第8話 星明かりだけが見ていた
なかなか寝つけなかった。
エザンは結局布団を出た。
隣で横になっていたトゥバが「どうなすったんですか」と問うたが、「何でもない」と答えた。
自分でも自分の今の状態がよく分からない。ただでさえ口下手だというのに、これでは何かを説明できるはずもない。
「と言ったって、あなた、ここ数日ずっとそんな調子ですよ。お体に障ります。祈祷師でも呼びます?」
「要らん」
トゥバに背を向け、上掛けに袖を通した。上から軽く帯を締め、幕を払って外を見る。
トゥバが、「体を横にしているだけでも違いますよ」と言った。
エザンは彼女の方を向かぬまま、「少し外の空気を吸ってくる」と告げて
外は満天の星空であった。
漆黒の天蓋から無数の小さな光がぶら下がっている。
静かな夜だった。
もう夜更けだ、皆休んでいるに違いない。人の声はない。
それなのに、落ち着かない。
タルハンの告白を聞いて以来毎夜こんな具合だ。
日々は何ということもなく続いている。
こうして気に病んだところで何の解決にもならぬと、頭では分かっている。
それに、もしもアルヤに攻められた時のことを考えれば、戦に備えて体調管理をせねばならない。
頭では分かっていても、心穏やかに眠れない。
物事がどんどん悪い方向へ進んでいってしまうのではないかと思えて、腰を落ち着けていられない。
アルヤに攻められる日は来ないかもしれない。
代わりに、ヤシェトがイゼカ族から追放される日が来るかもしれない。
あてもなく
人影は他にない。馬も羊も皆眠りに就いている。
エザンはどうしようもなくなって、先日外に出した時のまま放置されていた椅子に座ってみた。
両手で顔を覆う。毛の減り始めた額の上部を撫でさすり、溜息をついた。
馬の
驚いて顔を上げると、星明かりに照らされ、誰かが馬で草原の方へ出ていこうとしているのが見えた。
エザンは目を丸くした。
ヤシェトだった。
ヤシェトが馬に乗ってまっすぐ遠くを見つめていた。
急いで自分の馬を叩き起こした。
寝間着に上着を羽織ったままの恰好で馬にまたがり、すでに
「ヤシェト殿!」
背中が近くに見えてきたところで、大声で名を呼んだ。
ヤシェトはすぐに気づいて振り向いた。
「エザン?」
「ヤシェト殿」
予想に反して、ヤシェトはすぐさま前進するのをやめ、鼻先をエザンの方へ向けてから馬の動きを止めた。
エザンは密かに安堵の息を吐いた。
ヤシェトは軽装だ。普段着で帯に一本短刀を差しているだけである。
「なんだ、貴様、起きていたのか。こんな夜更けにどうした」
「エザンの方が問いとうござる。どちらへ行かれるおつもりだったのだ」
ヤシェトは「気晴らしに――」とまで言い掛けてから言葉を切り、「ははァ」と笑った。
「貴様、おれが出ていくのではないかと思って慌てて追い掛けてきたのだな」
エザンは唇を引き結んだ。まさかヤシェトの口からもそんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだ。
だが、考えられないことでもなかった。
ヤシェトはアルヤ使節団が帰っていったあの日あの直後ナズィロフと派手な兄弟喧嘩をしている。
あの温厚なナズィロフが珍しくヤシェトの胸倉をつかんで思い切り頬を殴ったのだ。
場が場であったために周りも皆すぐ仲裁に入った。
だが、結局のところ、誰もヤシェトの味方をしなかった。
年かさの戦士たちが味方させなかった。
誰もが、ナズィロフをなだめて、ヤシェトのことは無視した。勝手な行動を取ったヤシェトが悪いと、ナズィロフの怒りを正当なものとする態度を取った。
今もヤシェトの左頬は青黒く腫れている。ナズィロフが本気だった証だ。
ヤシェトが
今のヤシェトは、「ははは」と明るい声を上げ、呑気に笑って見せた。
「親父もニルファルも寝たので少し深呼吸をしようと思って出ただけだ、さすがのおれもこんな恰好でそこまで遠出はできん」
笑顔に心
同時に少しずつ切なさが湧いてきて、そのうち苦しくなった。
ヤシェトも本来は人懐こく明るい笑顔を見せることのできる子だ。特別やんちゃが過ぎるが、根はあの三兄弟の次男なのである。
加えてそのやんちゃでさえ、かつてのイゼカ族であったら、戦士の勇猛さの顕れとして歓迎されていた気質だ。この時代に族長の子として生まれたのでなかったら、彼もまたイゼカの戦士として一目置かれていたはずだ。
あるいは、自分の息子だったら、と思わないでもない。そうしたら、聡明で物静かな兄弟に挟まれ居心地の悪い思いをすることなく、豪胆で賑やかな母と兄と姉に可愛がられて伸び伸びと暮らしただろう。
「……エザン」
ヤシェトの笑顔が曇った。
「お前もおれが悪いと思うか」
胸が軋むような苦しみを覚えた。
「おれは……、戦士の中の戦士である親父や草原の狼の末裔たるイゼカの戦士たちが異民族に頭を下げるところなど見とうないと思っただけだ。だが、お前もやはり、そういうおれを、浅慮だったと言うか」
すでに成人の儀を終えているとは言え、彼はザリファより年下の少年だ。ひげも生えていないし、肩はエザンより一回りも二回りも華奢だ。戦士として鍛えていると言っても、体躯もまだ薄っぺらに見える。
若者だ。誰かが見ていてやらねばならない。
けれど、誰も、ヤシェトの味方をしなかった。
「ヤシェト殿――」
「おれたちは誇り高き草原の戦士ではないのか? あのような、戦士に対して最低限の礼も払わず馬上から物を言う連中の相手をまともにするなど、そんな屈辱おれには耐えられぬ」
エザンはそんなヤシェトの訴えを最後まで聞いた。訴えが悲痛な叫び声に聞こえた。
ヤシェトが言葉を切ってから、口を開いた。
「エザンは、
「エザン」
「しかし理屈と感情は別にござる。理屈としては、族長のご判断に背いて統率を欠けばなるものもならぬ。ましてタルハン殿は深謀遠慮の方、
ヤシェトはそこでうつむいた。唇を引き結び、納得がいっていないことを顔中で表現している。
これ以上言うのも酷だとは思った。けれど今度ばかりはイゼカ族全体の、そして、ヤシェト自身の行く末を左右する事態に発展している。
「アルヤ人という連中はもとよりどの異民族に対しても高飛車で偉ぶった連中にござれば、こちらと対等な人数での会談を申し入れてまいった時点ですでに非常な譲歩をしておる。アルヤ人どもにも何やら事情があると睨んでこそ、タルハン殿は話を聞くとご決意なさったのだ。もしかしたらアルヤ人どもは本当に何やら我らにとって有利な条件を持って参ったのかもしれぬ、
「親父がそう言ったのか」と問い掛けられたので、エザンは頷いた。そして付け足した。
「しかし、そのようなタルハン殿のお考えに従うのが正しいと判断しているのは、エザン自身でござる。エザンは知恵こそ足らねどヤシェト殿の三倍近く生きておるゆえ、経験だけはそれなりにござれば」
「そうだな。おれはお前の三分の一しか生きておらぬ小僧よ」
そう呟き、彼は外を向いた。
けなすつもりで言ったのではなかったが、今の少し神経が過敏になっている彼の前では軽率だったかと、少し反省した。
それでも感情に任せて走り出さない分今の彼は比較的落ち着いている。
エザンは空を仰いだ。
星はなおも美しく輝いていた。
星々だけがヤシェトを見守っている。
「今宵は冷えるな」
エザンが小声で呟き、それとなくヤシェトに
逆にヤシェトから「ああ、お前はもう戻れ」と言われてしまった。
「ヤシェト殿はまだ戻られぬのか」
ヤシェトは外を向いたまま、「頭を冷やしたい」と答えた。
「少し、考え事をしたいのだ。だから一人で出てきた」
「何をお考えか。エザンには話してくださらぬか」
「話したらお前はまた心配するだろう。おれとてお前に迷惑をかけたいと思ってかけているわけではない」
目を細めてヤシェトを見つめた。
先ほどはまだまだ少年だと思ったが、こういう言葉を聞くと、彼も大きくなったものだと思う。とうとうエザンのことまで案じる年になったのだ。
だが、
「ビビハニム殿にヤシェト殿をお預かりして以後、エザンはもうすでに十年以上もヤシェト殿の第二の父としての覚悟をもってヤシェト殿にお仕えしておる。
「そう言ってくれるのはお前だけだ」
こちらに背中を向けたままのヤシェトの声が震えていた。
「いつだったか、ザリファに、エザンはアリムやザリファよりおれの方が可愛いのだと文句を言われたことがある」
「それはまた、娘が無礼を」
しかし否定はしなかった。ただただ黙ってヤシェトの華奢な背中を眺めていた。
ややして、ヤシェトが少しずつ語り始めた。
「イゼカ族を出ていこうと思う」
エザンは両目を見開き、驚愕をもってヤシェトの言葉を聞いた。
「今すぐではない。ニルファルが成人の儀を済ませるか、あやつが族長になるか、そのくらいまでは待とうと思っている」
まさかヤシェトが自分とタルハンの話を聞いていたのではというのが胸裏に過ぎった。そうであれば自分たちは残酷なことをしている。タルハンはけしてヤシェトを疎んじているのではないのだと弁解せねばならない。
エザンがそう思って焦ったのも束の間、ヤシェトはヤシェトで話を続けた。
「やはりおれにはどうも合わんのだ。兄貴は腰が重すぎるような気がする。ニルファルは甘ったれでひとに寄りかかり過ぎているように思える。いずれにしてもおれのことを乱暴者の厄介者だと思っているには違いない。おれとて、今の安穏として牙を抜かれたようなイゼカ族は好かん。おれは草原の狼と呼ばれた祖父の祖父のそのまた祖父のように自由に戦って生き満足した死を迎えたい。それが、おれだけでなく奴らにとっても良いのではないかと思える」
悲しい決意ではあった。族長の子でありながら独りでここまで思い詰めたのかと思うと、己が無力さに苛まれる。
だが、ヤシェトの言う通りかもしれない。
ヤシェトはヤシェト自身のことをエザンが思っていたよりずっと分かっているようだ。
確かに、このまま平和なイゼカ族の枠の中にいるより、独立して草原を闊歩する方が向いているかもしれない。
「仲間もいないわけではない。今回の件で親父に反発心を抱きおれに賛同してくれている連中が何人かいる。そういう奴らを連れて出ていくのだ。そうすればイゼカの中に火種を残すこともない。中にはすでに嫁を貰っている者もあるから、子孫のことも心配はなかろう」
そこまで語ると、ヤシェトが振り向いた。
語っているうちに気持ちが落ち着いてきたのか、彼が涙を見せることはなかった。
「勘違いはするな。おれは族長になりたいわけではない。一緒に出ていく仲間たちを組織しておれが頂点に立とうという腹積もりではないのだ。けして、兄貴の言うように、ニルファルに嫉妬しているわけでは」
ただいつになく真面目な顔でエザンをまっすぐ見つめた。
「むしろ、ニルファルのように年長者の話をよく聞く者の方が、今のイゼカ族のような大所帯には向いているのだろう? おれの方が、イゼカ族の図体の大きさ、重さに、耐え切れない。何もかもから解放されたいと思っているのだ」
エザンは頷き、「
ヤシェトの意志は固そうだ。あの無鉄砲な彼の計画だとは思えないほど考えられている。その上タルハンでさえ持て余していてあのようなことを自分に持ち掛けるくらいだ。ここまで来てはもはや覆せないだろう。
それなら、エザンの採るべき道はたった一つだけだ。
「エザンもお伴致す」
ヤシェトが目を丸くした。
「これから老いる一方のエザンは、そのうち、ヤシェト殿の言うような、重い荷物の一つになるかもしれぬ。されども、先ほども申したとおりだ。このエザンには今の若い衆にはない経験がござる。新しい部族の長老として新しい族長を支援致すことはできよう」
「エザン、お前、何を言って――」
「拙者はヤシェト殿にどこまでもお付きすると誓った身。ヤシェト殿がイゼカ族を離れて行かれるというのに、イゼカ族に留まっても仕方があるまい」
ヤシェトは慌てて首を振り、「だがそんなことなど誰が許すものか」と主張した。
エザンは声を上げて笑った。
「拙者に要るのはヤシェト殿の許可にござるぞ、他の誰に許しを得ようか」
「いろいろいるだろう、親父とか、ニルファルとか、長老たちとか。お前はイゼカ一の戦士だ」
「要らぬ、要らぬ」
実はそのタルハンからすでに許可を得ているということはあえて伏せておいた。この父と子の間に要らぬ禍根を作りたくない。
否、タルハンのことである。本当は、ヤシェトがいつかこう言い出すであろうことを察知しているのかもしれない。それでヤシェトを送り出すため自分をつけようと考えたのかもしれない。
そうであるなら何のおそれも要らない。
「なんの、このエザンも若い頃はヤシェト殿より無鉄砲であったのだ、いまさら言うことを聞かぬくらいで長老たちが否と言うわけもござらぬ。それにヤシェト殿の
「エザン……」
ヤシェトが眉尻を垂れた。
彼が幼かった頃よくしていたように彼の頭を撫でたくなったが、互いに馬上の身ゆえに我慢した。
代わりに笑って見せた。
「親馬鹿を承知で申すが、アリムはあれでなかなかの腕前、拙者の跡を継いで立派にニルファル殿をお守りするだろう。ナズィロフも優男のようでいてその実ヤシェト殿を一発で殴り倒す剛腕。イゼカはもはや充分よ」
ヤシェトが拳を握り締め、その背で目元を拭った。
エザンは見なかったふりをして、馬の鼻先を
「ただ、一つ懸念せねばならぬことがござるな」
「何だ?」
「うちのカカァでござる。あの肝っ玉婆のこと、かような話をしたらばついて来ると言い出しかねんぞ」
「はははは、トゥバなら心強いくらいだ、他の独り身の連中もトゥバが飯を作ってくれたらきっと喜ぶぞ」
「それならば良いのだが、な」
エザンが「さて、そろそろ帰らねば、月が傾いてしもうた」と言うと、ヤシェトも頷いた。
「いい加減戻るか」
馬を歩かせ始めた。
そんな様子を横目で見て、エザンは安堵の息を吐きつつ自らも手綱を引いた。
「なあエザン、この話はまだ内密にしてくれ。今はまだアルヤの件で周りがごたついている、余計なことを言ったらまたヤシェトが騒ぎを起こすと言われる」
「エザンもその方が良いと思うており申す。できればニルファル殿の成人ののちに話を進められるのが良いかと」
「分かった、そうする」
こうして話をすれば、ヤシェトも本当は素直な良い子だ。
それを周りに理解されることのないまま彼がイゼカ族を去るというのは、悲しく、悔しい。
だが、彼には彼の新天地があると思うと、さほど悲観することもないような気もしてくる。
馬を並べて移動を始める。
意外と部隊から離れていたようで、暗闇の中星明かりで白い点がわずかに照らされているのが遠くに見える程度だ。
瞬間、その闇の向こうがわずかに揺れた気がした。
最初は疲れのせいかと思った。年のせいもあり目が衰え始めたのかもしれない。
だが、近づけば近づくほど、
「エザン」
ヤシェトも気づいたようだ。隣で「おかしくないか」と呟いた。
「焦げ臭い気がする」
ヤシェトがそう言ったと同時に、
星明かりではなかった。
あの赤く燃える光は、
「火だ」
いくつもの松明が、濃い色の布を纏った馬たちが、向こう側から夜闇を裂いて押し寄せてきている。
手が震えた。
本能が馬を走らせた。手綱を引き、馬の腹を蹴って急いだ。
何も言わずとも隣のヤシェトもついて来た。
さらに近づくと様子がもっとはっきりと見えてきた。
数百とも千ともつかない馬の群れの背に、松明の炎で輝く甲冑を纏った人間が乗っている。
そしてその周りを、松明を掲げている人々が囲みながら動いている。
今までに見たことのない大軍だ。まるで山が動いているかのようだ。
そのうち、夜空にいくつもの大きな旗がはためいているのが分かった。
松明の炎に彩られ、金色の刺繍の糸が見えた。
深い夜の色に似た生地に、太陽の紋様が縫い取られている。
「あれは――」
太陽とは、アルヤの王の象徴だ。
「アルヤ王国軍……!」
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