「検査なんか聞かなきゃよかった…」

愛梨は残酷な現実を突きつけられ悲嘆に暮れていた。

愛梨の時代は30年前よりも科学が発達し、あらゆる人間の要求に応じてきた。

その要求の一つに正確性があった。人は不確実な情報に惑われることを嫌った。合理性を、忠実性のある情報を求めた。その結果、科学は現実の現象を再現する技術を発展させてきたのだ。しかし、それは同時に人間にとってはパンドラの匣を再びあけてしまう意味をも含有していた。パンドラの匣の底に残っていたエルピスすらも外に出そうとしているのだ。人間は未来を知ることができなかった故に、無限に可能性を信じることができ、絶望をせずに済んでいた事実が崩壊しつつあったのだ。

愛梨はまさに絶望の淵に立たされていた。自らの未来を知ってしまったが為に。

未来を見るという行為を通じて、白紙の未来は汚れてしまったのだ。

愛梨は考えた。人に希望が残されたことで、すべてを諦めて運命を享受することができなくなったから、人類は希望とともに苦しみ続ける宿命の星に生まれたんじゃないかと。

だったら最初から希望なんていらなかった。こんなに苦しみたくなかった、と。

愛梨はすっかり精神を摩耗していた。そんな時、電話が震え出した。

父からの着信であった。

電話に出て聞こえてきた父の言葉は、あまりに簡潔であった。

「愛梨、お前に聞きたいことは一つだ。母親になるのか?」

あまりに短い言葉だった。父が何を聞きたいのかわからなかった。彼女は沈黙を貫いた。

「質問の仕方が悪かったか。言い換えよう。お前、子供が欲しいのか?欲しくないのか」

「もちろん欲しいに決まっているじゃない!子供を授かった私がどうして欲しくないなんて言えると思うの!でもこの子は異常を持ったまま生まれるって言われたのよ!しかも次の子供は望めないって‼それじゃあ産んでも産まなくても私お父さんたちに元気な孫の姿なんて見せられないじゃない!私どうすればいいのよ…」

父の淡々と出る言葉が気に食わなくて、愛梨は激情に任せて自らの思いの丈を打ち明けた。

「よかった。まだ俺に歯向かうだけの元気はあるようだな。さすがは瑠奈の血を引いてるだけはあるな。」

「何笑っているのよ!こっちは真剣に悩んでいるってのに‼」

「何にだ?」

「え?」

「何に悩んでいるっていうんだ」

「そ、それは」

父からの質問に愛梨は虚を衝かれていた。

「え…そりゃお父さんたちに健康な孫の姿を見せられないから…」

愛梨は答えるので精一杯であった。

「私達のことは構う必要はない。お前はどうしたいんだい?お前は子供が欲しいのか」

その言葉はあまりに青天の霹靂であった。

「子供は欲しいよ、でも…」

「子供を産みたくないならそれでもかまわん。養子縁組をすれば子供は貰える」

「私はが欲しいの!」

愛梨は驚いた。自分が発した言葉に。

「ようやく本音をひきだせたな。なら産みたいんだよな?」

「でも遺伝子に異常が…」

「生まれてくる赤ん坊は、健康であるのが当たり前なんて誰が決めたんだ?」

電話の向こうから聞こえているはずなのに、その声はまるで目の前から父の声が直接聞こえたかのようだった。ガツンと頭に響いた。

「お前は『完璧』を求めすぎだ。人はこうあるべきだなんて理想はな、ただの現代の風潮だ。お前は何をもって幸福な人生とするかを親が定めることが出来るとでも思っているのか。お前は科学を信頼しすぎだ。科学は日常生活にとって必要不可欠なものか?科学が人間のあるべき姿を提供してくれると思っているのか?違う。科学なんてものはまじないみたいなものだ。あった方が日常生活を円滑にする。けれどな、日常生活に科学を組み込みすぎるとどうなると思う?人は科学に頼りすぎて科学は人にいいように使われて共依存構造を構築するんだ。科学は生き物だ。科学との付き合いは『ヤマアラシのジレンマ』でないといけないんだ」

将暉は口を止めることなく、只管に熱いパトスを迸らせていた。

「お父さん、話が難し過ぎだよ」

愛梨は安心していた。こんな時でもお父さんはお父さんだ、と。

父はぐうの音も出なかったようで、立て板に水を流すようすらすらと出ていた言葉を止めた。相変わらず熱くなりやすい正直な人だと安堵した。

「お父さんはこう言いたかったんでしょ?た…胎児に…」

安堵感から愛梨は次の言葉を続けようとした。しかし言い淀んでしまった。

何故ならそのフレーズは、その質問は、自らが問う者であると同時に、解答者であることを悟ったからである。しかし優柔不断であることに耐えられず、心は叫んだ。

「『胎児に異常があるからといって、お前に殺す権利があるのか?』って…」

刹那、そこには静寂しじまが訪れた。

愛梨は自分が発した言葉だというのに、それが自らを戒める鎖のようにきつく縛っていく感触がした。冷たさしかないこの問いに、凍えていく気がしていた。

しかし、そこに福音の鐘がなった。

「お前はこの質問に正直に答える必要はない。ただな、わかってほしい。人間らしい、あたたかい、まっとうな心をもつお前ならどう決断する?」

「お前なら…?」

愛梨は父の言葉を反芻し、茫然とした。

「産む産まないの判断はお前が決めることだ。まぁ今の話を聞いた限りだとお前は産むんだろうがな。だがどちらの判断にせよ覚悟を決めろ。お前はどちらの道を進んでも苦難の道だからな。ただ、お前はどっちがお前らしい決断かよく考えてほしい」

電話の向こう側から自ずと浮かんだであろう笑みが聞こえた。

愛梨ははっと我に返った。

(「自分らしく生きる」…そんなことを今の私は忘れていたの?)

その瞬間、絶望の淵から翼を得て飛び立たんとする音が愛梨の中に響きわたった。

「お父さんありがとう。お父さんが言いたいことは何となくわかったよ。『私はかもめ』よ。自由にはばたいてみせるわ」

「それでこそ、俺と瑠奈の娘だ」

「ありがとうお父さん。最高の褒め言葉よ」

愛梨はふふっ、と笑ってから電話を切った。

(「じゃあまたね」なんて言いたくないわ。)

しかし、愛梨は名残惜しくなったからか、ただ一言だけ呟いた。

「恥ずかしいこと言わないでよ、馬鹿親父」

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