第五話 かすみ はじめてたなびく

霞始靆その一 天真爛漫黒姫


 その日の午後は珍しく浜へ行く気にはなれませんでした。午前のお稽古事が終わり昼の食事を済ませば、昼寝もそこそこにして外へ飛び出していくのが普段の恵姫です。ところが今日は、まるで頭の中に霞が棚引いているかのように、ぼんやりとして気力が湧いてこないのです。


「絵草紙でも読むかのう」


 座敷の物入れをガサコソ探して恵姫が取り出したのは『真鯛親方栄花夢まだいおやかたえいがのゆめ』。これも江戸在住の殿様に頼み込んで手に入れたものです。

 本来なら『赤鯛黒鯛釣合戦』と同じ時期に届くはずだったのですが、こちらの絵草紙はなかなか手に入らず、左義長の翌日、ほんの五日ほど前に届いたばかりでした。前回の絵草紙ほどではありませんでしたが、これもそこそこ面白いので、ここ数日は暇さえあれば毎日読んでいます。


「少し暗いのう、障子の近くで読むか」


 まだ夕刻でもないのに辺りは随分薄暗く感じます。雲が厚く垂れ込めているせいでしょう。縁側に面した障子の近くに寝っ転がると、パラパラと書をめくり始める恵姫。磯島に見つかろうものなら小言を食らいそうな行儀の悪さです。


「……頭に入らぬのう」


 少なく見積もっても五十回以上は読んでいるので、絵草紙の中身は全て頭に入っているはずです。これ以上頭に入れるものがないのですから、頭に入らないのは当然なのですが、頭に入っている内容も思い出せないほどに、今日の恵姫はぼんやりとしているのでした。


「うむ、頭に入らぬのは暗くてよく見えぬせいじゃな。障子を開けるか」


 恵姫は寝っ転がったまま右足を曲げ、障子の下桟の縁に足の指を掛けると、背を向けたままズルズルと障子を開けました。もし磯島に見つかろうものなら小言を食らうだけでなく、尻叩き十回は食らいそうな行儀の悪さです。

 恵姫は人の眼も気にせず、寝っ転がったままで絵草紙を眺め続けました。


「めーぐちゃん!」


 しばらくして背後から声が掛かりました。振り向くと縁側の向こうに誰か立っています。質素な柄の筒袖と帯。髪は恵姫と同じく結っていませんが、その長さは肩を少し超えるくらい。日に焼けた手と顔が健康的な印象を与える若い娘。恵姫は絵草紙を投げ出して、がばりと身を起こしました。


「おお、黒ではないか。来ておったのか」

「父が登城するので、一緒に付いてきちゃいました」


 中庭に立っていたのは黒姫。城下一の大庄屋の娘にして恵姫の二つ上の従姉妹です。数少ない恵姫の親類であり、また幼い頃からの遊び相手の一人でもありました。

 恵姫は縁側に出ると黒姫の手を取りました。


「いつ来たのじゃ。声を掛けてくれればよいものを」

「そうしようと思って縁側に近付いたら、障子がひとりでに開くのよ。え、誰も居ないのにどうして開くのって思ったら、寝転がっためぐちゃんが足で開けているじゃない。びっくりしちゃった。しかも、その後も足先でふくらはぎを掻いたり、足首をコキコキ鳴らしたり、足裏で座布団を蹴り上げたりするのが面白くて、黙ってずっと見ていちゃった。めぐちゃん、相変わらず愉快だね」


 恵姫の背中に冷汗が流れました。自分にはそんな事をしていた覚えがなかったからです。どうやら無意識のうちに行なっていたようです。


『うむ、これからはどんなに暗くても障子を開けるものではないな。肝に銘じておこう』


 恵姫はそう心に決めると、黒姫の手を放しました。


「まあ、こんな所で立ち話もなんじゃし、座敷にでも上がってくれ。今、茶を淹れさせ……」

「とっくにお持ちいたしております」


 背後からお馴染みの声。振り向くまでもなく磯島でした。恵姫の背中に、更に冷汗が流れました。


「す、少し来るのが早いのではないか、磯島。まだ茶を持ってこいとは言ってはおらぬはずだが」


 冷汗を流しながらも努めて冷静を装う恵姫に、黒姫が済まなそうな顔で言いました。


「あっ、それはね、めぐちゃん。実は中庭に入る時に、磯島様とばったり出くわしちゃったのです。それで、『めぐちゃん、じゃなくて恵姫様はおみえですか』って尋ねたら、『座敷におられます。退屈しておられるようですので、よかったらお相手をして差し上げてください。そろそろ八つ時ですので茶菓子などをお持ちいたいしましょう』って言われちゃって」


『黒め、それならそうと早く言えばいいものを。まったく要領の悪い奴じゃ』


 と、自分の行儀の悪さは棚に上げて、心の中で愚痴る恵姫でした。


「そうか、そうか、そんなことがあったのか。磯島、ご苦労じゃったな。して、いつ茶を持ってきたのじゃ」

「黒姫様が恵姫様を『めぐちゃーん』と呼んだ時でございます」


『最初からではないか。では、話は全て聞かれたのか』 


 恵姫の背中に流れる冷汗が増量しました。ほとんど洪水みたいになっています。


「あ~、いや違うぞ。黒の勘違いじゃ。見間違いじゃ。わらわが黒の言ったような行儀の悪いことをすると思うか。それに、よしんばするにしても障子を開け放しにしてするわけがなかろう。うむ、単なる勘違いじゃな」

「寝たまま障子を開ける姿を、どうやって見間違えると言うのですか。説明していただきとうございます」

「う、いや、それは……」


 言葉に詰まる恵姫。親友の窮地と見て取った黒姫は、助け船を出しました。


「磯島様、改めてこんにちは。先ほどはあまりお話も出来ず失礼いたしました。本日は登城の父の供をしてこちらに参りました。城での用向きが終わるまで恵姫様とお話をしたいと思っております。あの、それから先ほどの、姫様とのお話の件ですけど、あたしの見間違いと言うか、少し誇張が入っていまして……」

「黒姫様、座敷におあがり下さい。ああ、そこからではなく玄関にお回りください。黒姫様まで恵姫様のようにお行儀の悪い振る舞いをなさる必要はございません」


 有無を言わさず黒姫の話を途中でぶった切る磯島。これはかなり御立腹の御様子です。


「あ、はい、わかりました。でもいつも申しておりますが、あたしは恵姫様みたいなお姫様ではないので、お黒、とでも言っていただければ」

「力を持ったおなごは『姫』を付けて呼び合うのが世の習いでございますれば、磯島はこれからも黒姫様と呼ばせていただきます」


 これもまた、これまでに何度も繰り返されたやり取りでした。磯島を翻意させることなど無理だと分かってはいるのに、それでも会えば一度は『姫を付けないで』と言っておきたくなるのです。それほど黒姫は姫以外の者に自分が姫と呼ばれることを好ましく思っていないのでした。


「それでは後ほど。めぐちゃん、しばらく待っててね」


 黒姫は磯島に会釈をし、恵姫に手を振ると玄関の方へ歩いて行きました。これで恵姫は孤立無援。今や背中に流れる冷汗は凍り付き、極寒の湖面の如き寒さに思わず身が震える恵姫でした。


「姫様、先程の話の続きでございますが」

「いや、じゃからあれは黒の見間違いであり誇張であって」

「障子を開けてからの行儀の悪さは、それで納得いたしましょう。しかしながら座敷に寝ころんだまま足で障子を開けた点については、どのように開き直るおつもりでございますか」

「あ、いや、だから、それは……」


 必死で言い訳を考える恵姫。しかし今日に限って名案が浮かんできません。いつも以上に頭がぼんやりして、良い考えを見付けられないのです。

 恵姫から答えが返ってこないので、磯島は結論を出してしまいました。


「足癖の悪さはまだ治っていなかったようですね、姫様」

「す、すまぬ、磯島。今日はなんだか頭の中に霞が棚引いておってな。障子を開けようとしたら、自分でも気付かぬうちに足が勝手に動いておって……」

「そうですか。頭に霞が湧いておられたのですか。それもこれも最近夢中になっておられる絵草紙のせいでございましょう」

「いや、それとこれとは話が別……」

「別ではございません。あんな幼子が読むような絵草紙ばかり眺めていらっしゃるから、お行儀も幼子のようになるのです」


 磯島の理屈も相当飛躍していますが、さりとて反論出来ないのが悔しいところです。恵姫はただ黙って磯島の攻めに耐えていました。そんな恵姫の低姿勢に気を良くしたのか、磯島はとんでもないことを言い出しました。


「では、今回の無作法の罰として、五日前に届いたその絵草紙、しばらく磯島が預からせていただきます!」


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