第9話 炎の夜 1

 エザンもヤシェトも馬を走らせた。

 これ以上ないと思える全速力で草原を駆け抜けた。


 アルヤの軍団はすでに辿り着いていた。

 彼らは柵を越え松明を投げつけ剣を抜き去った。


 真っ暗だった夜闇に、炎の光が舞い上がる。

 天幕ユルタが焼ける。

 陶器の砕ける音がする。

 悲鳴が響き始めたのは、それから少し遅れてのことだ。


 エザンとヤシェトがようやく内に入った時、そこはすでに火の海と化していた。

 夜とは思えぬ明るさだ。

 輝く軍旗の太陽の紋章が夜を燃やしている。

 暑い。


 赤子を抱いた若い母親がいずこへか走って逃げようとした。

 その背を、甲冑を着た男が追い掛け、鉈のような太刀を振り下ろして裂いた。

 母親は声を上げることすら叶わずその場に倒れた。

 耳をつんざく赤子の泣き声が響いた。


「やめろッ!!」


 ヤシェトが馬のまま突っ込もうとする。けれど今の彼にあるのは護身用の短刀だけだ。エザンもだ。

 だが黙って見ているわけにもいかない。


「貴様らッ、このような仕打ちをしてアルヤの誉れが傷つくと思わんのかッ!」


 アルヤ兵には聞こえていないようだった。

 否、聞こえていても通じないのかもしれない。彼らは違う言葉を話している。自分たちの言葉は解しない。

 途端にそれが異様なことに思えた。

 違う生き物と相対している気分だ。目の前にいるのが人間ではなく鉄の鎧を纏った獣に見えてきた。


 逃げる女たちと入れ違うように戦士たちが出てきた。それぞれがすでに武装している。

 しかし馬に乗ることはできない。

 アルヤ兵たちが馬をつないでいた柵や縄に火をつけていたからだ。これでは馬まで辿り着けない。

 馬たちも混乱しいななき荒れている。

 戦士たち一人一人は精鋭であると言っても、これでは充分に戦えない。


 アルヤ兵もエザンに気づいたようだ。

 歩兵たちは火矢の先をこちらに向けた。

 だがエザンは避けることなく彼らの真ん中を突っ切った。

 たかだか三、四人の歩兵が馬に乗った自分を射落とせるとは思わない。


 案の定火矢はあらぬ方向へ飛んだ。

 エザンはそのまま馬で彼らを蹴散らした。


 しかしそうこうしている間にヤシェトの姿を見失ってしまった。


 自分の天幕ユルタを目指した。使い慣れた自分の武具を取りに行かねばならない。そうでなければ甲冑を着て剣を持っている相手とは戦えない。


 途中で「エザン」と怒鳴られた。

 見ると齢八十のおきなが鎧を纏って刀を掲げている。


「貴様丸腰で何をしておるッ、これを受け取れぃッ!」


 おきなが投げた刀の鞘をつかんだ。

 そして一気に引き抜いた。

 第一線を退いていても手入れは続けていたようで、おきなの刀の刃は輝いていた。

 これで戦える。無理をして燃え盛る天幕ユルタの間を駆ける必要はない。

 柄を握り締めて振り向いた。


 改めて辺りを見回した。


 地獄が広がっていた。


 老女は胸に抱いた幼い孫ごと胸を細剣で貫かれ絶命していた。

 彼女の見開かれた目には絶望の色が見て取れた。

 ともに串刺しにされている幼女も、祖母の胸にもたれたまま、口を丸く開けながら物言わぬ塊と化している。


 若い妊婦が仰向けに横たえている。

 膨れていたはずの腹部は裂かれ、中から胎児が飛び出し、母の下腹にうずくまるように体を丸めて動きを止めている。

 炎に照らされまだ子に含ませたこともなかったであろう張りのある乳房が輝いていた。

 光を失った大きな目からは幾筋いくすじもの涙が頬へ伝っていた。


 うつ伏せに倒れる少年の背には針山もかくやというほど矢が突き刺さっていた。

 まだ初陣も知らぬ彼にとってこの最期はどれほど悔しかったことだろう。馬上から矢を射るのは、彼らではなく我らの特技だ。彼とてできぬことではなかったはずなのだ。


 エザンは奥歯を噛み締めた。刀の柄を握る手が震えた。


 今こそ戦わねばならぬ。

 戦士として皆を守らなければならぬ。

 イゼカの未来を守らねばならぬ。


 今まさに槍で少女の背を突き刺さんとしていた甲冑の男の首元に、刀を振り下ろした。

 かぶとをかぶったままの首が落ち、鎧を纏ったままの胴体も馬から転げた。


 狙われていた少女は突然のことに驚いたらしくまぶたを閉じて肩を縮めた。

 だが、彼女もイゼカに生まれ育った娘だ。

 すぐに目を開けると、「エザン様!」と明るい声を上げた。


「怪我はないか」

「はい、私は」


 エザンが、それならすぐに逃げろと言う前に、「ですが」と訴える。


「ヤシェト様が……!」


 しまったと思った。最後にヤシェトの姿を見たのはいつだったか。


「私を逃がしてくださったのはヤシェト様です、今はそのヤシェト様が囲まれております」


 彼女は主を失って混乱する敵兵の馬の手綱をつかんだ。馬の鼻先を自らの方へ引く。


「エザン様ならヤシェト様を助けてくださいますよね!? どうかお急ぎください!」


 彼女を見送るどころか、彼女の言葉を最後まで聞くこともできなかった。

 馬の腹を蹴って駆け出した。

 焦りが全身を包んだ。


 ヤシェトの身が危ない。


 少女が走ってきた方へ、夢中で駆け抜ける。

 転がる同胞の亡き骸も迫る敵兵の刃も何もかもすべて蹴散らして走る。


 ヤシェトを死なせるわけにはいかない。

 彼は我が身に替えてでも守らなければならない。

 ビビハニムともタルハンとも約束したのだ。


 イゼカ族を出て新たな部隊を組みたいと語り笑った少年の顔が浮かんだ。

 つい先ほどのものであるはずが、何年も前のもののごとく遠くなってしまった。


「ヤシェト殿……!」


 急がなければならない。


 やがて視界が晴れてきた。

 天幕ユルタの切り裂かれた布や焼け落ちた枠組みの間に、小さな広場が見えた。普段は子供らが独楽こまを回したり相撲をとったりして遊ぶ隙間だ。


 男の怒鳴り声が腹に響いた。

 けれどその轟きに負けぬ剣幕で怒鳴り返す少年のまだどこか高い声も聞こえた。


「女子供に手を出す卑怯者どもめがっ、蛮族は貴様らの方だッ!」

「ヤシェト殿!!」


 エザンはすでに幾度いくたびもの戦を乗り越えてきた歴戦の戦士だったが、今ほど恐れおののいたことはない。


 ヤシェトは傷ついていた。左の二の腕を斬り裂かれ右の脇腹に矢を突き刺したまま立っていた。

 だが彼もイゼカの戦士だ。

 よわいわずか十五の彼が夜の闇に血の花を散らしながら右手に剣を握っている。歯を食いしばり左手を震わせながら両足でしかと大地を踏み締めている。


 対する敵兵は馬上から答えた。


「可哀想じゃが事実じゃ。戦士の誇りを忘れたおどりゃのうちの誰かがやったことじゃけ、一族郎党の命をもってあがのうてもらわにゃあいけん」


 訛りは強いが会話に支障が出るほどではない。

 アルヤに傭兵として雇われたかアルヤの領内でアルヤ人として暮らしているチュルカ出身者の子孫なのであろう。平原の南部にはそういう部族もあるという噂を聞いたことがある。


 ヤシェトは何か言い返そうと口を開いた。けれど違和感に気づいたのかすぐに言葉を発することはなかった。


「――何だと?」

「わしゃあチュルカもんじゃあ。本当はおどれのような威勢のええ小僧は好きなんじゃ。せめて苦しまんよう一太刀で済ませたるけぇ――」

「待て、説明しろ。どういうことだ?」


 馬上の男が高く構えた剣をそのままに止めた。


「我々の同胞が、いったい何をしたと?」


 ヤシェトの問い掛けに男が答える。


「知らんのけ、小僧」

「何を――」

「知らされなんだな」


 もう一度「可哀想に」と言ってから、男が語り出す。


「チュルカ平原と接する地域のアルヤの殿様が殺されたんじゃ」


 エザンも言葉を失った。


「ネガフバーン様というお方じゃ。おどれも知らんか、確か平原の諸部族との交渉に行かれたと聞いたが、見んかったか」


 先日やって来たアルヤの地方領主だ。あの一行の中でもっとも位の高そうな文官の男だ。


「あの男が殺されたのか!?」

「おどりゃの誰かがしたことじゃ」


 ヤシェトが「嘘だ」と叫んだ。

 そうでなかったらエザンが飛び出していってそう叫んでいたことだろう。


 敵兵の男は「まことのことじゃ」と繰り返した。


 そんなはずがなかった。

 イゼカ族は誇り高き戦士だ。汚辱を注ぐため戦を申し込むならまだしも、身分ある者とはいえ一介の文官と見える者を闇討ちする形で殺すことはない。そんな卑怯な真似をする者はイゼカ族にはいないのだ。否、チュルカのすべての部族を探してもきっといないだろう。


 しかし敵兵はチュルカ語を話す。アルヤに下り平原を捨てたといえども、チュルカ人がそう簡単にチュルカの魂を忘れるとも思えない。

 チュルカの魂を持つなら、首長が決闘に敗れたことで相手を恨みはしない。

 このような報復に出るのは、卑怯な手を使われて身内が害された時だけだ。

 全面的に彼らが間違っているとは考えにくかった。


 何かがおかしい。


 きっと彼らは誤解をしているのだ。

 すぐに誤解を解かなければならない。これ以上無益な争いを続けさせぬよう話をしなければならない。


 エザンはまず馬を下りた。相手に話を聞かせるためには、まずこちらに戦闘の意思がないことを示さねばならない。


 相手の男は剣を振り下ろした。


「一族の戦士の過ちは一族の長の過ち、一族の長の過ちは一族全体の過ち」


 ヤシェトもまた剣を構え直した。

 けれど相手の刃を受け止めるには彼の腕はまだ細過ぎる上に傷つき過ぎている。

 止めねばならない。


 跳躍した。

 一歩で踏み込んだ。

 男の馬の鼻面に相対するかのごとく躍り出た。


 振り下ろされつつあった男の刃が驚きとためらいでわずかにぶれた。


 左手でヤシェトの胸を後ろに突き飛ばした。

 かろうじて立っていた状態の彼はいともたやすく尻から転げた。

 押された勢いで揺れ動いた剣の切っ先がエザンの左腕に触れたが、エザンは振り向きもしなかった。


 刀を頭上に構えた。

 右腕一本のことだったが、エザンの腕は男の刃を受け止めるに足るほど太くたくましい。


 辺りに金属の音が鳴り響いた。

 反動で肘が震えた。

 しかし持ちこたえられぬほど重いわけではない。

 仮にもイゼカ一の戦士とうたわれたエザンがそう簡単に押されるわけがないのだ。


 男が兜の下歯を剥き出しにしたのが見えた。


「おどれ何者じゃあッ」


 その威嚇に、エザンは応えなかった。

 ヤシェトが後ろでなじるように「エザン」と名を呼んだが、エザンの気持ちは揺るがない。

 まことの誇りを重んじるのであれば、自ら一歩を引いてみせて争いを終わらせることもまた、戦士に必要なことだ。


「拙者名はエザンと申す者、イゼカの戦士が一。この若君の名は戦士ヤシェト、イゼカの族長タルハンの第二子にして拙者の主にござる。しかれどもこの若君は未だ初陣も済ませぬ若人、拙者が後見をさねばならぬ取り決めにござれば、拙者が代わりにお相手つかまつった、急のご無礼を承知つかまつりたい」

「ほう、なるほどありべきこと」


 丁寧な挨拶に反応した相手が、「承知致した」と言って剣を押す力を緩めた。話は通じる相手らしい。


「イゼカの内情の細やかなるところは存じ上げぬが、貴殿はまことの剛の者とお見受けし申す。此度こたびはネガフバーン公のあだ討ちといえども拙者も戦士が一。貴殿のような男がまことあだとも思えぬ、囲んで嬲り殺すには惜しい。どうぞ一騎討ちを受けてはくださらぬか」


 緩んだ剣を弾き返し、エザンは「お気持ちだけありがたく頂戴致し申す」と答えた。


「双方納得し日のあるうちに始めた戦であればお受けして立ったが、今は断る無礼をご容赦いただきたい。実は今、貴殿らが我らを攻めた訳を傍で聞かせていただき申した。拙者は今その件について詳しく聞きとうござる」


 男が剣を構え直しつつ、馬を一歩分下がらせ、「と、おっしゃると?」と尋ね返してきた。

 エザンもまた、後ろに立っているであろうヤシェトの荒い息遣いを感じながら一歩引き、「ネガフバーン公とやらのことにござる」と返した。


「その御方は確かに幾日いくにちか前イゼカ族を訪ねたもうた。しかし我々は回答を後日に引き延ばしお帰りいただいたのみ、追い掛けて害すなどと無様な真似はしておらぬ。貴殿の言うとおり一族の長の意思は一族全体の意思、我らが族長タルハンはアルヤと争わぬと決めた。まして我々はアルヤの力の程を知らぬ、いたずらに襲う訳がない。お頼み申す。どうぞ如何いかなる経緯でネガフバーン公はたおれられたのか詳しく教えてくださらぬか」


 そこまで話し終わった頃のことだった。

 不意に左の二の腕をつかまれた。

 見ると血と砂で汚れた少年の手がエザンの服をつかんでいる。


「囲まれている」


 辺りを見回した。

 ヤシェトの言うとおり、いつの間にか周りをアルヤ王国の旗をかざした騎士たちに囲まれていた。

 目の前の男も、周りを囲む男たちも、はためき立ち昇る炎に照らされて輝く鎧は、その光がなければ輪郭をつかめないほど闇に似た黒だ。


 皆口々にエザンとヤシェトに言葉を投げかけてくる。


「この期に及んで言い逃れじゃ」

「チュルカの魂っちゅうんは突っ張って平原にしがみつくことと違う」

「何も知らんと、チュルカ人に蛮族の印象ばっかり焼き付けてくれよってに」

「まっこと良い殿様だったんじゃ、チュルカ出のわしらにも寛大な殿様を」


 南方の訛りがあるもののすべてチュルカ語だ。


「引け」


 そうこうしているうちに、最初にヤシェトと向かい合っていた男の後ろから、さらに深い闇を背負った男が現れた。

 甲冑だけでない。馬までが黒く艶やかな毛並みをしている。


 最初の男が「将軍」と呟いて即座に下がっていった。


「貴殿が総大将か」


 エザンの問い掛けには答えず、黒い甲冑の男が告げた。


「ネガフバーン公一行は、イゼカ族との交渉の帰りに、ミシネフボルグの山の麓、ハラーズ川のほとりで襲われた。ネガフバーン公は首を刎ねられ即死、三人の兵士も皆が皆ネガフバーン公を庇って戦死した。唯一生き残ったのがチュルカ人とアルヤ人の混血の通弁だ。この者だけがネガフバーン公の首を抱えて逃げ戻ったのだ」


 黒い甲冑の男は淡々と語るが、エザンは動揺を隠し切れなかった。眉をひそめて唇を引き結んだ。せめてそれが背中のヤシェトには伝わっていないといい。


「通弁は馬に乗った男たちが確かに『イゼカの名の下に』と言って攻撃してきたと証言した。我々も念のため兵士たちの遺体を回収して検証してみたが、残された矢羽根の形状は貴様ら北方の部族が使っているもの。同じく傷口の状態からかんがみるに貴様らイゼカの戦士ほどの腕のある者でないとこれほどのことはできぬと考えた。まして貴様らはネガフバーン公が訪問した際アルヤを口汚く罵って抵抗を試みたと言う。ここまで状況が揃えば、もはや我々には貴様らを疑う他ない」


 頭が真っ白になった。

 いったい誰がそんなことをしたと言うのか。

 エザンにはイゼカ族の身内に疑える人物などいない。


 駆け寄る足音が聞こえてきた。

 目を向けると、兵士たちが馬ごと薙ぎ倒され始めていた。

 何事かと思い両目を見開けば、密集した兵士たちを押し退け掻き分けてこちらに向かってきているのはエザンの息子たちである。

 向こうも輪の中心にいるのが自分らの父親であることを知ったらしい、驚いた顔で「親父!」「義父上っ」と大きな声を上げた。


「アリム、兄貴!」


 ヤシェトは希望を見出したらしく明るい声を上げたが、エザンは焦燥のあまり怒鳴った。


「来るなッ!!」


 今争ってはいけない。

 二人が立ち止まった。ヤシェトが「どうして」と訴えた。

 仲間の登場を見て、黒い甲冑の男は一つ舌打ちをした。

 決着を早める気になってしまったのかもしれない。

 黒い鞘から剣を抜き、構える。

 止めなければならない。


「貴様の言うとおり争わぬと決めた者が多数派だったのかもしれぬ。だが、反発した者も確かにいたのだろう?」


 エザンは心の中でやめてくれと絶叫した。


「その者がネガフバーン公を害したのではないか? 貴様や族長の預かり知らぬところで、な」


 アリムとナズィロフも、自分たちの知らぬところで何が起こっていたのか、ようやく気がついたようだ。

 特にナズィロフは目を丸く大きくして、血の気の失せた顔で唇をわななかせた。


「まさか……っ、ヤシェト、お前……っ」


 できることならヤシェトの耳かナズィロフの口を塞いでしまいたかった。

 振り向くと、ヤシェトもまた、兄と同じ顔で何度も首を横に振っていた。


「お……っ、おれでは、おれではな――」

「でもお前っ」

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