草原を吹き渡る風の記(旧題:ダシュテダースターン)

日崎アユム/丹羽夏子

序章 風は吹いているか

第1話 プロローグ

 空は晴れていた。

 雲一つなく澄んでいた。

 太陽だけが輝いている。

 太陽が我が物顔で空を支配している。


 しかし風はおくすることなく自由に吹いている。


 風の息吹を感じて、エザンは目を閉じた。

 強すぎる光はまぶたを通じてなお見えたが、そんなまぶたを押す風は強くも優しくエザンを撫でる。


 思えば、昨日も、昨月も、昨年も、空はこんな風に晴れていた。

 ずっと前から晴れていた。

 空はいつでも晴れ渡り、大地を包み込んでいた。



 あの誓いを交わした日もそうだ。


 十一年前のあの日のことを思い出した。



 エザンは急いで産屋に向かっていた。

 小さく古い天幕ユルタだ。族長の妻ビビハニムが臨月を迎えたがために用意されたものだった。


 いつものように晴れた空の真下、族長の子ヤシェトを抱え、エザンは冷や汗をかいていた。


 ヤシェトは不満げな顔をしていたと記憶している。当時のヤシェトは数え三つ、もうすぐ弟か妹ができると言い聞かせてはおいたが、そうするとどうなるのか、実のところは分かっていなかったらしい。

 何をそんなに急いでいるのかと舌足らずな声で尋ねてきてはもたついた。

 いちいちヤシェトの問いに答えている余裕は、その時のエザンにはなかった。


 産屋に男、それも夫以外の成人男性が入るのは、本来は戒められてしかるべきことだ。まして相手はとりわけ敬意を払わねばならぬ族長の妻である。

 しかしその日は他ならぬビビハニム自身がエザンを呼んでいた。


 生臭い香りが漂う中、ビビハニムは蒼白い顔で横たえていた。

 声も出せずに、エザンはただ彼女の傍らにひざまずいた。


 ――戦士エザン。


 蒼ざめた顔をしながらも、ビヒハニムは毅然としていた。


 ――貴方に頼みがあります。


 エザンはかしこまって首を垂れ、何なりと申しつけるよう答えた。

 何ゆえ自分を呼んだのか教えてほしいとか、何も仰せにならなくていいからとにかく休んでほしいとか、口にしたいことはたくさんあったが、エザンには他に何も言えなかった。


 ――次の族長となるのは、おそらく、今ここで眠るこの子でしょう。この子は長い時間を耐えた強い子です。まして次の族長とあればなおのこと、皆に慈しまれて育つでしょう。


 赤子を撫でる彼女の手は、細かく震えていた。


 ――だからこそ、私はヤシェトが心配でならぬのです。


 名を呼ばれ恐れをなしたらしい。ヤシェトがエザンの背中に身を寄せた。

 そんな息子のさまを見て、母は穏やかに目を細めた。


 ――ナズィロフは利発で聞き分けの良い子です。けれどヤシェトはこのとおり。私亡き後も族長の子としてやっていけるのか、私は心配でならぬのです。


 この時エザンも二児の父親であった。

 しかし母親とはなんと強いものか。

 彼女はすでに己がさだめを悟っている。さだめを受け入れてこそ我が子の将来を案じている。


 ――そこでお願いです、戦士エザン。


 己が戦士としての強さなど、彼女の母としての強さを前にしては、沙漠の小石の一握に過ぎない。


 ――貴方は夫が唯一心からたのんだ戦士です。その貴方にこそ私はヤシェトを託したい。どうぞ貴方がヤシェトを育ててください。他ならぬ貴方の手でヤシェトを戦士にしてください――


 それが彼女の最期の言葉となった。


 そのやり取りからほどなく、ビビハニムは息を引き取った。

 だが、エザンは動揺しなかった。

 部族の皆が皆悲嘆に暮れている中、エザンだけが冷静に葬儀へ参列した。


 彼女が天へつことは、エザンにとってはすでに分かっていたことだ。別れの挨拶も悲しむ時間も充分に頂戴した。

 もはや彼女はない。塞ぎ込んでいる場合ではない。早急に頭の中を切り替え、ヤシェトの教育に心血を注がねばならぬ――固く誓って、ビヒハニムが鳥たちに連れられて死出の旅へ赴くところを見送った。



 今となっては、何もかもが懐かしい。

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