水沢腹堅その三 毘沙姫の正月遊び

「正月三日じゃー!」


 寝床の中で雄叫びを上げる恵姫。正月三日も心地よい目覚めから始まりました。とは言ってもかなりお疲れ気味です。


「今年は輿入れが決まったせいか年始客が多いのう。昨日も日暮れまで相手をしておったし、今日も昼まで表御殿に詰めねばならぬとはな。まあしかし、これが間渡矢で過ごす最後の正月と思えば、さほど苦にはならぬか」


 松平家への嫁入りは何事もなければ今年中に行われます。従って来年の正月は島羽城で迎える事になります。


「輿入れか……しかしそれもまた夢のままで終わるのかもしれぬのう」


 夜着に包まったまま寝床で目を閉じる恵姫。自分が抱いている想いの愚かさと気高さ。どちらが正しいのか今になっても分かりません。乾神社の榊の前で固めた決心が、ふとした弾みで揺らいでしまいそうになるのです。


「おはようございます。恵姫様」


 いつものように磯島登場です。仕方なくのろのろと起き上がる恵姫。続いて朝の支度をする女中たちも入ってきます。


「本日は昼過ぎに布姫様がいらっしゃいます。しかも城にお泊りになるとか。寺と神社にしか身を寄せぬ布姫様にしてはお珍しい事ですね」

「うむ。わらわと二人だけで話をしたいそうじゃ。よって今夜は控えの間の女中は不要じゃ。申し渡しておいてくれ」

「かしこまりました」


 磯島は余計な事を訊かず頭を下げると、朝食の支度をしに座敷を出て行きました。


 正月三日目も年始客の挨拶から始まりました。まずは黒姫です。


「めぐちゃ~ん、来たよ~。おめでと~。この二日間でお餅食べ過ぎて太っちゃった」

「食って寝てばかりいては太って当たり前じゃ。肩に乗っておる次郎吉もすっかり腹が弛んでおるではないか。わらわのように正月休みも無しでお役目に励んでみよ」

「お武家様は大変ですね。あたしにはできそうにありません。あ、そうだ、体を動かしたいから後で羽根突きしようよ。今のめぐちゃんになら勝てそうな気がする」

「羽根突きは構わぬが顔に墨を塗るのは無しじゃぞ。昨年はえらい目に遭ったからのう」

「いいよ~。じゃあ、また後でね~」


 次にやって来た才姫は挨拶する前から目が座っています。


「おい、才。いくら正月だからとて飲み過ぎではないのか。酒は百薬の長などといつもうそぶいておるが、飲み過ぎては毒になろうぞ。医者の不養生という言葉もある。ほどほどに致せよ」

「分かってるさね。心配は要らないよ。底無しに飲んでいるわけじゃないんだからね。酒はほろ酔い、娘は二八、花は桜の盛りなえ。二八も盛りも過ぎちまったけど、あたしの酒はいつだってほろ酔いなのさ」


 毘沙姫も大書院に入る前から酒の匂いを漂わせています。


「毘沙、そなたも飲んでおるのか。にしては普段と全く様子が変わらぬのう。飲んだのではなく間違って浴びてしまったのではないか」

「何を馬鹿な。私は飲んでも酔わぬのだ。これでも庄屋の屋敷で二升ほど御馳走になってきたのだぞ」


 酒臭い毘沙姫にはさっさと退室してもらい、次に控えている禄姫、寿姫を招き入れます。


「おお、禄と寿。あの山道を歩いて登って来たのか。大変じゃったろう。大婆婆様の屋敷の住み心地はどうじゃ」

「いえいえ山道を歩いてはおりませぬじゃ。歩いたのは庄屋様のお屋敷まで。そこからは毘沙様の背負子で運ばれてきたのですじゃ。のう寿婆さんや」

「はいはい、毘沙様のおかげで楽をさせていただきましたじゃ。大婆婆様の屋敷でも楽をさせていただいておりますじゃ。娘ほども年の離れた大婆婆様に面倒を見てもらっておりますじゃて」


 どうやら禄姫、寿姫は大婆婆様よりも年寄りのようです。この二人、一体何歳なのだろうと少し気になる恵姫です。


 やがて昼が近付くにつれ年始の客も減ってきました。まだ昼の時太鼓が鳴る前に厳左から有難いお言葉です。


「後はわし一人で供応すると致そう。この三日間でさぞやお疲れになった事であろう。ゆっくり休まれるがよい」

「ならばお言葉に甘えて失礼するかのう。やれやれ、ようやく正月が楽しめるわい」


 表御殿を出て奥へ向かう恵姫。玄関から座敷に向かう廊下を歩いていると、酒の匂いと一緒に何やら賑やかな声が聞こえてきます。


「も、もしや……」


 速足で廊下を進み襖を開ければ、座敷では五人の姫たちが正月料理の乗った膳を前にして酒盛りの真っ最中です。


「そ、そなたたち、誰の許しを得てこのような真似を……黒、餅を食ったら太ると申したであろう、また食っておるのか。ああ、楽しみにしていた干し鯛まで食いおって。毘沙、遠慮というものを知らぬのか。こりゃ、才。熨斗アワビを酒の肴にするとは何事じゃ。この罰当たり者めが」

「おや、恵姫様、お早い御戻りですこと。お腹が減ったと姫の皆様が仰られましたので、先に召し上がっていただいております」


 そう言う磯島も一緒になって餅を食べています。表御殿でしたくもない年始客の相手をしている間、こちらでは正月料理で大いに盛り上がっていたわけです。言いようのない怒りが沸き上がってくる恵姫。


「もうよい、わらわも食うぞ」


 むかっ腹を抱えて座敷に入り込むと、怒涛の如く膳の御馳走を食べ始めるのでした。


 * * *


「ほらほら、めぐちゃん。機嫌を直して羽根突きを楽しもうねえ~」


 昼を済ませて一服した後は、庭に出て正月遊びに興じる事となりました。昨年は髷を結ったために惨敗した恵姫。今年は髷だけでなく断髪までされているので、当然の如く大惨敗です。


「うううむ、ここまで体が動かぬとはのう。禄や寿にすら勝てる気がせぬわ」


 黒姫に完全にしてやられた恵姫が弱気につぶやくと、今度は毘沙姫が羽子板を持ちました。


「恵、次は私が相手をしてやろう。案ずるな。羽根突きをするのは初めてだ。初心者相手ならば恵にも勝機はあろう」


 毘沙姫の持つ羽子板が木刀のように見えます。どうにも嫌な予感がして仕方がありません。


「毘沙、負けるつもりならついでに羽子板を左手に持ってくれぬか。それなら力も入らぬじゃろう」

「心得た」


 左手に持ち直して構える毘沙姫。恵姫は慎重に羽根を打ちました。コーンと澄んだ音を立て、弧を描きながら飛んでいきます。毘沙姫は目をキラリと光らせると、勢いよく打ち返しました。


「ふん!」


 ――バスン!


 恵姫には見えませんでした。毘沙姫が羽根を打ち返したところまでは見えていたのですが、その後は何かが頬をかすめて飛んで行ったような気がしただけです。


「ちょいと、壁に穴が開いちまったよ」


 才姫の声に振り向けば城の漆喰壁に穴が開き、粉塵を舞い上げながら羽根がめり込んでいます。恵姫の背中に戦慄が走りました。


「おいおい、恵。どうして打ち返さないのだ。これでは羽根突きにならぬ」

「阿呆、わらわを殺す気か。これでは火縄銃で撃たれたのと同じではないか。下手に手を出して頭にでも当たれば命を落としておったわ」

「そうか、済まんな」

「済まんで済むか。もう羽根突きはやめじゃ」


 怒り心頭の恵姫を見てさすがに悪いと思ったのか、素直に羽子板を黒姫に渡す毘沙姫。と、城門の方から誰かが歩いてきました。


「おや、皆さま、羽根突きですか。正月らしくて良いですね」


 番方の馬之新です。今日は城内警護のお役目に就いているのでした。


「羽根突きはやめたのじゃ。毘沙を相手にしておると命がいくつあっても足りぬからのう」

「ほう……されば」


 馬之新は城門横の番屋に戻ると手に何かを持ってやって来ました。


「コマ回しなど如何でござろうか。板の上でコマを回し合い、相手のコマを弾き飛ばせば勝ちとなります」

「面白そうだな、よし、やろう」


 乗り気の毘沙姫ですが、恵姫はやはり嫌な予感しかしません。取り敢えず馬之新にコマの回し方を教えてもらい、板の上で勝負を始める事にしました。


「いくぞ恵、ふん!」


 毘沙姫が放ったコマはとんでもない勢いで回転しています。いや、回転しているというより直立不動で突っ立っていると言った方が正しく思えるくらいです。恵姫の回したコマが近寄っていくと、ものの見事に弾き飛ばされました。


「ふっ、恵のコマも大した事はないな」


 余裕の毘沙姫。恵姫は何度もコマを放ちますがまるで勝負になりません。全て弾き飛ばされてしまいます。それでも毘沙姫の回したコマは微動だにせず回転しているのです。


「さすが毘沙姫様のコマ。これほど回るコマ、拙者は初めて見……おや、何やらきな臭い匂いが」


 顔をしかめる馬之新。よく見ると毘沙姫のコマの軸先から煙が出ています。やがてその部分が黒くなり、火が出て燃え始めました。


「た、大変じゃあー!」


 最近雨が少なくて乾燥していたせいか、板はあっという間に炎に包まれてしまいました。大慌ての恵姫と馬之新。しかし毘沙姫は落ち着いたものです。燃え上がる板をむんずと掴むと、中庭の池に放り込みました。


「うりゃ!」


 さぶーんと音を立てて板が水面に落ちると、火はすぐに消えてしまいました。腕組みをした毘沙姫は神妙な顔付きで、池に浮いている黒こげの板をじっと見詰めています。


「なるほど。コマと板の摩擦で火が起きたのか。これからは寒くなったらコマを回す事にしよう」

「何を呑気な事を言っておるのじゃ。正月早々火事になるところだったではないか。毘沙、そなたと正月遊びをしておると気が休まらぬ。これからは一人で遊べ。まったく」

「んっ、ああ、分かった。ならば一人で凧揚げでもするか」


 毘沙姫はそう言うと、馬之新と一緒に城門の方へ歩いていきました。しばらくして戻って来た毘沙姫は頭上に大凧を掲げています。


「な、何じゃ、そのでかい凧は!」


 恵姫が驚くのも無理はありません。十畳はあろうかと思われる大凧だったのです。


「毘沙ちゃんったら年越しの準備をしないで、去年からずっとその凧を作っていたんだよ~。城山の上で揚げたら面白いだろうなあって言って」


 黒姫の言葉を聞いてまた嫌な予感がする恵姫です。しかし凧揚げは一人でするもの。今度ばかりは自分に被害は及ばないはずです。


「まあ、せっかく作って来たのなら揚げるがよい。わらわは手を貸さぬぞ」

「構わん。凧揚げはこれまで何度もやっているからな。一人で揚げられるのだ。とうっ!」


 毘沙姫は掛け声と共に空高く飛び上がりました。大凧を空中に置き去りにして素早く地に降り立つと、紐と言うより綱と言った方が相応しい太い紐を引っ張ります。


「どうだ。揚がっただろう」


 上空は風があるのでしょう。大凧は紐をピンと張ってぐんぐん上昇していきます。予想外に壮観な眺めに恵姫も感心して、正月の空を泳ぐ大凧をしばしの間眺めていました。


「や~ん、才ちゃん、力入れすぎ! 屋根に上がっちゃったよ」


 黒姫が表御殿の屋根を見上げています。才姫と羽根突きを再開したのはいいのですが、力が余って羽根を屋根に打ち上げてしまったのでした。


「悪いね、手元が狂っちまった。羽根突きなんざ久しぶりだからね。毘沙、済まないが取ってきておくれ。あんたの脚力なら一っ飛びで屋根に上がれるだろ」

「いいぞ。恵、凧の紐を持っていてくれ」

「仕方ないのう、貸せ」


 毘沙姫から大凧の紐を受け取る恵姫。途端に体が引きずられます。


「な、何じゃ、この力は。とてもわらわの腕力では支えきれぬ。こうなれば」


 紐を体にぐるぐると巻き付け、自分の体重で凧を引っ張ろうとする恵姫。それでも大凧の力は非常に強く少しも制御できません。それどころか体が上に引っ張り上げられ、足が地面から離れかけています


「ま、まずい。毘沙、わらわを押さえぬか。こ、このままでは……」

「おーい、羽根が取れたぞ」


 恵姫の窮地にはまるで気付かず、呑気に表御殿の屋根から叫ぶ毘沙姫。その間に恵姫の体は完全に地から離れ、空へと舞い上がりました。


「毘沙の阿呆―! 早く助けぬかあー! びしゃあああー!」

「ん、誰か呼んだか……め、恵!」


 自分の名を呼ぶ声にようやく気付いて空を見上げれば、大凧の紐にぶら下がった恵姫が北の空に向かってどんどん遠ざかっていきます。あり得ない光景を目の当たりにして、柄にも似合わず愕然とする毘沙姫ではありました。

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