第4話 無知であるということ
「ち……、父上、兄上」
大勢の戦士たちの前だからであろうか、ニルファルがたどたどしくも
三人が振り向く。
「あの、恥ずかしながら、わたしは
不安げに問うてきたニルファルを、ヤシェトが鼻で笑った。
「チュルカ人の部族でないことは知っていますが……その者たちは、どれくらい馬を持っていますか」
「普段は生意気な口を利くくせに、このような時に弱腰とは情けない」
エザンは「ヤシェト殿」とたしなめた。衆目の集まる場で次期族長を辱めることは口にすべきではない。
「だいたい次期族長としてそのような態度は恥ずかしくないのか。皆が見ているというのに、
しかしヤシェトは知らん顔をしている。ニルファルが顔をしかめて次兄を睨みつけたが、ヤシェトが弟を振り向くことはない。
どうしたものかと悩んだ。
できることならこの場でヤシェトを殴りつけたかったが、それこそ衆目の場である。
自分はあくまで族長に仕える一戦士だ。
いくら族長夫婦直々にヤシェトの教育を任されたと言えども、普段行動を共にしない同胞たちの前で族長の息子の尊厳を
「恥ずかしいのはお前だ、ヤシェト」
エザンの代わりにヤシェトを叱ったのはナズィロフだ。温厚な彼にしては珍しい厳しさで「恥を知れ」と言った。
「お前は今、
ヤシェトが「何だと」と言って立ち上がり、ナズィロフにつかみかかろうとした。
ナズィロフも気が立っているのか、それとも普段から上の弟に対して蓄積してきた怒りが
ニルファルが「ちょっと、ヤシェト兄さん!」と怒鳴ってヤシェトの腹を後ろから抱え込んだ。だが体格はニルファルの方が一回り小さい。
エザンも慌てて立ち上がり、ニルファルの後ろからヤシェトの腕をつかんだ。ヤシェトが「離せ」と怒鳴るが、まだ成長期の彼ではエザンを振り切ることはできない。
イゼカ族とはもともと血の気の多い連中だ。周囲の戦士たちはむしろ楽しそうな様子で「いいぞいいぞ」「やれやれ」と囃し立てている。エザンとニルファルに加勢してくれる者はなかった。
「座れ」
ナズィロフとヤシェトがとうとう向き合って互いの襟首をつかんだ辺りで、他ならぬ族長のタルハンがたしなめた。
ヤシェトは「では外で続きをする」と言ったが、ヤシェトの性格を見通しているタルハンがわざと「ナズィロフ、お前はもういいだろう」と長男の方に振る。
ナズィロフは苦虫を潰した顔で頷いた。
「お客人の前で、失礼し申した」
しかしハバシュは硬かった表情を寛げ、「結構、結構」と手を振った。
「かたじけない。息子たちが無礼を」
「このぐらいの年頃では兄弟喧嘩の一つや二つせねば強い戦士になれませぬ」
「しかし特に次男はそれしか取り柄がのうてな。まったく、しつけの腕のなさを披露したようなもの」
タルハンは、まだ立ったまま不服そうに父と兄弟を見下ろしているヤシェトに、「今のはお前の過ちだ」と諭した。
「ニルファルはまだ数え十二だ、成人の儀も
ヤシェトの顔が真っ赤に染まった。自尊心の強い彼のことだ、皆の前で叱られ辱められたと思ったに違いない。拳を握り締め、唇を引き結ぶ。
タルハンがそんなヤシェトにこれ以上語りかけることはなかった。
ニルファルの方を向き、「お前を商いに連れていかなかったのは、お前がまだ幼く異人に会うには少し早過ぎると判断した私の過ち、詫びねばならぬな」と囁くように語った。
ニルファルは首を横に振ったのち、姿勢を正して「父上のご判断はごもっともです」と答えた。
「アルヤ人も馬を飼ってはいるが、彼らは常に馬で移動しているわけではない。ずっとひとところに住み、大地を耕し、穀物や果物、綿などを育てておる」
「そのようなこと、可能なのですか?」
「アルヤ人の住んでいる土地の土は豊かだ。泉や川に富んでいて、種さえ撒けば芽が出る。それに、食物や衣類に使うための植物を育てる場所の他に何も生えぬとても広い道も整備しておってな、遠い東西の果てから人々が珍しい品々を持ち寄って商いをするのだ。平原の我々のそれなど比にならぬ。たいへん豊かだ」
「想像できませぬ……」
そう呟いてから、「では、彼らは馬をいつ何に使うのですか」と尋ねた。タルハンが「土を耕す時と戦をする時だ」と答えた。
「彼らも馬に乗って戦いますか」
「
「されば戦は我々の方が有利なのではないですか? 我々より速く駆けることができぬアルヤ人が我々に勝てますか。我々の方が強ければ、さほど強気に出ることはできません」
そんなニルファルの言葉に、
タルハンが苦笑する。
「私とてそう思いたいところだ。だが、先ほども言うたように、アルヤ人は物が豊かだ。子も皆育つから人がとても多い。数で押されたら敵わんな」
二人の会話にヤシェトが割って入った。
「数で押すような卑怯者に誇り高きイゼカの戦士が負けると
途端、数人の戦士たちが立ち上がって「そのとおりだ」と叫んだ。ヤシェトの言葉に感銘を受けたようで、「我々もヤシェト殿とともに戦うぞ」と言い出した。
「我らが弓を引いて外したことなどございますまい、まして馬に乗れぬ連中が相手ならなおさら」
「戦をろくに知らぬ軟弱者どもが攻めてきたとて、歴戦の我々がやすやすと敗れるはずがござらぬ」
今度はヤシェトが得意げな顔をした。ヤシェトの顔を見てニルファルがまた顔をしかめる。
「ヤシェト兄さんはまた簡単にそのようなことを言って! 兄さんも実際の戦の場に出たことはないのに」
「おれはお前のような甘ちょろい奴とはわけが違うのだ」
ナズィロフが「ヤシェト」とたしなめる。しかしヤシェトは聞かない。
「それとも親父殿は族長でありながら配下の戦士たちの力が信じられぬと
タルハンは何も言わなかった。代わりにナズィロフが「そんな簡単な話ではない」と叱ったが、ヤシェトは無視をした。
「どうもこうもない。アルヤから使者が来た際には、ケルクシャのような腰抜けどもともテュルキアのような間抜けどもとも異なる真の戦士の部族イゼカだ、戦わずして国を盛り上げるアルヤなんぞに膝は折らぬと追い返せばいい。挙兵をするなら応戦すればよいだけ、目にものを見せてくれるわ」
「他にどのような手があると? 親父殿はアルヤなんぞに屈するおつもりか?」
迫ってきたヤシェトに、タルハンが首を横に振る。
「むろん父もイゼカをアルヤに渡す気はない。イゼカの戦士たちが馬に乗り慣れぬ相手に負けるとも思わぬ」
「では何をためろうておいでだ」
「ヤシェト。だからお前は考えが浅いと言うのだ」
堪忍袋の緒が切れたようだ。ヤシェトが「
「しょせんおれの考えなどどうでもいいのだろう!? 親父は兄貴とニルファルだけいればいいんだからな!」
そう言い捨てると、彼は
エザンは慌てて追い掛けようとしたが、立ち上がろうとする前にタルハンに「よい、エザン。放っておけ」と言われてしまった。代わりに何人かがヤシェトを追い掛け一緒に外へ出ていった。
残った中から一人、エザンと同じくらいの年の戦士が前に出てきた。そして「族長殿」と声をかけてきた。
「僭越ながら拙者もヤシェト殿と同じ意見にござる。
「繰り返すが、私はアルヤに下るとは言うておらぬぞ」
「しかし拙者の目には族長殿が少し気弱に映り申す。ご子息が心配され激昂なさるのもやむを得まいと」
そこにまた別の人物が入った。もうすでに髪のほとんどが白髪の老兵だ。長老たちのうちの一人である。
「そなたやヤシェト殿の言いたいことは分かる。わしも何十年と戦士として生きてきた一人だ、老いたと言えども簡単にやられる気はない。最期をどこぞの奴隷として迎えるつもりは毛頭ないわ」
「
「さりとてたやすく頷けぬ。わしがもっとも戦えた頃のアルヤと今のアルヤは違う」
一呼吸を置いてから、懐かしむように遠くを見ながら語る。
「わしの祖父の頃のアルヤは、また別の民族の隷属民であった。ゆえにとりたてて目をかける必要もない弱小民だと思うていたのだ。だが、突然独り立ちしよった。この百年もない間に、いきなり力をつけよったのだ。しかも聞けば草原の南ぎりぎりのところまで畑を広げているという。
タルハンが「
「まして相手はすでにケルクシャ族とテュルキア族を傘下に入れておる。加えてもともとアザリ族などとは同盟関係にあると聞く。万が一挟み撃ちにされようものなら不利な戦を強いられよう」
場に緊張が宿った。
もはやタルハン以外の誰も口を利かなかった。
「しばし時を待つべきか」
結局、タルハンはそう言った。
「ティズカがキズィファへやった使者の帰りを待ちたい。同時に、まだイゼカのもとへ実際にアルヤの使者に来たわけではないのだ、この目で
すべてを留保した、煮え切らない結論ではあった。
だが、現状では致し方ない。
エザンはアルヤが他の部族を併呑していると知ることができただけでも良かったと思うことにした。先ほどタルハンがヤシェトとニルファルに諭したとおりだ。何も知らずに判断して誤ることほど恐ろしいものはない。
タルハンはハバシュに向き直り、「何も即答できぬ状態でかたじけない、かような事態はイゼカにとっても未だかつてなかったことなのだ」と告げた。
ハバシュは
「イゼカとしては変わらずティズカを支援していきたいと思うておる。ティズカも無体にやすやすと屈することはない。だが、相手の手が見えぬ以上こちらもおいそれとは動けぬし、ティズカにおいても安易な戦は避けていただきたい。万が一アルヤがティズカに攻め入ろうものならイゼカはティズカの味方につきとうござるが、同時に和平を提案し、できうる限り穏便に済ますよう振る舞うと見ていただいて結構」
「
そこで、タルハンが急にエザンの方を振り向いた。
突然目が合ったので、エザンは驚いて体を硬くした。
「エザン、場をお開きにする前に、念のためそなたの考えも聞いておきたい」
「イゼカの一の戦士たるそなたとしては
しかし、エザンの中では答えが決まっていた。エザンの答えはいつも一つだ。
「不肖このエザン、武人であり武人でしかござらぬ。
「
タルハンがわずかに表情を寛げて、「頼りにしておるぞ」と言う。
エザンは
タルハンは戦士たちに改めて「そなたたちも異論があれば今言うてほしい」と問い掛けた。
答える者はなかった。文句のある者は皆ヤシェトと出ていってしまったのか、残った老戦士たちは族長の前では文句を言いにくいのかもしれない。
エザンはタルハンの判断に過ちなどないと信じている。ここで誰かが何かを言って正そうとせずともすべては良い方に向かうであろうと一人頷いた。
父と気持ちが通じているのか、エザンの一歩後ろから、「異論などございませぬ、自分も族長の戦の合図を待つのみです」と言うアリムの声が聞こえた。
アリムのその言葉を聞いてか、何人かの若い衆も「
エザンは安堵した。アリムが応と言えばアリムと同世代の戦士たちも応と言うらしい。
子の代がアリムの下でまとまりつつある。自分自身はヤシェト一人制御できぬ武骨者だが、跡取り息子には恵まれた。
「では、
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