第5話 夕餉の鍋を囲んで

「そういうことだったのですか……」


 湯気を放つ夕餉ゆうげの鍋を囲んで、自宅で待っていた女たちに事の次第を話した。

 アリムやナズィロフにも言葉を添えてもらったというのに、口下手なエザンにはどうもうまく説明できない。

 話し終わった時には鍋がほとんど空となっていた。

 喉を湿らせるために幾度か酒を飲んだが、今宵はなぜか酒の減りが遅いように感じる。


「戦になるのですか」


 蒼い顔をして問い掛けてきたのは、それまで大人しくアリムの隣に控えていたデニズだ。

 エザンの妻であるトゥバがエザンの出陣に慣れたのに対して、デニズがアリムに嫁いできたのは直近の戦が終わった後のことだ。


「まだそうと決まったわけではない。そもそもアルヤの使者がイゼカにも来ると確定しているわけでもない」


 アリムが苦笑して言ったが、デニズは「でも、テュルキアはアルヤの求めを拒んで攻め込まれたのでしょう」と首を横に振る。


「今からアルヤと和平を結ぶことはできないのでしょうか。デニズは戦を見とうございませぬ」

「分からんが、アルヤに膝を折ってやすやすと併呑されるのを待つわけにはいかん。それだけはイゼカの総意としてすでにまとまっていることだ」

「なぜハバシュ様にケルクシャの様子をもっと深くお聞きにならなかったのです。アルヤに膝を折ってもなお暮らしていけるのであれば、デニズはそれでもようございます」

「戦わずして敵の奴隷になるなど、イゼカの戦士の誰が了承できようか」


 アリムの明瞭な言葉に、デニズがすすり泣き始めた。漏れる嗚咽の間から、「そのようなこと」と呟く。


「デニズは女ですもの。家族が――アリム様がお怪我をするかもしれぬというのに、アリム様を戦に送り出すようなことはできませぬ」


 アリムは微笑んだまま首を横に振り、「分かっている」と応じた。


「俺は男だからな。家族が――お前や腹の子が怪我をさせられるかもしれぬというのに、戦に出ずにはいられない」


 デニズがよりいっそう激しく泣き出したので、アリムがその背を撫でるように優しく叩いてなだめ始めた。

 デニズの反対隣に座っていたトゥバも苦笑して、「ほらほら、そのように泣いてはお腹の子に障りますよ」と囁く。


「お前はもう休みなさい、夕食の片付けは私とザリファでしますから」

「申し訳ございません。このようなことでは戦士の妻失格ですわね」

「お前が気にすることではない。今は心穏やかに寝ることを考えろ、俺もすぐに行くから」


 トゥバがデニズの手を引いて立ち上がらせ、天幕ユルタの外へ導いた。

 デニズは最後まで「すみません、すみません」と呟きながら出ていった。


「すまん、あれは最初の子を死産してから気持ちが不安定でな。嫁いできた当初はもっと気丈な女だったが、最近はああやってすぐ泣く。次の子が生まれたらまた変わるだろうから、今は気にしないでやってほしい」


 アリムが詫びながらナズィロフのさかずきに酒を注いだ。

 それまでやり取りを見ていただけのナズィロフが、慌てた様子で「いえ、大丈夫です」と答えた。


「義姉上はお子があって戦に関われぬお体、不安に思われるのも致し方ないでしょう。まして子のために惑う女性を責めるのなど器の小さな男がすることです」

「そう言ってくれるとありがたいのだが」

「それに、少し羨ましいです。義兄上のことを慕われているからああ言うんでしょうに」


 ザリファが隣からナズィロフの肩に自分の肩をぶつけて、「あぁらそれではわたしも泣きながら同じことをおっしゃいましょうか?」と言った。さかずきから酒が零れそうになるのをどうにかこうにか防ぎつつ、ナズィロフが「ザリファはザリファのままで充分だから、そんな無理はせずとも」と引きつった表情で訴えた。


「ちょっとどういう意味ですの?」

「馬鹿娘が。お前は少し黙れ」


 手元にあった酒をあおった。さかずきが空になった。

 戻ってきたトゥバが「お注ぎしましょうか」と言ったが、「いや、今はいい」と制した。


「先ほどのタルハン殿の前ではああなったが、お前たちは本当にこれでいいのか?」

「それはどういう?」

「最後は何とはなしにイゼカの戦士が皆同じ意見であるかのようにまとまってしもうたが、ヤシェト殿やテニズのように腹の中では異論を抱えている者もあるのではないかと思うてな」


 アリムが眉根を寄せた。


「親父は俺が族長の決定に逆らうと思うてか」


 エザンは「そこまでは言うとらん」と答えた。


「しかしおきなも言っておったろう。時代が違うのだ。俺たちの固い頭で決めたことを若い衆がまるまる呑むことはない。若い衆の新しい見方で戦略を直すこともひょっとしたらあるかもしらんぞ。幸か不幸か今は事を先送りせねばならぬ支度の時。話し合うておく時間ももつことはできる」


 「ふむ」とアリムが頷く。


「そうとて俺たちも知らぬことだらけで判断に困るのは同じだ」


 トゥバが明るく笑いながら「あなたがあんまりにも頑固だから家では目立たないだけで、この子もよそでは頭が固い方ですよ、あなたに似て」と付け足した。エザンは眉間に皺を寄せたまま「それは俺も認める」と答えるはめになった。今度はアリムが眉間に皺を寄せて「俺は認めんぞ」と呟く。


「とにかく。先ほどもテニズに言ったが、俺は族長が戦うと言えば戦うし戦わぬと言えば戦わぬ、それだけだ。戦士の務めとはもとよりそういうものだろう」

「俺の教育が悪かったようだな。戦士の中の戦士は戦えぬ者たちの防衛や先の和平交渉も考えて戦う知恵も持たねばならぬ。つまりまことの戦士とはタルハン殿のような武人を言うのだ、俺やお前のように図体ばかりが大きく丈夫なだけの戦士などただの兵に過ぎぬ」

「そうならそうともっとはよう言ってほしかったな、尊敬する父上の背ばかり見て育ったがゆえ、いまさら気性を変えることはできんわ」

「口だけはよう回る、そこだけ母に似よった」


 トゥバが素っ頓狂な声で「どういうことです」と言ったが、エザンは無視して「して、ナズィロフは」と問い掛けた。ナズィロフは笑いを引きずったままで「父や戦士の皆の前で述べた通りです」と答えた。


「僕もイゼカの戦士たちが如何いかに強く勇猛果敢か知っておりますゆえ、アルヤなどに簡単に膝を折る必要はないと思っています。ただ、相手が他のチュルカの部族を併呑しているのならば多少の不安もあります。ケルクシャ族とテュルキア族の他にもいくつかの部族を配下に置いているのであればなおさら」

左様さようか」

「すぐに事を構えるのは賢いやり方ではない。アルヤの使者が来たら慎重に話し合いをすべきです。内密に戦支度をするのも必要なことかと思いますが、そうとは知られぬようにして、表向きは友好的であるべきかもしれない。父が如何いかなる手で話を引き出そうとするかは分かりませぬが、我々はまず黙ってアルヤの話を聞くべきでしょう」


 エザンは「さすが」と頷いた。ナズィロフは「父の言ったことを僕なりにまとめただけです」と返した。しかしエザンはナズィロフのそういう控えめな態度もかっているのだ。

 ただ、そうと思うたび、そんな兄からはかけ離れていく弟の態度を思い出してしまう。


「ほら、また今、溜息をついて。あなたは少し悲観し過ぎなのではないんですこと?」


 トゥバに指摘されたが、エザンには、「そうせずにはいられんのだ」と返す他なかった。


「俺は知恵が足りぬ分いつも最悪の事態を考えて行動せねばならん」

「あなたが思う最悪の事態というのは、今度はいったい何なんです」

「ヤシェト殿のことだ」


 エザンが言った途端、アリムとナズィロフが顔を見合わせた。二人も天幕ユルタを出ていったヤシェトの様子を思い出したに違いない。


「そういう父君や兄君の思惑を無視して、イゼカの誇りを振りかざし、アルヤの使者に斬りかかってしまいやせんかと。そんなことをすればアルヤに攻め入る口実を与えることになる」


 彼の気性はそれくらい激しい。しかもそれを制御できる人間は思いつかなかった。タルハンやナズィロフでさえ持て余している。


 ナズィロフが申し訳なさそうに首を垂れ、「僕が至らないばかりに」と謝った。


「あいつは皆がニルファルに構ってばかりで自分は構われておらぬと拗ねているのです。誰よりもこどもです、情けない。僕がもっと厳しく性根を叩き直しておけばこんなことには」


 エザンはすぐさま「そなたのせいではない」と断言した。

 むしろ責められるべきは自分だ。自分がビビハニムの命を貫けていないがためにこのようなことになっている。


「ヤシェト殿とて一応成人の儀を済ませた身、そこまで軽率な行動には出ぬと思いたいのだが……、今日のあの様子ではどうもそうとは言い切れん気がしてな。アルヤの使者がイゼカに辿り着く前に話をしたいものだが」

「父がすべきことです。父親として、また族長として、我が父タルハンの責で行なわれるべきことですよ。義父上がそこまで気に病むことではございますまい」

「いや、それは俺の務めだ。この俺がヤシェト殿を立派な戦士にすると約束したのだ」


 あの時、ビビハニムは彼を自分に託したのである。

 他の誰でもなく自分が、ヤシェトを託されたのだ。

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