第1章 新しい時代の足音が聞こえる

第2話 イゼカ族の子供たち




 光陰矢のごとし。

 十一年の月日など瞬く間に流れ、いつまでも幼子だと思っていた子供たちも次々と結婚し出した。

 ついこの間最初の子である息子が嫁を迎えたばかりのはずだったが、三日前、二番目の子である娘もとうとう婿を取った。

 表向きは祝いつつも内心は複雑だ。

 道理で自分も老けたわけである。


 天幕ユルタの前に椅子を置き、足の爪をやすりで削る。

 削りながら、遠い山々の稜線を眺める。


 この辺りは草原とは名ばかりの沙漠だ。見渡す限り乾いた大地が続いている。生える植物は肉厚の葉をつける灌木かんぼくと草だけであり、はるか彼方かなた地平線まで眺めることができた。

 しかも今は秋も深まった頃。灼熱の夏を越しわずかばかり優しくなる太陽の下育った緑も、馬や羊が食べ尽くして、次第に土と砂礫に戻ってきていた。


 そろそろ移動の時機だ。


 天幕ユルタの中から怒鳴り声が聞こえる。

 女のわりに野太く響くこの声の持ち主は、エザンの妻であるトゥバのものだ。


「ほら、ザリファ! 赤子の肌着の刺繍をするからお前も来なさい! お前だってすぐにでも子を授かるかもしれないんですからね」


 外で婿と二人なめした羊の革を広げていた娘のザリファが、「ちょっと、そんなことを大きな声で言うのはやめてよ!」と抗議しながら天幕ユルタの方へ来た。

 そしてすれ違いざま、「お父さん、そこにいると邪魔」と言い捨てた。

 エザンは言い返すこともできずに天幕ユルタの内へ入る彼女の背中を見送った。


 彼女の婚礼の儀のことを思い出す。

 花嫁衣装で澄ましているのを見た時は、彼女もとうとうおとなの女になるのかと思い涙したものだ。

 今となっては涙を返してもらいたい。


「奥方とご息女の手にかかれば、イゼカ一の戦士も、普通のお父さんですね」


 そう言って笑ったのは、先ほどまでザリファと羊の革を広げていた婿のナズィロフだ。

 小刀で革を切り始めた彼を眺めつつ、溜息をつきながら「気をつけられよ」と忠告する。


「トゥバとて二十年も前はエザン様がお怪我でもなさったらトゥバは死んでしまいますだの何だの言うており申した。ザリファはこれでもかと言うほどの母親似でございますれば、一年やそこらで態度を翻すに違いあるまい」

「あはは、楽しみにしています」

「エザンは今かたじけない思いで胸がいっぱいでござる。うちのカカァが拙者にするように、うちの小娘がナズィロフ殿を役に立たぬと申すような日が来たらばと思うと」


 前髪が後退してやたら広くなってしまった額を押さえたエザンに、ナズィロフは「よしてください、義父上」とたしなめるような声を掛けた。


「僕はあなたの息子となったのですから、僕が義父上を敬いこそすれ、義父上が僕にそのような言葉を使うのは」


 言われてから気づいて、「かたじけない」と深く頭を下げた。ナズィロフが「またまた」と手を振った。


「む……慣れぬ。こればかりは如何いかんともしがたい」

「まだ三日目ですから。でもじきに慣れます、義母上はすでに僕を義兄上と変わらぬ扱いをしてくれます」

「あれは神経が太いのだ。だいたい族長の長男に対してうちのアリムと同じ扱いとは無礼な」

「いいんです、僕が望んで婿に来たんですから」


 エザンは感動で言葉を失った。自分の娘にはもったいない婿を貰ったものである。


「エザンっ!」


 遠くから名前を呼ばれた。

 顔を上げると、他の天幕ユルタの方からひとりの少年が走ってきていた。

 そしてその後ろを、青年が落ち着いた足取りで追い掛けている。


 革帯に取り付けた小物入れにやすりをしまい、長靴を履き直した。膝に手を置いて彼らに向き合った。

 ナズィロフもまた革から手を離すと、立ち上がって彼ら二人を迎えた。


「ニルファル、義兄上!」


 最初に辿り着いた少年――ニルファルは、彼自身とよく似た長兄の顔を見て、「ナズィロフ兄さん」と呟いて手を伸ばした。

 ナズィロフは苦笑して弟の手を取り、「そんな顔をしてどうした」と、囁くように言った。

 何かを振り切るように首を振る。表情を引き締める。ナズィロフから手を離す。


「父上がエザンを呼んでくるようにとのことです。あと、兄さんも。戦士をみんな集めるようにと言われて来ました」


 エザンは眉間に皺を寄せ、ニルファルの後ろに立つ青年を見やった。

 一人腕組みをしながら立っているのは、エザンの息子アリムだ。


「族長がお呼びとな?」


 アリムが頷く。


「ティズカ族から使者が来た。イゼカ全体で話を聞いてほしいと言っている。ティズカ族族長がずから書いた文も持参していると聞いた」

「どうも良い話ではないようなんです。父上がいつになく険しい顔をしていて……」


 ニルファルが一度うつむいてから、拳を握って顔を上げる。


「すぐに来てくれませんか? エザンが来てくれれば、父上は安心すると思うんです」


 エザンはすぐさま立ち上がると、「応、すぐに馳せ参じ申す」と頷いて、ニルファルの頭を撫でた。

 ニルファルは「よしてください、ボクももう小さい子ではないんですからね」と訴えたが、その表情はいつものあどけない笑みに戻った。


「そんなにご心配なさらずとも、文で伝えるような話に急ぎの事情などござらぬ。お父上は族長として一族を心配せねばならぬお立場、部外者が立ち入ればいつでも緊迫なさるもの。ニルファル殿が恐るるには足らぬはず」

「そう、ですよね」

「いざという時はニルファル殿もナズィロフ殿もこのエザンとアリムがお守りし申す。そんな顔はなさるな」


 ニルファルは「はい」と頷いた。

 けれど次の時にはまたうつむき、一つ息を吐いた。


「ただ、その……、ぼくが心配なのは、どちらかと言うと――」


 その瞬間だった。

 突如、エザンとナズィロフの脇を何かが通り抜けた。

 とっさにアリムがニルファルを押し退け左手を伸ばした。


 エザンは眉間の皺をさらに深くした。

 息子の左手がつかんだのが、イゼカ族の矢羽を使った立派な一本の矢だったからだ。


 矢の飛んできた方から、小走りで近づいてくる足音が聞こえた。


「あっ、アリム! 悪い、返してくれ! あとくれぐれもエザンには内緒にし――ておいてほしかったのだ……が……」


 アリムが「残念だったな」と言いながらその矢を差し出した。

 しかし持ち主の手に渡る前にエザンがそれをつかんだ。

 真ん中から音を立てて二つ折りにした。


 振り向いた。

 すぐそこで、先日成人の儀を執り行なったとは言えまだ幼い面立ちをした少年が、草や泥をつけたままの顔を蒼ざめさせていた。一歩ずつ後ずさっていた。


「何をなさっていた」

「あっ、あの――」


 彼の背後では、彼と戯れていたとおぼしき少年数名が慌てた様子で向こうの方へと駆け出している。

 誰も彼も草や砂で頬や服が汚れている、相撲でもとっていたに違いない。

 それで、彼だけが弓を手にしているということは、いったいどういうことか。


「また戯れでそんなことを……!」


 彼も一緒に逃げ出そうとした。

 しかしエザンは腕を伸ばして彼の襟をつかんだ。

 彼の足が宙を蹴り、体が前につんのめった。

 だが、転ばせてなどやらない。

 強引に起こして立たせてから、拳を振り上げた。

 彼が「いでっ!」と叫んだ。


「弟君が一生懸命働いておいでだというのにヤシェト殿は何をなさっておいでか!」

「わあっ、ごめんなさいっ!」


 「そんなに殴るなよ」と言って彼――ヤシェトが、頭上で両腕を交差させる。

 その顔立ちは兄や弟と非常によく似ているが、中身だけはなぜかまるで違う。


「もう、捜したんですからねっ」


 ニルファルが腰に手を当て、ザリファが彼らにしているように次兄を叱りつけた。


「あと、あまりエザンに迷惑をかけないでください。父上にも言われているでしょう?」

「エザンはこう見えておれが可愛くて仕方がないからいいんだ」


 もう一度ヤシェトの頭を殴った。

 ヤシェトが涙目で「そろそろ頭の形が変わるぞ」と睨みつけてきた。懲りていない。

 いったいいかにしてビビハニムに詫びればいいのだろう。


「ほら、お父上がお呼びだ! ご自身の足で歩かれよ、エザンはそこまで面倒を見る気はござらぬ!」


 外を向きながら舌打ちをされたので、エザンは結局ヤシェトの手首をつかんで引きずり始めた。ヤシェトが「肩が抜ける!」と騒ぐが構わない。溜息をつきながら族長の天幕ユルタへ急いだ。

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