水沢腹堅その二 雁四郎の文

「初夢じゃあー!」


 寝床の中で雄叫びを上げる恵姫。正月二日も心地よい目覚めから始まりました。とは言っても少々お疲れ気味です。


「さすがに一日中年始客の相手をしておると疲れるのう。今朝は火鉢の火も消えておるし、磯島が起こしに来るまでもうひと眠りするとするか」

「おはようございます。恵姫様」


 二度寝しようと思った矢先に間髪入れず磯島出現です。秘技ともいえる磯島の勘の良さは今年も健在のようです。


「何じゃ、今日は早いではないか。まだ正月二日目じゃ。のんびり休ませてくれぬかのう」

「早くはありません。昨日と同じ時刻でございますから。それに本日は島羽より松平家次席家老様が年始の挨拶に来られます。早く身支度を整えてくださいませ」


 磯島に言われてそう言えばそうだったと思い出す恵姫。間渡矢城からは毎年寛右が当主名代として、志麻国のもう一つの領主である島羽の松平家へ年始の挨拶に行っています。昨日、寛右が大書院に居なかったのはその為です。

 逆にこれまで島羽から間渡矢への年始の挨拶は一度もありませんでした。それは比寿家が松平家より遥かに格下の大名だからです。しかし恵姫の嫁入りによって松平家と比寿家が縁続きになると決まった以上、これまで通りに済ますわけにもいきません。松平家も今年初めて年始の挨拶をよこす事になったのでした。


「遂に松平家も我が比寿家の足元にひれ伏す時が来たか。献上の品は何であろうかのう、楽しみじゃわい、ふっふっふ」

「何を勘違いされていらっしゃるのです。献上の品などあろうはずがございません。むしろこちらが持て成す側なのですからね。昼のお食事は松平家次席家老様と一緒に召し上がってくださいませ、お淑やかな恵姫様」


 どうやら年始の挨拶というのは形だけで、雁四郎を預かってもらっている礼を兼ねて松平家の次席家老を招待したようです。


『ちっ、せっかくの正月料理を見も知らぬ者の機嫌を取りながら食わねばならぬとは。厳左や寛右もそこまで腰を低くする事もなかろうにのう』


 腹の内で舌打ちをする恵姫です。


 そうこうしているうちに朝食も済み、昨日と同じく年始客が登城して来る時刻となりました。元日は武家に縁の者が多かったのですが、二日目は城下の町人が多くやって来ます。武家と違って元日はのんびりと過ごし、挨拶回りは二日目から始めるからです。


「武家も町人を見習って、元日は朝から晩まで寝て過ごせばよいものをのう」


 恵姫の愚痴はまた全ての武家の愚痴でもありました。しかしそれは如何ともし難いものでもありました。何故なら江戸の将軍様が元日から拝賀の礼を申し付けているからです。在府の大名は元日から行列を作って江戸城に上らなければならないのです。


 元日に限らずこの登城の行列は大変賑やかなもので、大名と供の者たちでごった返す大手門、内桜田門の辺りには、見物人とそれを目当ての蕎麦屋や酒屋の棒手振ぼてふり商人が現れ、また、大名が戻るまで暇を持て余している従者たちは、相撲を取ったり、札遊びをしたりして時間を潰すという、実にお行儀の悪い光景が繰り広げられていたのでした。ただし元日に将軍様に会えるのは御三家と譜代大名だけ。それ以外の大名、旗本などは二日か三日の初登城となります。


 こうして将軍様が元日から拝賀の礼を命じている以上、国許の大名もそれに従って元日から年始の挨拶を始めなくてはならないのでした。さりとてそれはあくまでも武家の習わし。一般庶民は好きなだけ寝正月を楽しみ、好きなように年始挨拶に回ればよいのです。


「恵姫様、新年のご祝儀目出とう申し上げます」


 まずは庄屋がにこやかな顔でご挨拶です。


「おう、庄屋か。米の出来は芳しくなかったと聞いておるが気にするでないぞ。今年は必ず豊作となるであろう。んっ、黒は一緒ではないのか」

「はい。娘は明日こちらに伺うと申しておりました。今年も米作りに手を貸していただければ幸いでございます」


 続いて網元です。庄屋と同じく新年の挨拶をして平伏します。


「魚に限らず貝も海藻も不漁続きであったと聞いておる。が、気にするでないぞ。今年は大漁じゃ。鯛も大漁じゃ。大船に乗った気持ちで過ごすがよいぞ」

「恵姫様のお言葉とあらば間違いなく大漁にございましょう。今年も鯛漁の折りにはお力を貸してくださりませ」


 御典医もやって来ました。恭しく頭を下げます。


「お福が麻疹になった時にはどうなる事かと思うたが、城下に流行る事もなく胸を撫で下したわい。今年も皆が健やかに暮らせるよう力を尽くしてくれ。おや、才はどうしたのじゃ。来ておらぬのか」

「はい。才姫様は大晦日より飲んだくれております。こちらには明日伺うと申しておりました。恵姫様もお体には十分気を付けられて、この一年をお過ごしください」


 お浪とお弱はきっちりと髷を結い、こざっぱりとした木綿の晴れ着姿です。


「おお、お浪とお弱か。海女にも衣装とは良く言ったものじゃ。なかなか似合っておるぞ。江戸への旅では随分と世話を掛けたのう。これからもわらわが出府する時には共に江戸へ参ろうぞ」

「私にとっても楽しい旅でございました。またご一緒できるとよろしいですね」

「その日が来るの楽しみにしております」


 こうして正月二日の年始挨拶は滞りなく過ぎていきました。やがて昼を告げる時太鼓が鳴ると、厳左が立ち上がりました。


「さて、ここで昼の休憩と致すか。恵姫様もお疲れであろう」

「うむ、さりとて昨年ほどではない。今年は磯島が居らぬから気が楽じゃわい。時に島羽城からの客人はどうしておるのじゃ。共に昼食を取るのであろう」

「表の客間で休んでもらっておる。昼は小居間にて取る。いつものような暴食は控えられるようにな」


 厳左に釘を刺されるまでもなく承知している恵姫ですが、心は分かっていても体が従ってくれるかどうかは分かりません。案の定、小居間に並べられた御馳走を見た途端、恵姫の口からよだれが垂れ始めました。


「姫様!」


 接待役として来ている磯島が素早くよだれを拭います。勿論、その場に居る厳左、年始客、数名の間渡矢の重臣は見て見ぬ振りです。口元が綺麗になった恵姫が着座すると、島羽城からの客人は型通りの挨拶です。


「新年の御慶、言上し奉る! 比寿家、松平家両家の更なる繁栄をお祈り申し上げる」


 後半、恵姫縁談の祝辞が加えられたのは客人の気遣いです。


 松平家の次席家老は思ったよりも砕けた性格の持ち主でした。江戸の左右衛門に似て表情も話も陽気さに溢れています。最初は澄まして無口を続けていた恵姫も、やがて気軽に話し始めました。


「……ふうむ、島羽ではそのような正月風景であるのか。さすがは松平家、比寿家とは一味違うのう。ところで江戸の乗里はどうしておる。年賀の書状などは届いておらぬのか」

「生憎、文は来ておりませぬ。我が殿は筆不精でしてな。余程の事がなければ文は寄越しませぬのです」

「そうか……」


 如何にも残念そうな表情の恵姫。その様子をにこやかに眺めながら次席家老は包み状を懐から取り出しました。


「乗里様の文はありませぬが、雁四郎より文を預かっております。こちらは厳左殿宛、そしてこちらは恵姫様宛でございます」

「雁四郎の文、じゃと」


 包み状を受け取る恵姫。斎主宮の騒動で雁四郎と別れてから、もうひと月以上顔を見ていないのです。不意に懐かしさが込み上げてきた恵姫は包みを開いて文を読み始めました。


『恵姫様。新年の御慶、目出度く存じ上げまする。長らくの御無沙汰、誠に申し訳なく思っております。拙者は島羽城にて元気に暮らしております。部屋から出られずとも毎日畳の上で木刀を振り、剣の修練に励み、心身の鍛錬に努めつつ、蟄居が明ける日を一日千秋の思いで待っております。無論、蟄居が明けたとて間渡矢に戻る事は叶いませぬ。このまま島羽より放逐の身を初春の空の下に漂わせる事となりましょう。次に恵姫様にお目に掛かれるのはいつになることか。あるいは比寿家、松平家への再仕官が叶わねば、永遠にお目に掛かれぬのかもしれませぬ。さりとて我が主は恵姫様唯お一人。どのような主君に仕えようとも我が心の主は恵姫様と思い定め、生きていく所存でございます。 雁四郎』


 恵姫は読み終わると丁寧に文を畳んで懐に仕舞いました。雁四郎の溢れる忠義心は恵姫の心に深く染み入りました。そして誰に言うともなく小さく力強い声で断言したのです。


「心得たぞ、雁四郎よ。お主は未来永劫わらわの忠臣じゃ。たとえこの身が滅びようともな」

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