第7話 族長としての判断

 それからまた数日を経た頃の夜のことだ。

 エザン一人だけが急にタルハンの天幕ユルタに呼ばれた。


「突然すまぬな、エザン」


 そう言って苦笑するタルハンに、エザンは大きく首を振って「左様さようなこと」と答えた。


 タルハンはここ数日で少しやつれたように見えた。

 エザンはタルハンを三十数年ずっと見てきたが、タルハンがここまで疲れているのを見るのは初めてかもしれない。

 今回はそれほどまでに事が大きくなってしまったのだ。

 我が身の不甲斐無さが情けなく、エザンは消え入りたくなる。


 天幕ユルタの中に入ると、互いの他には誰もいなかった。ヤシェトやニルファルはどこかへ預けているらしい。案外トゥバやアリムのところにいるのかもしれない。だが行き先は強いて追及しなかった。

 二人きりであるということが何よりも気にかかった。


「まずは一杯」

「応」


 炎を囲んで二人同時にさかずきを手に取る。


 タルハンがずからエザンの杯に注ごうとしたのを見て、エザンはそれを慌てて「拙者が」と制した。

 タルハンは「今宵は二人きりだ、気にするな」と笑って注いでしまった。


 静かに酒をあおる。

 言葉は交わさない。

 エザンから口を開くことはない。自分はあくまでタルハンを補佐する立場にあり、タルハンの言葉に耳を傾けるためだけにここに存在している。自分からタルハンに話すことなどない。


 ふと、タルハンの顔を見た。

 研ぎ澄まされた横顔は、疲れの色が滲んでいるとはいえ、なおも族長としての威厳を放っているように見えた。

 編み込まれた長い黒髪が獣脂の灯りに照らされて揺らぎながら輝く。


 こんなタルハンを見ていると、やはりさほど心配せずともいい気がしてくる。自分が深く考える必要はないように思えてくるのだ。


 エザンはもともと物事を深く思考することが得意ではない。

 イゼカ族一の剛力だの、戦の場では血肉を求める悪鬼のごとしだのとうたわれてはきたものの、身内には、力任せで単純な筋肉の塊とそしる者もあるほどだ。

 否定できない。

 若い頃は強さこそ真実だと思い込んでいた。がむしゃらに力だけを磨いてしまった。

 己の強さに自惚れ、狩や戦で無茶をすることもたびたびであった。

 特に二十歳前後の頃には長老たちの話に耳を貸すことすらしなかったものだ。

 年月を経、同胞の死や子らの成長に触れてきたことで、気質がずいぶんと丸くなった。今は素直に亡き両親や先の族長に感謝している。

 だが、戦闘の場面では、今でも、勢いや雰囲気だけで次の動きを決め、反射的に体を動かす癖が抜けない。


 そんな自分でも今日まで生き残ってこれたのは、ひとえに今の族長との関係に恵まれていたからだ。


 タルハンはこどもの頃から利発で聡明な子であった。芯は太く肝は据わっていて、矛盾を嫌って状況をよく見ている。

 かつて若かったエザンが暴走しおきなたちに見捨てられた時も彼が止めに来てくれた。彼のおかげで窮地を脱した経験は一度や二度ではない。

 年はエザンより五つも下だが、エザンは彼に頭が上がらない。


 そう思うと、息子三人の中で一番の父親似はナズィロフだろう。

 小さい頃から年齢のわりに大人びていると思っていたものだ。言うことに筋道が通っており、器用で何事もそつなくこなす。


 ニルファルは母親のビビハニムに似ている。

 こどもの頃のタルハンに比べるといささか幼いが、人をよく見ており、甘え上手の世渡り上手で人と衝突しない。


 ヤシェトは誰に似たのだろう。タルハンもビヒハニムも、そのまた両親にも、こんな性格の者はいなかった。

 強いて言えば、エザンだろうか。

 親になってから知るとはこういうことか。いまさら深く恥じ入った。


「エザン」


 タルハンがようやく口を開いた。

 エザンは「は」と短く返事をしてからタルハンの顔を見た。


「率直な意見を聞かせてほしい」

「と、言うと――」

「エザンは此度こたびのアルヤの一件について私の対応に不満を持ってはおらぬか」


 予想外の問い掛けに、エザンは思わず声を大にして「そのようなことなどけしてござらぬ」と答えた。

 タルハンは少し笑って、「そのような声を出さずとも聞こえる」と言った。


「何を血迷うたことを。エザンが一度でもタルハン殿のなされることに背いたことがおありか?」

「いや、ない」


 タルハンが即答する。

 そして視線を炎の中に落とす。


「なかったな。エザンはいつでも私の味方だ」


 反射的に「これからもでござる」と付け足した。


「今までも、これからも、ずっと。このエザン、タルハン殿のなされることすべてについていく所存にござる」


 やや、小さな間が空いた。

 少ししてから、タルハンは「そうか」と呟いた。


「そうか……」


 繰り返す声は小さくも安堵が滲んでいるような気がする。


 ビビハニムの言葉を、今一度思い出した。

 エザンは唯一夫がたのんだ戦士だと、彼女は言いのこした。

 自分はそのように大それた人間ではないと思っていた。

 だが、あながち誇張ではなかったのかもしれない。タルハンは自分が思っているより自分を必要としてくれているのかもしれない。


 ひょっとしたら、タルハンも今回のアルヤの一件を不安に思っているのではなかろうか――そんな思いが不意に胸をかすめた。

 ティズカ族だけではない。イゼカ族もアルヤ王国を敵に回したことはない。

 タルハンはイゼカ族のすべてをその身に負って生きねばならぬ宿命の存在だ。自分が想像するよりはるかに重い責を感じているかもしれない。


「ヤシェトのやりようには困ってしまったな」


 タルハンが苦笑する。

 そう言われてしまうと、エザンも申し訳なくなる。


「かたじけない……タルハン殿にも、ビビハニム殿にも、ヤシェト殿の後見にはエザンをと推していただいたというのに」


「ヤシェトのあの無茶に賛同する者が多い」


 ヤシェトが剣を抜いた時、後ろではやし立てともに剣を抜いて戦おうとした連中のことを思い出した。


「若い衆はまことの戦を知らぬ」


 タルハンの声に苦いものが滲み始める。


「戦が如何いかなる犠牲を伴うものかを知らぬ。我々がいくつの同胞の屍を糧に生きてきたのかを分かっておらぬままにはやっておる」


 息を吐き、「これでは戦えぬ」と、彼は断言した。


「戦の何たるかを知らぬ若者たちの命をむざむざ捨てさせるわけにはいかぬのだ」


 タルハンの両肩には、イゼカの戦士たちすべての命がのしかかっている。


「私は何が何でも戦を避けたい。今の若い衆をアルヤ王国という得体の知れぬ敵と戦わせとうない」


 「そんな私を臆病だと思うか」と、タルハンは問うた。


「エザンよ、教えてくれ。次にアルヤの使節団が来た時、何が何でも和平に持っていくであろう私を、お前はどう思う?」


 エザンも眉根を寄せた。手に力が入り過ぎてさかずきを割り砕かぬよう気をつけることしかできなかった。


 かつての自分であったら、イゼカの誇りを捨ててでもそうするのかと詰め寄っていたかもしれない。アルヤ王国に下ることになってもいいのかと、訴えていたかもしれない。


 タルハンの両肩に乗っているのは、イゼカ族のすべてだ。イゼカ族の人の命すべてがかかっている。

 それでもなお族長に尽くそうとするアリム、そのアリムの身を案じ戦を忌避するデニズ、数々の戦にエザンを送り出してきたトゥバ、これからナズィロフを送り出すだろうザリファ――族長の息子としてアリムとともに先頭へ立つことになるナズィロフ、父が背負ってきたすべてのものを継承するニルファル――いまだ何も知らず誇りだけをたのんで突き進もうとするヤシェトの顔が、次々と浮かんでは消えた。

 タルハンの両肩に乗っているのは、戦士たちだけではない。戦士たちも含んだ、そのすべてだ。


「今はその時ではないと思うてしまうのだ」


 タルハンが呟くように言う。


「今は。この先はまた変わるかもしれぬ。けれど、今は。ならぬ」


 そして、問い掛ける。


「そう決断しようとしている私を、エザン、お前はとがめるか」


 エザンは、頷かなかった。

 その決断を下すまで、タルハンは一人で悩み続けたに違いない。重い荷物を抱えて、アルヤの使節団が来たあの日から今日まで――否、もしかしたらティズカ族よりの使者が来た日から今日の今この瞬間まで、ずっとその知恵を絞り続けてきたに違いない。

 そこまでイゼカ族の未来を案じて出した結論に、タルハンを唯一の長として仰ぐ自分が、どうして背こうか。


「エザンはタルハン殿にお味方する」


 タルハンが顔を上げ、エザンの目を見た。

 エザンはまっすぐタルハンを見つめ返した。


 お互い年は取った。エザンの髪は薄くなったし、タルハンの額や目元にも皺が刻まれてしまった。

 だが、変わらない。

 自分たちは二十年前タルハンが族長になった時から何も変わっていない。生涯タルハンに尽くすと誓ったその日のままだ。


「エザンの一切合財をタルハン殿に託し申す。タルハン殿の決意を、エザンは全力で支持し、支援し、お味方しとうござる」


 タルハンがようやく、緩やかで穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがたい言葉だ」

「礼を言われることではござらぬ。エザンは最初から最後まで、タルハン殿に忠節を捧げると誓ったあの日のままにござる」


 そんなエザンの言葉に、タルハンは頷いた。

 頷いてくれたのが、エザンは嬉しかった。


「ただな、エザン」


 しかしまた想定外の言葉が続いた。

 驚いて目を瞬かせた。

 タルハンはやはり、困ったように笑っている。


「申し訳ないと思う。エザンには、まことに、いくら礼を言っても言い足りぬ」

「そのようなことは不要だと申しておろうに」

「そうではない。今から一つ、エザンに頼み事をしたく思っている」


 新しい話題に、エザンは「おお」と頷いた。

 タルハンはなおも「我が責を一つエザンに押し付けるようでたいへん心苦しいが」などと言っているが、むしろ望むところだ。タルハンの重荷を少しでも分かち合えたら、タルハンに仕える者として、それ以上のことなどない。


「何なりと申しつけられよ」


 そこでタルハンは一つ呼吸を置いた。

 おもむろにまぶたを下ろして、しばらく何事かを考えてから、まぶたを持ち上げた。


「エザンが私に尽くしてくれていることはたいへん嬉しく思っている。それでいて、エザンは一生涯私を族長と認めついてきてくれるのであろうと、勝手ながらそう思っている」


 勝手ではない。同じ認識でいてくれることを心から嬉しく思った。

 けれど、


「そうではなく――私ではなく。エザンには、真剣に、ヤシェトのことを頼みたい」


 反射的に「何をいまさら」と答えた。自分がヤシェトの面倒を見ることなど、それこそヤシェトの物心がつく前からの話ではないのか。


「違うのだ」


 タルハンは、今度は少し厳しい声音で言った。


「万が一ヤシェトが同じことを繰り返した時、私は、イゼカ族の和を保つために、ヤシェトにひどく厳しいことを言い渡さねばならなくなる」


 胸の奥底が冷えた。

 その言葉の意味をエザンは考えたくなかった。

 しかし伝わってくる。否が応でも分からされてしまう。


 タルハンは、最悪の場合、ヤシェトとの親子の縁を断つつもりでいるのだ。

 ヤシェトをイゼカ族から追放する気でいるのだ。


「もしも――本当に万が一、そのようなことが起こってしまった場合」


 タルハンも拳を強く握り締めていた。


「お前は、私ではなく、ヤシェトを選んでくれ」


 「頼む」と、タルハンが頭を下げてくる。


「私は不甲斐無い父親だ。ヤシェトに何もしてやれぬ。最後はその責を放り出すことも考えている、最低な親なのだ」

「タルハン殿……」

「だがそれでも、私はイゼカ族の族長として、決断せねばならぬ。父として生きるより、族長として生きていかねばならぬ」


 言葉が出なかった。

 タルハンの重過ぎる決意を、受け止めきれなかった。

 ただただ動揺を呑み込もうと目玉を動かして落ち着く点を探すばかりだ。


 「本当に最悪の場合で万が一の場合だが」とタルハンが繰り返す。


「エザン、お前にしか頼めぬ」


 肩で大きく息をする。


「ヤシェトをどうしてくれようとも、父としての務めを放り出そうとしている私には何の言葉も挟めまい。だがお前だけは、ヤシェトを諫め、導いてくれると、私は堅く信じているのだ。ヤシェトのすべてをお前に託す」


 その様が、タルハンの決意の固さを表わしているような気がする。


「族長としての私の立場と、ヤシェトの後見人としてのお前の立場がたがえるようなことがあるならば、ヤシェトの後見人としての立場を優先してくれ。必ずしも私の意思を汲む必要はない。私は全力でイゼカ族を守る。そのためには相手がヤシェトであろうと容赦はしないだろう。だからエザン、お前だけは、ヤシェトの味方でいてやってくれ」

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