけだ。

 ナズィロフとヤシェトの間にはタルハンの冷たい体が横たわっており、さらにその周りを女たちが囲んでいる。二人がすぐに取っ組み合うことはできない。


 ニルファルが困惑した声で、「ナズィロフ兄さん」と兄の名を呼んだ。

 彼が口を開いたのに応じて、トゥバが自らの手を退ける。

 一度息を呑む。


「あの……、今までの話は、どこまで本当なの」


 視線を落とし、小さな声音で「ぼくはその、アリムに言われたとおり、隠れていただけだから……」と付け足した。

 彼は隠れていたことを恥じているらしい。

 だが、彼以外の誰もがアリムの判断もそれに素直に従ったニルファルの判断も正しいと思っていた。

 今のニルファルは儀式をしていないだけですでに族長と同じだ。ニルファルまで不具の身になったり万が一のことがあったりしては、今よりももっと収拾のつかないことになっていただろう。


「ヤシェト兄さんが、あの、アルヤの偉い人を殺しただなんて……だから、アルヤの雇われチュルカ兵が復讐に来ただなんて――そんなこと、突然言われても――」

「すべて事実だ」


 ニルファルの迷いを断ち切る勢いでナズィロフが断言する。


「お前も憶えているだろう? アルヤの男たちが来た日に、こいつがどんな風に振る舞ったか」


 そこで初めてヤシェトが声を上げた。


「違う」


 ナズィロフが冷たく「何がだ」と切り返す。

 ヤシェトが拳を握り締め、下からナズィロフを睨むように見上げて「おれではない」と訴える。


「おれはそんなことなどしていない……! おれはけして闇討ちなど」

「では他に誰が?」

「知るか! アルヤの連中の言いがかりではないのか? イゼカの戦士がそんな卑怯なことをするわけがないんだからな」

「だが証言しているのもチュルカ人なんだろう」

「弟のおれよりアルヤのいぬになった連中の言葉を信用するのか!?」

「いずれにせよお前が余計なことをしなければ父上は死ななくて済んだしアリムも連れていかれずに済んだんだ!」


 耐え切れなかった。


「やめんか」


 エザンの一声に反応して、二人ともがこちらの方を見た。

 エザンはそれにわずかばかりの安堵を覚えた。二人ともそこまで我を失っているわけではないのだ。


 一度深呼吸した。


 本当はこのような場で発言するのは得意なことではない。けれど今は自分の他に人がいないのだ。今こそ自分が二人を諫めねばならないのだ。


「イゼカ族の将来の根本を考え直さねばならぬという時に、族長の子らが喧嘩をなさってどうする。タルハン殿もビビハニム殿も今の剣幕を御覧じていたら何とおっしゃるか」


 二人が同時に「でもこいつのせいで」「だが兄貴は」と言った。

 「黙られよ」と一喝して床を叩いた。

 ヤシェトが視線を逸らして、ナズィロフも苦虫を潰したような顔でふたたび座り込んだ。


左様さようなことはここで論じても言った言わないの不毛な論議になるに決まっておる。今は暮らしを立て直すために内を向くべき時、そうであるからこそいち早く外の患いを断つべき。つまり我々が今ここで話すべきこととは、族長の遺志を継いでアルヤと平和裏に和解しなるべくイゼカ族に有利な形で話をつけるためには、如何いかにすべきか、ということ。違うか」


 ナズィロフが「違わない」と言って首を横に振った。

 ヤシェトはまだ納得がいっていない様子だが、それでも今は大人しく黙り込んでいる。

 エザンは肩から力を抜いて、「ならば兄弟喧嘩はなさらず、これからの話をなされい」と言って一度まとめた。


 タルハンの静かな顔を眺める。

 真っ青だが、穏やかだ。彼なりに満足しているに違いない。

 そう思うとなおのことこの兄弟にいさかいをさせている自分が情けない。


 ややして、小さな呟きが聞こえてきた。


「それにねぇ、坊ちゃん方」


 いつになく弱々しい妻の声を聞き、エザンは、胸の奥に締め付けられるような苦しみを覚えた。


「うちのアリムは死んじゃあいないでしょ」


 声が、震えている。


「うちのアリムは死んじゃあいないんですから、どうかそんなお顔で言わなさんな……」


 今度こそ、ナズィロフもまた今にも泣き出しそうな声で「すみません」と言った。トゥバはそれ以上、何も言わなかった。


「エザン」


 ニルファルがこちらを向き、縋るような目で言う。


「エザンの言うとおりです。ぼくはアルヤに行きたいです」

「ふむ」


 何となく相槌を打っただけのつもりであったが、エザンが頷いたことに安心したのか、ニルファルの声は力強さを増した。


「それでアルヤと同盟を結びます。イゼカ族は今や戦などできぬ状況です、まして兵を出してアルヤに使役するなどもってのほか。いずれ来るべき時に――十年後でも、五年後、いやぼくが成人したらでもいいです、改めて話し合いをさせてほしいと、それまでイゼカはけしてアルヤを裏切るような真似をしないからと、返答の期限を延ばしていただくんです」


 最後、ニルファルはまたもや自信のなさそうな声で「今のぼくでは……何も決められませんから……」と付け足した。

 けれど、エザンは、ひげの下で小さく笑みを作り、「結構にござる」と答えた。


「エザンも武人でまつりごとの類は苦手でござるゆえ、妙案はなかなか浮かばぬ。ニルファル殿が族長として経験を積み他の部族との交流に慣れれば、新たな知恵を授かるかもしれぬ」


 肯定されて安心したのか、彼は一瞬表情を緩めた。


「それにな、いつだかタルハン殿から、そういうものは何でもない時に突如浮かぶものと聞き申した。時間を頂戴するというのは、良きことにござろう」


 父の名を聞いた途端また大きな目に涙を浮かべ始めた。痛々しい姿に見ていられなくなって自然目を逸らす結果となってしまった。


「あ……あの、あの、エザン」


 鼻をすすりつつ、ニルファルが言葉を紡ぎ続ける。


「情けないかと思われるかもしれません――こんなことでは、立派な戦士に、立派な族長になれないと思われるかもしれません。でも、あの、まだ成人の儀を終えていないこどもが言うことだからと、大目に見て、聞いてほしいことがあるのですが、いいですか」


 エザンは「お聞きしとうござる」と言い、深く頷いた。

 ニルファルは素直な良い子だ、彼から長所を奪ってはならない。

 まして彼はたったの数え十二で父母のない身となってしまったのだ。自分たち夫婦が甘やかしてやらずにいったい誰が彼を慰められようか。


 そう思ったのに、


「父上は、本当に、心から、エザンを信頼していました」


 まさかエザンの方が、


「父上は――エザンが、父上を、信じてくれるから。エザンが、父上を守って、助けてくれるから。族長として、何があっても大丈夫だという顔をしていられるのだ。と、言っていました。エザンは、父上がこどもの頃から、父上を大事にしてくれた、と。今も、そして、これからも。何があってもエザンだけはきっと父上と一緒に心からイゼカのことを考えてくれる、と」


 言葉が出なくなった。


「だから、ぼくが族長になった時、困ったことがあったら、エザンを頼りなさいと言われていました。父上はこの世にいないかもしれないから、エザンを第二の父と思って頼りなさい、と」


 タルハンがそんなことをニルファルにまで語り聞かせていたとは、夢にも思わなかった。


「あと……、自分で自分のためにそういう人を見つけなさいとも言っていました。エザンは父上の世話役で、父上がさんざん迷惑をかけてきてしまったし、戦士としての現役も長くはないだろうから」


 とっさに首を横に振り、「迷惑などと思ったことは一度もござらぬ」と言った。

 ニルファルはそれすら予測していたのか、泣きながら小さく笑った。


「よくよく考えたのですが、ぼくにとっては、きっとアリムなんです」


 今度はトゥバが目を真ん丸にしてニルファルを眺める。


「アリムは、ぼくが赤子のうちから面倒を見てくれたし、きちんと叱ってくれるし、今回だって、誰よりも先にぼくを気にかけ、守ってくれました。ぼくには実の兄が二人もいるけれど、アリムも、実の兄のような、エザンが第二の父ならばアリムが第三の父であるような――とにかく、ぼくは、これから先、ぼくが族長としてやっていくために、アリムが必要だと感じるんです」


 頬に透明な涙が零れる。


「早くアルヤに行ってアリムを取り戻したいのです。アリムがいてくれれば、ぼくは族長として頑張れます。だからエザン、一緒にアリムを取り返しに行ってください。アリムの父であるあなたにこんな風に頼むのはちょっとおかしいかもしれませんが、本当に、お願いです」


 十年前のことが頭の中をかすめた。

 小さなニルファルを抱いてアリムは嬉しそうにしていた。

 もちろんアリムはニルファルだけでなくナズィロフやヤシェトのことも可愛がってはいた。

 だが、一番小さなニルファルのことを格別に思っていた。


 ナズィロフを見た。

 彼は三兄弟の中では長男だが、同じようにアリムが子守をしていたので、やはり、アリムを兄のように慕ってくれているのかもしれない。

 長男であるからこそ、アリムが不在の今を誰よりも不安に思っているのかもしれない。


 ヤシェトを見た。

 彼も例外ではなかろう。

 昔からやんちゃで悪戯が過ぎる彼をまともに構う年長の子供はあまりいなかった。成長した今だからこそ取り巻きができたが、一時は遊び相手もアリム以外にいなかったくらいで、アリムだけが根気強くヤシェトの世話をしていた。ヤシェトもアリムに叱られた後だけは素直に反省するのだ。


「エザン、ニルファルの言うとおりにしましょう。アリムは――義兄上は今後のイゼカに必要不可欠な人です、すぐにでも戻ってもらわないと」


 ナズィロフが何かを決意した目でそう言った。

 エザンは、「かしこまり申した」と、大きく頷いた。

 今後のイゼカ族以前に、この三兄弟にとって、アリムは必要不可欠な存在だ。

 このままにしてはおけない。

 自分が導かねばならない。


「今宵タルハン殿の弔いをし、明日天へつのを見送ったら、拙者もすぐアルヤ王国へつ所存。同行の者も今から人選し一夜で支度させ申す。ニルファル殿、ヤシェト殿、ナズィロフ、そなたたちも父君の弔いが済んだら即刻出掛けられるよう支度をなされよ」


 ニルファルが「はいっ!」と大きな声で返事をした。

 ヤシェトも「おう」と言って頷いた。

 そんな二人の様子を見て、エザンは宣言どおり支度を始めるため立ち上がろうとした。


 ナズィロフは素直に従ってはくれなかった。


「ヤシェトも連れていくのですか」


 言い終わるか否かの辺りでヤシェトがナズィロフを睨みつけた。

 当たり前のようにナズィロフは睨み返した。

 エザンは溜息をついた。


「まだそのようなことを――」

「犯人だと決めつけて言っているのではありませんよ。ただ、我々の目の前できっかけとなる出来事を作ったのは事実でしょう? またああいうことを繰り返されたら困ると思ったのです」


 ナズィロフの言うことももっともだ。

 ヤシェト自身も拳を握り締め悔しそうにするばかりだ。文句を返す余裕もないらしい。

 だが、


「お連れする」

「エザ――義父上」

「ネガフバーンとやらがまことに真っ当な交渉を望んでいたならばヤシェト殿ご自身で謝罪をした方が効果的というもの。お連れして顔を見せれば、濡れ衣も晴れぬかもしれん。まあ、アルヤ人こそ信用にあたわぬ、どこまでが嘘でどこからがまことかなど分からんが――いずれにせよ、ヤシェト殿もこれで学ばれたであろう」


 反論の種は見当たらないのか、ナズィロフは「義父上はヤシェトに甘過ぎる」と言って外を向いてしまった。

 ヤシェトは何も言わなかったが、強張っていた肩から力が抜けていくのは見て取れた。

 今はそれで充分だ。

 エザンは苦笑した。


「では、拙者はおきなどもに話を通してくる」


 そう言って今度こそ立ち上がり、天幕ユルタの出入り口へ向かった。

 他の面々は皆天幕ユルタの中に残ったが、それから先不穏なやり取りが聞こえてくることはなかった。

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