土脉潤起その三 書き初め自慢
「ところで、お福殿、胸に抱いているその包みは何ですか?」
大八車を引きながら雁四郎が訊きました。お福は歩きながら恵姫を見ます。そして恵姫は歩きながら答えます。
「雁四郎、お福が抱いている包みはな、わらわの物じゃ。わらわの今年の書き初めが入っておるのじゃ」
「そうですか、恵姫様の書き初めですか」
雁四郎の言葉はそこで終わりました。続きの言葉を期待している恵姫でしたが、雁四郎は固く口を閉ざしたままです。仕方なく恵姫が口を開きました。
「うおっほん。もし見たいと申すなら、見せてやってもよいぞ」
「いえ、少し遅れているので道草をせず、先を急ぎましょう」
「わざわざ止まらずとも、歩きながらでも見られるではないか。雁四郎、無用なやせ我慢はせんでもよいぞ」
「いえ、別にやせ我慢など……」
「ええい、おのこのくせに遠慮深いのう。仕方ない、では見せてやるとしよう」
『ああ、恵姫様は自分の書き初めを見て欲しいのか』
と、ようやく悟った雁四郎は足を止めて大八車の棒から手を放しました。恵姫の希望通りに休むことにしたのです。
恵姫も立ち止まるとお福から風呂敷包みを受け取りました。さっそく結び目を解き、得意げな顔で紙の束をがさこそやっています。
「ふ~む、どれを見せてやろうかのう、おっ、これがいいな。どうじゃ、なかなか達筆であろう」
恵姫が風呂敷包みから取り出した画仙紙を見て、お福も雁四郎も絶句しました。そこにはどう見ても魚にしか見えない絵が描かれていたからです。
「最近、面白い絵草紙を手に入れてのう。その影響もあって今年の書き初めはこれにしたのじゃ」
「あ、あの、恵姫様、まことに失礼ながら、それは何と書かれているのかお教えいただけないでしょうか」
恐る恐る尋ねる雁四郎に、恵姫は不満顔で答えました。
「なんじゃ、読めぬのか。赤鯛という字に決まっておるではないか」
「赤鯛……しかし、それは字と言うよりも絵なのでは」
「何を言っておる。漢字の元になったのは絵であろう。ならば絵を字と見なして何が悪い」
「あ、はい、左様でございますね」
「どうじゃ、この美味そうな字は。思わず捌いて刺身にしたくなるような書きっぷりじゃわい。のう、お福もそう思うじゃろう」
お福は頬をひきつらせながら、苦しそうな笑顔を浮かべました。雁四郎は完全に言葉を失っています。二人から一言も褒め言葉が出て来ないので、恵姫は不愉快極まりない顔になりました。
「なんじゃ、二人とも。この字が気に入らぬのか。仕方ない、ならば……おお、これがいい。先ほどの字に劣らぬ傑作ぞ」
そうして恵姫が取り出した画仙紙には、やはり魚の絵が描かれていました。しかもさきほどの絵とほとんど同じです。雁四郎は何も言いたくありませんでしたが、黙っているのも悪いので取り敢えず褒めました。
「み、見事な赤鯛でございますね、姫様」
恵姫の不機嫌な表情が、一気に憤慨へと変わりました。
「何を読んでおるのじゃ雁四郎。どこに赤鯛と書いてある!」
「えっ、赤鯛でないのなら、これは……」
「黒鯛に決まっておろう。先ほどの字とは似ても似つかぬではないか」
そう言われて雁四郎とお福は二枚の絵を見比べましたが、どこがどう違うのかさっぱり分かりませんでした。
「これも実に美味そうな字じゃのう。このまま頭からかぶり付きたくなるわい」
恵姫は口元を拭いました。きっと、よだれが垂れそうになったのでしょう。更に悪い事に、また紙の束をがさこそやり始めました。まだ自分の作品を見せ足りないようです。
「お、お福殿は、書き初めを持ってはいないのか」
雁四郎は強引に話題を変えました。これ以上恵姫の好きにさせておくと、取り返しがつかなくなるような予感がしたからです。お福もそれを悟ったのか、急いで自分の懐に手を入れると、折り畳んだ半切れ和紙を取り出しました。広げるとそこには見事な筆跡で『笑門来福』と書かれていました。
「おお、いつも笑顔を絶やさぬお福殿らしい書き初めでございますな。しかも、この柔らかい筆遣い、お福殿の優しさが字に乗り移っているようです」
雁四郎の褒め言葉に、お福は照れた笑いを浮かべています。すっかり二人から忘れられてしまった恵姫は、忌々しそうに紙の束を漁り始めました。
「ふん。そんなありふれた言葉で喜んでどうする。四字の言葉ならわらわも書いたぞ。えっと、ああ、これじゃ。見よ」
そうして取り出した画仙紙には『鯛尾頭付』と書かれていました。
「どうじゃ、目出度いであろう。鯛は尾頭付きに限る」
雁四郎は恵姫と視線を合わせないようにして、大八車の棒を持ちました。お福も何事もなかったかのように、和紙を畳んで懐にしまっています。
「では、道草もこれくらいにして、そろそろ出発いたしましょう」
雁四郎は有無を言わさず大八車を引き始めました。お福も一緒に付いていきます。
「お、おい、こりゃ待て二人とも。まだわらわの傑作が……」
と恵姫が言っても待つはずがありません。仕方なく風呂敷を包み直すと、二人の後を追う恵姫でありました。
* * *
「おお、雁四郎様。待ちくたびれましたぞ」
ようやく着いた乾神社の鳥居の前で、宮司が出迎えてくれました。
「申し訳ありませぬ。車輪がぬかるみにはまり、抜け出すのに手間が掛かりました」
「なにはともあれ無事に着いてよかった。おや、これは恵姫様。今年は姫様もお出でくだされましたか」
「うむ、久しぶりに左義長の大火焔を見たくなってのう。今年も盛大に燃やしてくれ」
恵姫たち四人は鳥居をくぐって境内に入りました。既に大勢の人が集まっていますが、その大部分は子供です。
「あ、姫様だ」
「姫様、姫様」
いくら粗暴な恵姫でも身なりはきちんとしています。子供たちも一目で姫と分かったのでしょう、無邪気な歓声を上げて恵姫一行に駆け寄りました。
「おお、皆、元気な良い子たちばかりじゃな。姫は嬉しいぞ」
恵姫はご機嫌です。たまには幼い子らと触れ合うのも悪くないのう、などと思いながら子供たちの相手をしようと思うのですが、どうしたことか、子供たちは恵姫ではなくお福を取り囲んでいます。
「これこれ、子らよ、姫はわらわじゃぞ」
と言っても、全く反応がありません。少し困った顔をして笑うお福に、子供たちはすっかり懐いているようです。恵姫の機嫌は急降下しました。
「これ、雁四郎。何をぐずぐずしている。皆、待っておるのじゃぞ。さっさと縄を解いて荷を下ろせ。お福、そなたも手伝ってやれ」
八つ当たりもいいところですが、恵姫の言う通り、いつまでも子供たちと戯れているわけにもいきません。雁四郎とお福は子供たちを大八車から遠ざけて縄を解き始めました。
拝殿の前には荒縄が正方形に張られ、その中に正月飾りや門松などが、うず高く積み上げられています。雁四郎は大八車の荷をその中に全て放り込みました。それが終わると、宮司が火のついた松明を手に取りました。
「では、始めますぞ」
正月飾りの山に火が点きました。左義長の始まりです。炎は次第に大きくなり、やがて人の背よりも高い大火焔へと燃え上がりました。
「わあー!」
子供たちの歓声が聞こえます。娯楽の少ない子供たちにとっては、燃える火ですら心を湧き立たせるに十分なのでしょう。そしてそれは恵姫も同じでした。左義長の大火焔の圧倒的な迫力の前で、忘れていた童心を取り戻し、ただただ無言で瞳を輝かせるのでした。
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