款冬華その二 引き籠り姫

 恵姫が間渡矢に戻ってから今日で六日目。この間、厳左も寛右も暇を見付けては城の中庭に出て、縁側から恵姫に呼び掛けていました。しかし座敷から返ってくるのは気の抜けた声ばかり。姿を見せるどころか障子を開けようともしないのです。さすがに心配になってきた二人は磯島を呼んで恵姫の様子を聞き出したのでした。


「やはりまだいつもの恵姫様には戻っておられぬか。いつまでも座敷に籠りっきりでは心だけでなく体にも差し障りが生じよう。こうなれば無理にでも外に連れ出すしかあるまい」

「何か良い手立てがあるのですか。浜にすら行こうとしないのですよ。余程の事が無い限り座敷を出ようとはしないでしょう」


 厳左の提案に磯島は懐疑的です。二人と違って磯島は毎日恵姫に接しているので、どれほど酷い状態かよく分かっているのです。


「うむ、ないこともないのだ。明日、庄屋の屋敷で餅搗きを行うであろう。恵姫様が毎年楽しみにしている年越し準備のひとつだ。あくまでも正月用の餅なので、いつもは搗くだけで食したりはせぬが、此度は黄粉餅きなこもちなどにして振る舞うよう頼んである。そうなれば恵姫様も喜んで庄屋の屋敷に行くのではないか」


 恵姫の食い意地を利用するのは議論の余地のない最良の策です。恵姫の行動規範の第一は「美味い物は食えるか」であり、第二は「それは海の物であるか」であり、第三は「腹一杯食えるか」であるからです。今回は二番目の項目が満たされていませんが、黄粉に昆布と鰹の出汁を加えるよう頼んであります。三つの行動規範が満たされれば恵姫が重い腰を上げないはずがありません。自信満々の厳左ですが、磯島の表情は依然として冴えないままです。


「どうでございましょうねえ。最近の恵姫様は食が細く、以前ほど食事を召し上がらないのですよ。出汁入り黄粉餅如きに心を動かされるかどうか……」

「それは磯島殿の力で何とかしてくれぬか。明朝は黒姫様と毘沙姫様も城へ迎えに来てくれる。無駄足を踏ませるような真似はさせたくない」

「某からもお願いする、磯島殿。とにかく新年を迎える前に恵姫様に元気になっていただきたいのだ」


 厳左と寛右の二人からこうまで頼み込まれては磯島も断れません。今晩夕食を取りながら恵姫に話をしてみましょうと返事をして、奥御殿から退出するのでした。


 * * *


「今日もまた日が暮れるのう。何もせずとも月日は流れていくものじゃ」


 恵姫は火鉢の傍に寝っ転がりながら、薄暗くなり始めた縁側の障子を眺めていました。六日前に間渡矢へ帰って来てからほとんど寝て過ごしています。お稽古事は例年、正月事始めの十三日から年明けの小正月まで休みになるので、恵姫の怠惰は輪を掛けて酷くなっています。


「まるで北の海に住むという海豹のようでございますね」


 と磯島に言われても、恵姫は一向気に介さず、今日もゴロゴロしているのでした。


「夕食でございます」


 磯島が女中と一緒に座敷に入ってきました。のっそりと起き上がり膳が並べられるのを待つ恵姫。支度が整えばのそのそと箸を動かして食べ始めます。その動きにも表情にもまるで生気がありません。


『このような有様では、とても餅搗きになど行こうとなさらぬはず。申したところで徒労に終わるだけですのに』


 と磯島は思ったのですが、厳左や寛右と約束した手前、一応恵姫に話をします。


「恵姫様、明日は庄屋様のお屋敷へ行ってくださいまし」

「庄屋の屋敷へ? 何をしに行くのじゃ」

「年の瀬恒例の餅搗きです。知っておりますよ。毎年『餅搗きを見に行くだけじゃ』と言って出掛けられては、作り掛けの正月料理をこっそりつまみ食いしているのでしょう。今年は特別に餅搗きの後、黄粉餅を振る舞うそうでございます。庄屋様も是非お越しくださいと申しておりました」

「ああ、餅搗きか……」


 気の無い恵姫の返事です。やはり今の恵姫は黄粉餅程度では心を動かされないようです。


「あと五日もすれば新年じゃ。そうすれば餅など飽きるほど食える。別に明日食う必要もないじゃろう。今年の餅搗きは行かぬ事にしよう」

「明朝は黒姫様、毘沙姫様が迎えに来るそうでございます。恵姫様が行かれないとなれば、お二人も気を悪く致しましょう」

「黒と毘沙か。わらわが頭を下げれば二人とも許してくれるじゃろう。どうにも餅を搗くような気分になれぬのでのう。悪いな磯島」


 恵姫は食後のお茶を飲むと火鉢の傍へと身を移しました。背を丸め炭火に両手をかざす姿は、まるで老婆のように見すぼらしく見えます。


「恵姫様……」


 この六日間、磯島は恵姫の好きなようにさせていました。何もせずともいつかは元気を取り戻し、昔のように明るい恵姫に戻ってくれると思っていたからです。しかし、それは大きな間違いではなかったのかとこの時初めて気付いたのです。このまま何もせずに放っておけば、恵姫はこんな腑抜けのままで一生を棒に振ってしまうに違いない、そう感じ始めたのです。


「いいえ、明日はどうあっても庄屋様のお屋敷へ行っていただきます」


 断固とした態度で言い切る磯島。恵姫は最前と変わらぬ生気のない顔で磯島を眺めています。


「お忘れですか。この城の新年の餅も庄屋様のお屋敷で搗いてもらっている事を。例年ならば数名の女中を向かわせて、鏡餅やら餅花やら伸し餅やらを作っておりますが、今年は人手が足りませぬ。恵姫様にそのお役目を引き受けていただかねばならないのです」


 勿論これは磯島の作り話です。恵姫に鏡餅などを作らせれば雪だるまが出来上がるのは目に見えています。お役目にかこつけて庄屋の屋敷へ行かせようとしているのです。


「お役目か。ならば今年は餅無しで良い。正月料理だけで腹は膨れるからのう」

「恵姫様が良くても他の者が黙ってはおりません。鏡餅も無く、雑煮も無く、焼餅も無い新年を迎えたとあっては、城に残っている者たちが怒り狂って暴動を起こしかねません。どうあっても餅は必要なのです。その餅を用意する為に恵姫様は庄屋様のお屋敷へ行かねばならないのです」

「いや、しかし、わらわでなくとも、例えば小柄女中……」

「恵姫様でなくてはいけないのです。他の者では絶対に駄目なのです!」


 磯島の言葉からはとっくの昔に理屈がなくなっています。こうなると説得ではなく命令です。全てに無気力になっている恵姫はだんだん磯島との遣り取りが面倒になってきました。


「ならば、取り敢えず行くだけは行ってみる事にしようぞ。うまく鏡餅を作れるかどうかは分からぬがのう」

「ああ、ようやく決心していただけましたか。有難うございます。それから餅には手を触れずともよろしいですよ。恵姫様が捏ねた餅など誰も食べようとしませんからね。それでは私はこれで」


 軽く頭を下げて座敷を出ていく磯島。ほどなくやって来た女中が夕餉の膳を下げ、火鉢の五徳に土瓶を置いていきます。恵姫は湯呑の茶を飲みながら、先ほどの磯島の言葉をつらつら思い出しました。


「餅搗きか。いつもは杵で餅を搗くだけじゃが餅を捏ねてみるのも面白いかもしれぬのう。いや、待てよ、磯島は餅に触らずともよいと言っておったな。してみるとわらわは何をしに餅搗きに行くのじゃ」


 明らかに矛盾した磯島の話でしたが、今の恵姫にとってはそれもどうでもよい事なのでした。ぼんやりと茶を飲み火鉢に当たっていると、隣の控えの間で物音がしました。今晩詰める女中がやって来たようです。


「控えの女中か。そう言えば昔、お福と一緒にうぐいす餅を食った事があったのう」


 初めてお福が控えの間に詰めた夜、二人で分け合って食べた夜食のうぐいす餅。あの時の記憶がぼんやりと頭の中に蘇りました。


「そうじゃ、まだあれがあるはずじゃ」


 恵姫は座敷の隅にある物入れに駆け寄ると中から湯呑を取り出しました。白地の陶器におかめの絵柄が描かれた湯呑。あの晩、この湯呑を使ってお福は茶を飲んだのです。


「お福にはもう二度と会えぬのかもしれぬのう」


 湯呑に描かれたおかめの絵柄にお福の笑顔が重なりました。何とも言えぬ物寂しさを感じながら、夜の更けるのも忘れて湯呑のおかめを眺め続ける恵姫ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る