霞始靆その二 絵草紙没収


「な、なんじゃと。絵草紙を渡せと言うのか」


 恵姫は座敷に放りっぱなしになっていた絵草紙『真鯛親方栄花夢』をひしと胸に抱きしめました。磯島の小言も、雨で浜に遊びに行けぬ退屈も、美味い飯が食えぬ不満も、これを読めば全て忘れることが出来たのです。そんな恰好の憂さ晴らしを放棄することなど、簡単に出来るものではありません。


「待て、磯島。絵草紙を手放すのだけは堪忍してくれ。それ以外なら何でもする。刺身は三日に一度でよい。昼を過ぎても稽古事を続けてもよい。じゃから、この絵草紙だけは取り上げんでくれ」

「駄目でございます」

「どうしてもか」

「どうしても駄目でございます」

「これほどまでに頼んでもか」

「……」


 ここで磯島が口を閉ざしました。熱意が通じたのだろうか、と恵姫は少し安心したのですが、事実はまったく逆でした。


「分かりました。絵草紙を手元に置かれるなら、江戸のお殿様にふみを出させていただきます。『恵姫様は幼稚な絵草紙に夢中になられ、お行儀が幼子のようになっておられます。今後、姫様が新たな絵草紙を希望されましても、決してお与えにならぬようお願いいたします』と」

「そ、そんな事をされては、これから出るであろう楽しくて面白くて愉快で美味しそうな絵草紙が、二度と手に入らなくなってしまうではないか」

「それが嫌なら、今、胸に抱いている絵草紙をお渡しください」


 磯島は強気です。なんとしても恵姫から絵草紙を取り上げようとする意欲に満ち溢れています。恵姫は考えました。この一冊は取られたくない、しかし、渡さねば将来手に入るはずの何冊もの絵草紙が手に入らなくなる。この一冊可愛さに他の数冊を犠牲にするのは愚の骨頂。


『うむ、ここは素直に渡すのが得策じゃ。まあよい。わらわにはもう一冊絵草紙がある。あちらの方が面白いし、憂さはそれを読むことで晴らすことにしよう』


「分かった。今回は磯島の言う通りにいたそう」


 恵姫は胸に抱いていた『真鯛親方栄花夢』を磯島に渡しました。磯島はそれを受け取ると、にっこりと笑って言いました。


「そうそう、言い忘れておりました。この前の左義長で燃やされて真っ白な灰になったはずの絵草紙が、どういう訳か座敷の物入れの中に入っておりましたので、この磯島が処分しておきました。これで姫様の頭に霞が湧くことは、永遠になくなろうかと思います」

「な、なんじゃと!」


 一瞬、恵姫の体が硬直しました。聞き間違いかと思いました。物入れの中に隠しておいた絵草紙、左義長の日に危うく焼失を免れた『赤鯛黒鯛釣合戦』、あれが既に磯島の手に落ちている?……


「馬鹿な、そんな馬鹿な」


 恵姫は脱兎の如く座敷の物入れに突進しました。猛烈な勢いでその中を漁ります。


「違う、これも違う……ない、ない、どこにもない。江戸の父上に何通も文を出して頼み込んで、ようやく手に入れた絵草紙が、どこにも……」


 どれほど探してもないと分かると、散らかした鍋や書物や鯛の玩具はそのままにして、今度は磯島に突進です。既に涙目になっています。


「磯島、そなた、あの絵草紙を、わらわの大切な『赤鯛黒鯛釣合戦』をどこへやった」

「先ほど申しましたでしょう。磯島が処分いたしました」

「ま、まさか燃やしたのではあるまいな」


 顔を真っ赤にして詰め寄る恵姫を小馬鹿にするように、磯島は鼻の先でふふんと笑いました。


「さあ、どうしたのでしょうね」

「磯島、正直に言うのじゃ」

「これから姫様がお行儀よく過ごされ、もっと教養のある書にも目を通されるようになれば、ある日、ひょっこりと物入れの中に戻っているかもしれませぬね」

「う、ぐぐぐ」


 何としても取り返したい、しかし何の手立てもない今の恵姫に出来ることは、拳を握ってワナワナと震わせることだけです。


「ではこれにて失礼いたします。黒姫様と積もる話に花を咲かせてくださいまし」


 磯島は平然と座敷を出て行きました。霞が棚引いていた恵姫の頭の中は、降って湧いた怒りのために今はきれいに晴れ渡っています。


「磯島を甘く見過ぎたわい。絶対に見つからない場所に隠しておくべきじゃった」


 恵姫はがっくりと肩を落としました。完敗です。ここまで完膚なきまでに磯島にしてやられたのは久しぶりでした。


「めぐちゃ~ん、来ましたよ」


 明るい声で黒姫が座敷に入ってきました。恵姫は顔をそちらに向けると、ぼそぼそとつぶやきました。


「うむ、この憂さは黒に晴らしてもらうとするか」

「んっ、どうかしたの」


 呼び名とは裏腹にいつも明るい黒姫。今回の件で一番悪いのは恵姫ですが、黒姫の口の軽さがなければ、このような事態は回避できたはずです。責任の一端は黒姫にもあるのです。しかし、だからと言って黒姫を責めるのはお門違いというもの、それは恵姫もよく分かっていました。


「いや、何でもないのじゃ。座ってくれ」


 二人は磯島が置いて行った盆を挟んで座りました。黒姫が自分の前の湯呑を見て嬉しそうな顔します。


「わあ~、このお湯呑、取っておいてくれたのね」

「捨てるはずがなかろう。黒の大事な湯呑じゃからな」


 黒姫は、白磁に薄茶色の俵文様と灰色鼠を絵付けした湯呑を、まじまじと見詰めました。


「これってめぐちゃんの鯛のお湯呑とお揃いですものね」

「ん、そうじゃったのか。そう言われればよく似ておるな」


 恵姫は手に持っている、白磁に藍色の波文様と赤鯛を絵付けした湯呑をまじまじと見詰めました。浜の海女小屋に置いてあるのと同じ湯呑です。


「では、互いに好みの湯呑で茶を飲み合うとするかのう」


 こうして昼下がりの二人の女子のお喋りが開始されました。女三人寄れば姦しいと言いますが、二人寄っても女女めめしくなるどころか、結構賑やかなものです。


「めぐちゃんも大変だねえ。気持ち分かるよ。ずずっ。ふう~、お茶が美味しい」


 現在は、磯島と恵姫との間で繰り広げられている絵草紙争奪戦に花を咲かせているところです。


「そうであろう。いくら罰とは言っても、わらわの大切な物を無断で焼こうとするとはのう。磯島は鬼じゃ。ずずず。うむ、良き香りじゃな」


 左義長の件に関しては恵姫が怒るのも無理はありません。ただ考えてみれば、神社に着いて風呂敷包みの中の物を取り出す時、十中八九、絵草紙が入っていることに気付くはずです。磯島はそれを狙っていたと考えられなくもありません。


「そして今回は、あんな些細な事で、またわらわの宝を取り上げよった。鬼じゃ、磯島は善良な民の宝を奪う鬼じゃ。はぐっ。おう、お茶請けは酒饅頭か」

「鬼ですか。それでは桃太郎さんに鬼退治を頼まなければいけませんね。あ、あたしもお饅頭食べよう」

「桃太郎か。うむ、よい考えじゃな。では今日からきび団子作りの修業をせねば。もぐもぐ」

「きび団子もいいけど、このお饅頭も美味しいですね。ぱくぱく」

「わらわは饅頭よりも、鯛の刺身がよい。ずずっ」


 と、いつの時代も女子のお喋りはとめどもなく、山も谷もなく、一体どこへ向かっているのかその方向も定まらず、延々と続いていくものなのですね。お喋りするということ自体が、二人の憂さ晴らしになるのでしょう。

 絵草紙を磯島に取り上げられてムシャクシャしていた恵姫も、ようやく心を落ち着かせることが出来たようです。

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