第10話 炎の夜 2

 その時だった。


「失礼つかまつる!」


 低く鋭い声が割って入ってきた。

 イゼカの戦士たちはそれをすぐに聞き分けた。

 チュルカ平原出身のアルヤ軍兵士たちも、その声の主がどんな存在の者か察したのだろうか。本来は敵であるにもかかわらず、声の主のため身を引いて、大人が一人分通れる道を作った。


 肩で息をし、こめかみから鈍い色の液体を流しながら真ん中へ走り出てきたのは、案の定、族長タルハンだった。


 エザンは今ほど焦燥しきったタルハンの顔などいまだかつて見たことがない。


「我が名はタルハン! 我こそがイゼカ族族長タルハンなり!」


 タルハンも傷ついていた。

 姿を現したその一瞬には気づかなかったが、声を張り上げた次の時彼が表情を歪め右手を伸ばしたため分かった。

 左腕がなかった。

 左の肘辺りで腕が途切れている。

 あれでは手綱を引けない。弓も二度と引けない。

 彼は戦士としての命を絶たれた。


 だがそれでも、二本の足で地を踏み締め腹から声を振り絞る姿は、誇り高きイゼカの戦士たちを二十年にわたって率いてきた族長のものだ。


 周囲の男たちは皆微動だにしなくなっていた。タルハンの一挙手一投足を見守っているようだ。

 彼らもチュルカの魂を忘れていない。戦士の中の戦士に対する礼とは何かを知っている。

 そしておそらく、この誇り高き魂が彼らの思うやり方で人をあやめるものではないことにも、気づいている。


「親父っ」

「父上!」


 彼の息子たちがそれぞれに彼を呼んだ。

 けれど彼はそれに答えず、ただただまっすぐに黒い甲冑の男を見ていた。


「貴殿が大将か」


 睨むように見つめたまま、一歩ずつ大地を踏み締め、こちらへ寄ってくる。

 それ以上の速度は出るまい。流れ出た血が多すぎる。

 支えなければならない――エザンは腕を伸ばした。

 ほぼ同時に、息子たちも本格的に走り寄ってきた。

 エザンの腕が届くより先に、アリムがタルハンの右肘をつかんで「族長」と呼びかけた。

 タルハンは首を横に振り、「大丈夫だ」と告げた。その横顔からはわずかな笑みさえ見て取れた。

 ナズィロフがアリムのすぐ後ろで「父上」と呼んだ。

 泣きそうな声だった。

 タルハンはやはり苦笑して、「馬鹿者、黙っておれ」と囁くように答えた。


「貴様が族長なのだな」


 黒い甲冑の男がそう問うて確かめてくる。

 タルハンがアリムの手を払い除けるように離させてから「如何いかにも」と応じる。


「かような混乱が生じたのは、すべて、イゼカの民を統べきれぬ我がとがだ。まだ若き子らは許したまえ。何とぞご慈悲を垂れたまえ」


 イゼカの戦士たちが衝撃ゆえに喉を詰まらせ肩を強張らせた。

 馬上の男がふたたび剣を構えた。

 宙を舞っては散りゆく炎の光を反射して、その刃もまた瞬くように輝いた。


「良かろう。この俺が貴様の族長としての覚悟を受け取る」


 とっさの言葉が出なかった。

 タルハンと黒甲冑の大将だけが、静かに、緩やかに、穏やかに動き続けていた。

 他は皆凍りついていた。

 炎の爆ぜる音と馬のいななく声が遠くに聞こえた。


 タルハンが振り向いた。

 目が合った。

 その口元はわずかに微笑んでいた。安らかだ。


「エザン、アリム、息子たちを頼む」


 それだけだった。

 タルハンはすぐに前を向いた。

 ヤシェトやナズィロフには何も言わなかった。エザンとアリムの返事を待つこともなかった。


 刃がひらめいた。

 男の腕は一流の戦士のものだった。太刀筋はたった一太刀でエザンにそうと思わせるほど速くまっすぐで美しいものだった。平原を捨てアルヤに魂を売り渡した連中だからといって侮ってはならないことを痛感させられた。


 袈裟けさ掛けに斬られて、タルハンの胸が裂けた。


 タルハンの後ろでヤシェトを庇っていたエザンには、弾けて左右に広がる血飛沫しぶきの模様が見て取れた。

 向かって右手で突っ立っていたアリムとナズィロフの顔や服に、血液が点々と降り注ぐ。ナズィロフの表情が次第に引きつり絶望に染まりゆく。


 左の二の腕に指が食い込むのを感じた。

 ヤシェトの絶叫が響いた。


 タルハンの体がゆっくり前へ倒れていく。


 ナズィロフが崩れるように大地へ膝をつく。

 それまで呆然とした顔で立っていただけだったアリムがナズィロフに気づいて腕を伸ばした。

 肩を抱くようにして上へ持ち上げる。だが、ナズィロフは何も応えない。目の焦点が合っていない。


 エザンもすぐには対応できなかった。

 頼むと言われた、自分が彼の息子たちの面倒を見なければならない、誰も彼もが混乱している、収拾をつけなければならない――その先の思考がつながらない。

 息子たちと違って幾度いくたびもの戦を経験してきたはずだった。修羅場を乗り越えてきたはずだった。

 それでもなお頭も体も何も動かない。

 年を取ったからか。家まで焼かれたのは初めてだからか。それとも――族長が、


「タルハン殿……っ」


 誰よりも信じたのみ尽くし従ってきた族長を死なせてしまったからか。

 族長の生命の危機に何一つせずみすみす見過ごしてしまった自分が信じられなくなってしまったからか。


 タルハンの体が地に転がた。

 その水が草と土に染み込みかえっていく。


 すぐに抱き上げたかった。


 何がイゼカ一の戦士か。

 自分には彼のような生き方などできない。彼のように振る舞うことはできない。彼のようにこんな時でも周りを見周りを案じ周りのために身を投げ出すことはエザンにはできない。


「我々はネガフバーン公を失った。貴様らも族長を失った。これでおあいこだな」


 黒甲冑の男は、血を拭うことなくそのまま剣を鞘にしまった。

 エザンは顔を上げ、男の言葉に顔をしかめた。

 彼らは飼い主を失っただけで魂の支柱を失ったわけではなかろう。

 自分たちはもはや指針を失った。

 けれどエザンにはそれを言葉で表わすことも叶わない。


 エザンと男の目が合った。


 タルハンの最期の言葉から、エザンをイゼカ族の中での有力者であると判断したのだろう。

 男は「改めて、貴様を族長代理と見て話をさせていただこう」と切り出した。


此度こたびの夜襲はあだ討ちゆえに奇襲で構わぬと強引に攻め入ってしまったが、これは我々軍人奴隷ゴラームの意志であり、ネガフバーン公の遺志ではない。ネガフバーン公はイゼカ族を優秀な戦闘民族であるとお考えになり、もともとは貴様らも皆軍人奴隷ゴラームとして厚遇したいとおおせであった。確かに、今宵のような奇襲でもここまで戦い抜いた貴様らだ、ネガフバーン公のお考えどおりのつわものどもであることを俺も認めよう」


 エザンには何のことかいまいち分からなかったが、エザンが返事をせずとも彼は話を進めた。


「平原は確かに父祖の土地だが暮らしていくにはいささか厳し過ぎる。それに比べてアルヤは花が咲き実の成るこの世の楽園。貴様らがアルヤの常備軍に編入されれば、アルヤにとっても軍の増強が図れ、貴様らにとっても豊かな暮らしが保障されるというもの。双方に利益がある、悪い話ではない。現に我々も皆そうしてアルヤに下った身、俺が楽園を保証できるぞ」


 理解したくない。


「貴様らを仲間に迎えたい。だからもう一度話し合いの場につけ。一から話をさせろ」


 何を言っているのかと怒鳴りたかったが、


「――と言っても、俺もしょせんは軍人奴隷ゴラームの軍団長、アルヤにとっては雇い人の一人でしかない。戦事には口を出せるが、まつりごとの場で最終的な決定権を持っているのは幾日いくにちかのちに中央から派遣されてやって来るネガフバーン公の後任者だ。貴様らにはその後任者と話をしてもらわねばならん」


 すでに一仕事片付けた気でいるのだろうか、彼は「やれやれ」と肩をすくめた。


 いまさら彼がまだ年若い青年であることに気づいた。アリムと変わらない若者だ。己れがどれだけ鈍っていたことか。


「かと言って、貴様らはこうだしな。素直に席についてくれるとも思えぬ」


 何も言えなかった。

 その場にいた他の者たちも口を利かなかった。まだ呆けているのか、それとも、エザン同様敗者としての思いを噛み締めているのか。


「やむを得ん。人質をいただくか」


 黒い甲冑の青年がそう言い、周りの仲間たちに「連れてこい」と顎で命じた。

 エザンは我に返った。急いで駆け出そうとした。

 誰一人として連れていかせてはならない。どうしても誰かが行かねばならぬなら自分が行かねばならない。

 タルハンに託された大事な子らを敵に渡してはならぬ。己の身に替えてでも守らねばならぬ。


 周りの敵兵たちの腕が伸びてきた。

 まだ呆然としていたナズィロフの腕をつかんで引こうとした。


 それを払い除け自らの腕を差し出した者があった。


 アリムだった。


 エザンは胸の奥が冷えるのを覚えた。


「俺が行く」


 アリムの若く張りのある声が響いた。エザンがいつの日か失ったものだった。

 自ら歩み出てきたアリムに、黒甲冑の青年が「ほお」と感嘆の息をついた。


「話し合いを平和裏に終わらせるための一時的なものと心得たが、それに相違ないな」


如何いかにも。後任者もそこまでの卑怯者ではなかろうし、俺が保証する。アルヤの軟弱者どもは今や我々軍人奴隷ゴラームに背かれると戦もできんのだ、俺の機嫌を損ねることはすまい」

「その言葉、信じたぞ」


 炎の中、アリムの瞳が輝いた。


「俺が貴様らとともにアルヤに赴こう。だが丸く収まればここに必ずや帰らせていただく、必ずだ」

「アリム!」


 思わず叫んだ。


 彼を初めて戦の場に伴った時もこれほどまでの恐れはなかった。

 片時も手の届く範囲から出したことのない息子が、


「話が終わるまでだ」


 アリムが振り向き、エザンに向かって苦笑して見せ首を横に振った。

 その様子はひどく大人びていた。

 エザンは戦慄した。

 いつまでも自分の傍で独楽こまを回して遊んでいるような大人しいこどもだと思っていた。いつから親に向かってこんなことを言うようになったのか。


「彼らもチュルカの誇りの本質を忘れたわけではないようだ、そんな簡単には約束をたがえまい」

「だが――」

「それにこれ以上戦うこともできないだろう。早く死傷者を把握して立て直さないと――そしてそれは親父の仕事だ」


 エザンが焦って「俺が行く、お前は大人しくしておれ」と言うと、アリムが困った顔をした。

 いつから立場が逆転したのだろう。これではまるでエザンの方が駄々をこねているようだ。


「親父」


 彼はたしなめるように言って、両手を広げて見せた。それはトゥバがアリムやザリファを叱る時によくしていた仕草だ。


「親父は、族長の子らの後見をせねばならん」


 もはや何の言葉も出なかった。


 アリムがさらに一歩黒い甲冑の青年の方へ歩み出した時だった。

 それまで魂を失ったかのように固まっていたナズィロフが突然アリムに縋りついた。

 普段は聞き分けが良く落ち着いているナズィロフが、そうとは思えぬ声音で「アリム」と泣き叫ぶ。「行かないで」と言う声音はエザンにかつて彼ら兄弟が幼かった頃アリムに子守をさせていたことを思い出させた。


「アリムが行ってしまったら僕は――」

「ナズィロフ」


 アリムが諭すように答える。


「お前は兄だろう。ヤシェトとニルファル、それからザリファを頼む」


 我が身が引き千切られる思いというのは、こういうことを言うのか。

 その言葉は、他ならぬエザンがアリムに、何度も何度も繰り返してきた言葉でもあった。


 ナズィロフが地にうずくまるようにして泣き崩れた。アリムは「心配し過ぎだ」と笑ってナズィロフの頭を撫でてから、黒甲冑の目の前に立った。


「ふむ、大丈夫か?」


 黒甲冑の問い掛けに、アリムが「誰でもいいのだろう?」と応じる。黒甲冑が頷きつつ、「念のためにお聞きしよう」と言った。


「貴様、名は」


 アリムは即答した。


「イゼカ一の戦士エザンが長男、戦士アリム」


 何がイゼカ一の戦士か。

 エザンが心の中で絶叫したのも知らず、黒甲冑は「相手にとって不足なし、といったところか」と笑んだ。


「我が名はカズィ・ナディル、アザリ族族長メストの息子のフズルの次男にしてアルヤ王国軍軍人奴隷ゴラーム部隊隊長。貴殿を我らがアルヤへお連れする」


 アリムの背が、遠くなっていく。

 彼の背中はいつの間にあそこまで広くなったのだろう。

 そして自分はいつの間に小さくなったのだろう。


 後にはただ、炎の爆ぜる音だけが残った。

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