大寒

第七十話 ふきのはな さく

款冬華その一 恵姫の帰還

 時代と場所にかかわらず年の瀬は慌ただしいもの。間渡矢城とて例外ではなく、大晦日まであと四日となった本日も磯島を始めとする奥の女中たちは年越しの準備に大忙しです。

 特に今年は頼りにしていたお福が居なくなったため、ただでさえ人手の足りない女中たちは例年以上に忙殺されていたのです。そんな時に表御殿へ呼び出され、磯島はすっかり機嫌を悪くしてしまいました。


「何でございますか、このような忙しい時に。余り時間を取るようなら途中で帰らせていただきますよ」


 昼下がりの表御殿の小居間で磯島を出迎えたのは寛右と厳左の二人です。お怒り気味の物言いに恐縮しながら厳左が用件を切り出しました。


「済まぬな、磯島殿。手短に言おう。恵姫様の様子はどうだ。浜にも行かず座敷に籠もったままだと聞いておるのだが」


 磯島の眉間に皺が寄りました。恵姫のお行儀が悪い時に現れるお馴染みの恵皺ですが、今回だけは少々意味合いが違うようです。


「その通りです。城に戻られてからまだ一度も奥御殿を出ておりません。私もさすがに心配になってまいりました」


 恵姫に対しては鬼のように厳しい磯島が心配をするのですから余程の事です。寛右と厳左は思った通りの返答を聞かされ、六日前、城に戻って来た恵姫を思い出すのでした。


 * * *


「恵姫様、それに毘沙姫様も。どうしてここに」


 突然間渡矢城に現れた二人を見て驚きの声を上げる厳左。斎主宮からは何の知らせもありませんでした。使者だけでなく文さえもなかったのです。そんな状態でいきなり恵姫と毘沙姫が城門に姿を現したのですから、驚くのは当たり前です。


「おう、厳左。おまえの望み通り恵を間渡矢に連れてきてやったぞ。だいぶ疲れているようだ。磯島を呼んですぐに休ませてやれ」


 毘沙姫の言葉通り、恵姫の顔には生気がありません。それに一言も喋ろうとしません。なにより厳左を驚かせたのは恵姫の髪でした。断髪の罰を受けたと聞いてはいましたが、まるで別人のようにすら見える恵姫の短髪に、怒りと憐れみが込み上げてくるのでした。


『斎主様の命に背いたとはいえ、これほどの罰を与えられるとは。このような姿を見せられては雁四郎が抜刀するのも無理はない』


 呼ばれて城門に駆け付けた磯島も恵姫の髪を見た途端、涙を流さんばかりに嘆き悲しみました。


「いくら何でもここまで短くされるとは……これでは満足に髷も結えませぬ。ああ、御可哀想な恵姫様」

「磯島、嘆いても髪は伸びぬ。それよりも恵を早く休ませてやってくれ。昨日から元気がないのだ」


 毘沙姫に言われて恵姫を奥御殿へ連れて行く磯島。その間も恵姫は一切口を利きません。まるで魂を失くした抜け殻のようです。


「毘沙姫様、何があったのだ。詳しく話してくれぬか」

「ああ、話してやる。だがその前に何か食わせろ。腹が減った」


 折よく昼を告げる時太鼓が鳴りました。厳左はさっそく寛右と磯島を表御殿の小居間に呼び、昼食を取りながら毘沙姫の話を聞く事にしました。


「昨日の事だ。突然与太郎がやって来たのだ」


 そうして毘沙姫は斎主宮での出来事を語り始めました。与太郎を隠し通そうとした恵姫。与太郎の忠義心溢れる覚悟。苦渋の末に下した恵姫の決断。毘沙姫が話し終わっても間渡矢の三人はしばらく何も言えませんでした。


「また与太郎殿に助けられたか」


 厳左が呻くように呟きました。その言葉を継いで寛右も溜息混じりに口を開きます。


「そうだな。最早我らはどれほどの礼を尽くしても尽くしきれぬほどの恩を、与太郎殿から受けてしまった」

「最初にお会いした時には気の弱い小者と思っておりましたが、この一年の間に己の命を差し出すほどの有徳の士になられるとは……この磯島の眼を以てしても見抜けませんでした」


 与太郎の決断を有難く感じながら、それに報いる術を持たぬ自分を情けなく感じる三人。しかしそれは全ての姫衆が抱いた思いでもありました。特に与太郎に直接命令を下した恵姫は、一日を経過した今でも忸怩じくじたる思いに囚われていたのです。


「斎主様より留め置きを解除され、恵も皆と一緒に斎主宮を出たのだが全く元気がないのだ。門前町で飲み食いしようともせず、早く間渡矢へ帰りたいと言うのでその日のうちに島羽城へ向かった。そこで一泊し、今朝島羽を発ってここへ帰って来たと言うわけだ」

「与太郎殿や他の姫様たちはどうされたのだ」


 寛右に問われて、昨日から今日までの出来事を話す毘沙姫。与太郎とお福はその日のうちに伊瀬を発ちました。八日の謁見の時には斎宗宮の御座船が既に神社かみやしろの港に到着していたのです。二人はその船に乗って、伊瀬に留まったままだった瀬津姫、破矢姫と共に記伊へ向かったのです。

 斎主宮に留め置かれていた姫たちは全員伊瀬を発ち、間渡矢へやって来ました。黒姫、才姫は勿論の事、布姫、禄姫、寿姫も、今、間渡矢に居るのです。


「なんと、禄姫様、寿姫様までも斎主宮を出られたとは。何か理由でもおありか」

「ああ。二人とも此度の斎主様の遣り方には相当腹を立てていたのだ。ほうき星退治は元々伊瀬の姫衆には関わりのない事。二人を江戸から連れてきたところで何の役にも立たぬ。姫衆の伊瀬召集は公儀との駆け引きを有利に進める為に、斎主が利用した道具に過ぎなかったわけだ。用無しの身となった以上、伊瀬になど居たくはないが、公儀の手前、立春までは江戸にも戻れぬので、我らと共に間渡矢に来たというわけだ」


 禄姫、寿姫は伊瀬の生まれながら一時期間渡矢にも住んでいた事があり、大婆婆様とは旧知の仲でした。身の回りの世話をしてもらう為に江戸から連れてきた使いの女と共に、大婆婆様の厄介になる事にしたのです。

 布姫は前回の河月院ではなくいつも通りの乾神社。毘沙姫は庄屋の屋敷に身を寄せる事となりました。


「布姫様と毘沙姫様が間渡矢に留まるのは、何か意味がおありなのですか」


 二人が間渡矢に居る事を咎めるような磯島の物言いに、毘沙姫は不満げな顔をして答えます。


「用が無ければ間渡矢に居てはいけないような言い方だな。まあいい、実は布がこう言ったのだ。『立春まで間渡矢に留まってください』とな」

「布姫様が……何故です?」

「分からん。理由は教えてくれぬのだ。ただ布がそう言わずともしばらくは間渡矢に留まるつもりだったのだ。恵が気になってな」


 恵姫の様子がいつもと違うのは毘沙姫だけでなく磯島や厳左、寛右も感じていました。食欲の塊のような恵姫がほとんど昼食を取らず床に伏しているのです。


「恵姫様の元気がないのは、やはり与太郎殿の事を気に病んでおられるからであろうか」

「恐らくそうだ。恵は口は悪いし人をこき使うし一見無慈悲な娘に見える。だがそれは間違いだ。誰よりも命を大切にする性分なのだ。海豚屋で酷い目に遭わされた人買いたちに対してすら、一人の命も取ろうとはしなかった。そして危機に陥っている者があれば、それが誰であろうと全力を尽くして助けようとする。しかし此度は違った。与太郎を自らの手で死に追いやったのだ。言ってみれば真剣で初めて人を斬ったようなものだ。厳左、おまえも覚えているだろう、刀で初めて人を殺めた時に味わった言い知れぬ罪悪感を。幸いな事に私の剣は人の命を奪った事はない。それでも初めて人を斬った時には後悔と憐れみと己の未熟さを痛感した。武士としての修行を積んでおらぬ恵にとってはさぞかし辛い経験だったに違いない」

「なるほど。恵姫様は己を責めておられるわけか」


 厳左は遠い昔の記憶を辿っていました。初めて真剣で斬り合いをし息絶えた相手の形相は、今でも思い出せるほど鮮明に厳左の心に残っています。それからしばらくの間は刀に触るのも嫌悪したほどでした。


「恵には早く立ち直って欲しいのだ。元気な姿を見るまでは間渡矢に留まろうと思う。皆も手を貸してくれ」


 深々と頭を下げる毘沙姫の姿には恵姫を思う気持ちが溢れています。同じように頭を下げながら、一刻も早く恵姫が元気になって欲しいと望む間渡矢城の三人ではありました。

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