土脉潤起その二 絵草紙危機一髪
「なんとももやもやするのう、ずずっ」
与太郎の回想に耽っていた恵姫は食後のお茶をすすりました。あの騒動のあった日から、恵姫の控えの間に詰める女中は二名に増やされました。ここに居るのをあれほど嫌がった与太郎が、再び屋敷に潜り込むとは思えません。しかし恵姫は仮にも一国の領主の娘です。万が一のことがあっては困るので、用心のために二名に増やし、夜は交代で一名が寝ずの番をすることになったのです。
「もやもやするのなら、これから乾神社に行かれてはいかがですか」
乾神社は間渡矢城から一里ほどの場所にある神社です。ちょうど城から北西の方角にあるので、こう呼ばれていました。
「神社とな。こんな朝早くから神社に行って何をするのじゃ」
「本日は小正月であり、左義長の日でもあります。姫様も書き初めを沢山なされたでしょう。いつもは女中が神社に持参して燃やしておりますが、今年は姫様がご自分で燃やされてはいかがですか」
「ほほう、もやもやを燃やせと言うか。洒落たことを言うではないか。しかし神社まではちと遠いのう」
「洒落で言っているのではありません。それに少しは歩かれませ。年が明けてから浜で釣りをする以外は、毎日座敷でゴロゴロしてばかりではないですか」
「う~む、じゃがのう」
「しめ縄や門松と一緒に餅も焼かれて、皆に振る舞われるのをお忘れですか」
「おお、そうであった。よし、今日は神社に行くぞ」
さすがは磯島、恵姫の食いしん坊気質をよく理解しています。
朝食後、奥御殿の外に出た恵姫は磯島から風呂敷包みを渡されました。
「なんじゃ、これは」
「姫様が書かれた今年の書き初めでございます。一緒に燃やしてきてください。それから、ああ、来ましたね」
奥御殿から誰か出てきました。お福です。背中には大きな風呂敷包みを背負っています。
「お福も同行させます」
「なんじゃ、乾神社くらいなら道に迷わずに行けるぞ」
「道案内ではありません。監視役に付けるのです。姫様一人で城下に行かせたら、何をしでかすか分かりませんからね」
磯島の心配性は相変わらずだと恵姫は思いましたが、同行がお福なら一人で行くよりも楽しい道のりになるだろうと、俄かに心が沸き立ってきました。
「うむ、では行ってくるぞ。昼飯までには帰るからな」
こうして恵姫とお福は間渡矢城を後にして、乾神社へ出発したのでした。
山道を下っていく二人。道を覆っていた枯葉も、冬の間に踏み荒らされて、今では道端に散らばるばかりになっています。所々には緑の下草も見られ、小正月らしい春を感じさせてくれます。
やがて下りの山道が終わると、城下の侍町に入りました。武家屋敷が立ち並ぶ広い道を二人は歩いて行きます。
少し、お福の歩みが遅くなりました。お福が背負っている風呂敷包みはかなり大きく、見るからに重そうです。
「えらく大きな包みじゃのう。一体何が入っているのじゃ。ちょっとわらわに貸してみよ」
お福の返事を待たずに自分の風呂敷を預けると、恵姫はお福の背中から風呂敷包みを奪い取り、結びを解いて広げました。中には紙垂の付いたしめ縄や水引きで色取られたしめ飾り、鏡餅を飾っていた四方紅紙や御幣などが、ごっちゃに包まれています。松の内の間、奥御殿で使われていた物なのでしょう。
「ふむ、こうして見るとあの手狭な奥御殿も、結構な数の正月飾りで賑わっていたのじゃな。一日のほとんどをあの屋敷で過ごしていた割には、見覚えのある飾りがほとんどないわ」
一日屋敷に居ると言っても、恵姫の場合、座敷でごろごろしているだけなので、御殿の要所に飾られている正月飾りに気が付かないのは当たり前です。
「しかし、こうして打ち捨てられたしめ縄を見ておると、正月の終わりを感じさせるのう、寂しい事じゃ。むっ……やや、これは」
紙や縄が山のように積み重なっている中から、恵姫は何やら四角い物を拾い上げました。
「こ、これは、わらわが江戸の父上に頼み込んで、昨年ようやく手に入れた絵草紙『赤鯛黒鯛釣合戦』ではないか。座敷の物入れの奥に大切にしまっておいたはずなのに、何故こんな所に……さては、磯島の仕業か」
恵姫の想像通り、磯島がこっそり紛れ込ませたのです。恵姫が座敷でごろごろしている時は、大抵この絵草紙を眺めているので、どんな内容かと改めたところ、字よりも絵の方が遥かに多く、幼子が読むようなものでした。真剣に婿取りを考えなければいけない姫様に、こんな絵草紙は無用、いや、あれば害になる、左義長ついでに処分してしまおうと、廃棄する正月飾りと一緒に風呂敷の中へ混ぜ込んだのでした。
「ふう~、危なかったのう。楽しみをひとつ失うところじゃった。磯島め、油断も隙もないな」
恵姫はお気に入りの絵草紙を懐にしまうと、風呂敷包みを結んで自分の背に負いました。驚いたお福が風呂敷包みを掴もうとすると、恵姫は珍しく優しい声で言いました。
「これはお福には重すぎる。わらわが背負っていくゆえ、お福はわらわの風呂敷包みを持って付いて参れ」
構わずスタスタ歩いて行く恵姫にお福は頭を下げると、恵姫の風呂敷包みをしっかりと胸に抱いて、その後に付いて行きました。
城下町を抜けると見通しの良い道に出ました。ここからはしばらく海沿いに進みます。と、前方に荷物を積んだ大八車が見えてきました。荷台には門松やしめ縄が括り付けられているので、きっと恵姫たちと同じく乾神社へ向かうのでしょう。ただ大八車は動いていません。止まったままです。
「どうして道の真ん中で立ち往生しているのじゃ。休憩中か」
不思議に思う恵姫。その理由は大八車に近付いて、すぐに分かりました。車輪がぬかるみにはまっていたのです。
「恵姫様、それにお福殿!」
聞き覚えのある声です。大八車の荷台が後ろに傾くと、前から雁四郎が現れました。
「いいところで会いました。ぬかるみにはまって難儀していたのです。荷台を押してくれませんか」
「嫌じゃ」
即答です。これには雁四郎も面食らってしまいました。
「いや、そこをなんとか。拙者一人の力ではどうにも抜け出せなくて」
「誰も手伝わぬとは言うてはおらぬ。荷台を押すのが嫌なのじゃ。見よ、荷台を押して動き出せば、勢い余ってぬかるみに足を踏み入れてしまう。裾も草履も汚れてしまうではないか。わらわとお福は前棒を押すゆえ、雁四郎は後ろから荷台を押せ」
そういう事かと合点した雁四郎はさっそく後ろに回り、荷台に両手を当てました。恵姫とお福は風呂敷包みを道端の乾いた場所に置き、前棒を握ります。
「わらわの合図で押すのじゃぞ、せーの、それ、それ」
掛け声に合わせて前後する大八車。その振幅は次第に大きくなり、遂には根負けしたようにぬかるみから車輪が抜けました。雁四郎が大きく息を吐きます。
「ふぅ~、助かりましたよ、恵姫様、お福殿」
「ぬかるみか。季節はもう雨水。土も水を恋しがっておるのであろう。それにしても大荷物じゃのう。これは雁四郎の屋敷の正月飾りか」
「それもありますが、大部分は城内の物です。今年は拙者が乾神社へ運ぶ役を仰せつかりました」
恵姫はおやっと思いました。雁四郎が運ぶのなら、奥御殿の正月飾りも一緒に運ばせればよいはずです。何故、わざわざ風呂敷に包んでお福や恵姫に運ばせたのでしょう。不思議に思いながら道端に置いた風呂敷包みを背負おうとすると、雁四郎が尋ねてきました。
「それは、奥御殿の正月飾りですか?」
「そうじゃ。わらわたちも乾神社に向かう途中じゃ」
「驚きました、磯島様の申されたとおりです。昨日、奥御殿の正月飾りはどうされますかと訊いたところ、恵姫様とお福殿に運ばせるので心配無用と言われたのです。まさか本当に姫様が神社に向かわれるとは」
「昨日? わらわが今日神社に行くと、昨日磯島が言ったのか?」
「はい」
これはまた奇妙です。神社へ行く事を提案され、了承したのは今日の朝食時です。昨日ではありません。
『磯島め。もし今朝わらわが神社に行かぬと返答したらどうするつもりだったのじゃ。まさか、昨日のうちに今日のことが分かったのか』
いくら磯島でもそれは不可能です。となると、絶対に断られない自信があったから、としか考えられません。
『う~む、やはり只者ではないな』
磯島の優れた人心掌握術に今更ながらに感心しながら、恵姫は風呂敷包みを持ち上げると、背負うのではなく大八車の荷台に縛り付けました。
「雁四郎、わらわたちの荷物も載せて行ってくれ。おい、お福、そなたも載せるがいいぞ」
しかし、お福は包みを抱いたまま首を横に振りました。大事な恵姫様の風呂敷包みをそんな荷台には載せられない、そう言っているように見えます。
「持って行きたいのならお福の好きにすればよい。その包みは軽いしな。さて、では神社に向かうとするか」
雁四郎を加えた三人は歩き出しました。またも磯島の思う壺にはまったかと、恵姫は悔しさで一杯になりました。しかし途中で雁四郎に出会い、荷台に風呂敷包みを載せることまでは、さすがの磯島も想像できなかったはず。しかもお気に入りの絵草紙の焼却まで免れたのです。こちらも磯島を出し抜いてやった、そう思えば少しは気が晴れるのでした。
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