雪下出麦その四 無期限の姫札
翌朝も空一面に灰色の雲が垂れ込めていました。前回とは違って朝食後すぐに島羽城を発った恵姫一行。伊瀬の内宮門前町目指して島羽街道をひたすら歩いています。
気分が重いままでは釣りも御馳走も楽しめません。こんな憂鬱な旅はさっさと終わらせたい……そう思うのは恵姫だけではなく黒姫や才姫も同じでした。鳥羽城を早々に発つ事に反対の者は一人も居なかったのです。
「今日も寒い一日になりそうじゃわい。この調子ならば昼前に着けるじゃろう。斎主宮で姫札を受け取ったらそのまま斎主様に会おうではないか。面倒なお役目はさっさと済ませ、その後、昼飯をゆっくり味わうとしようぞ」
「恵姫様、此度もまたひと月伊瀬に留まる、などと仰られるのではないでしょうな」
「案ずるな、雁四郎。年の瀬が迫ったこの時期に遊び惚けるような愚かな真似はせぬ。それに磯島や庄屋や御典医からも早く帰ってくるよう言われておるのじゃ。今日お役目を済ませる事ができれば、明日にでも間渡矢に帰ろうぞ」
これを聞いて一安心の雁四郎。何かと物入りの年の瀬とあって、渡された路銀は数日の滞在分しかありませんでした。これを使い切ってしまえば自力で金を工面するか、野宿をして食費だけは確保するか、いづれにしても厳しい日々を過ごさねばならなかったのです。
足早に先を急ぐ恵姫たち五人。昨日のように雪がちらつく事もなく、内宮門前町には昼前に到着できました。休む事無く斎主宮へ向かう五人。鳥居をくぐり外院に入ると恵姫たちは雁四郎を残して御殿の中へ入っていきます。ほどなく御殿から出てきた四人はどことなく不満げな表情です。
「次は斎主様との謁見でございますな。早く済ませて昼に致しましょう」
途中、茶店で一服する事もなく歩いて来たので、少々腹が減っている雁四郎。恵姫の返事を待たずに中院へ歩き出そうとしました。が、
「謁見は明日じゃ。門前町に戻るぞ」
背後から恵姫にこう言われて足が止まりました。同時に嫌な予感がし始めました。姫札をもらって恵姫の気持ちが変わったのではないか、やはり伊瀬で思う存分飲み食いする気なのではないか、そんな疑念が沸き上がって来たのです
「失礼ながら恵姫様、此度の姫札の期限は何日となっておりますか」
前回同様五日間ならば心配は要りません。ひと月、あるいはそれ以上ならば恵姫の心変わりも十分あり得る、雁四郎はそう考えたのです。しかし恵姫の答えはそんな雁四郎の思考を木っ端微塵に粉砕する破壊力を持っていました。
「姫札の期限か。此度は無期限じゃ」
「む、無期限!」
腰を抜かさんばかりに驚く雁四郎。才姫が苦笑しながら付け足します。
「雁が驚くのも無理ないさ。あたしだって無期限の姫札なんて初めて見たんだ。やはり今回の召集はほうき星絡みと見て間違いないね」
「うむ。まあ歩きながら話すとしよう、わらわも腹が減って来たわい」
門前町に向かいながら自分たちの考えを言い合う恵姫一行。これまでほうき星をどのように消し去るか、その方法は全く教えてもらっていませんでした。ただ、江戸で斎主によって再現された三百年前のほうき星消滅の瞬間を見て、立春前の一日で片が付くものだと思い込んでいたのです。
「しかしそれはあくまでわらわたちの考えに過ぎぬ。実は何日も前からほうき星消滅のための準備が必要なのかもしれぬ。わらわたちはその準備のために呼ばれたのかもしれぬのう、くちゃくちゃ」
歩きながら団子を食べる恵姫。さすがに団子屋の店先に腰を掛けて話せるような内容ではないので、取り敢えず団子を買い、人気の少ない場所で話をしているのです。
「それでは明日より恵姫様たちは斎主宮に留め置かれる、という事なのでしょうか」
「それもどうだか分からないさ。まだ姫札をもらっただけで何も聞いちゃいないんだからね」
雁四郎にとって最大の懸念事項は、自分は何日伊瀬に留まらねばならないか、という事です。今日から立春まで留まる事なとできようはずもありません。
「でも、もしあたしたちが明日から斎主宮に留め置かれるのなら、雁ちゃんは一人で帰ってもいいと思うよ。だって斎主宮に居れば警護の必要なんてないもの。雁ちゃんが居ても仕方がないよ」
斎主宮には多くの女官が居ます。その中には女ながらに腕の立つ警護の女官も多数居ます。しかも雁四郎は斎主宮にとってはあくまで客、自由に振る舞う事は
「黒の言う通りじゃ。それにわらわたちが斎主宮へ留め置かれたならば、直ちに城へ知らせねばならぬ。雁四郎、もしわらわたちの考え通りになったならば、お主は一人で間渡矢へ戻り、厳左や寛右に事の次第を伝えてくれ、くちゃくちゃ」
「承知致しました。しかしそれならば明日と言わず今日謁見されてもよかったのではないですか。されば今日中に磯辺街道をひた走り間渡矢へ戻れましたものを」
「向こうが断って来たのじゃ。今日は布と話をするから謁見はできぬ、とな」
「布姫様と……」
腑に落ちぬ雁四郎です。まだ昼になったばかりなのですから、布姫の後に恵姫たちと謁見しても日暮れまでには終わるはずです。それとも布姫とはそれほど長い時間を掛けて話し合わねばならない事があるのでしょうか。
「まあ、いいじゃないか、雁。一日くらい帰るのが遅れたってどうって事ないだろ。せっかく伊瀬に来たんだ、一泊くらいしていきな」
「あ、はい。それにしても布姫様まで来ておられるとなると、これはもうほうき星に関する召集と見て間違いないのではないですか」
「それも明日になりゃはっきりするんだ。余計な事は考えず楽しもうじゃないのさ。あたしたちが自由に門前町で遊べるのは今日限りかもしれないんだからさ」
明日から斎主宮に留め置かれるとなると、窮屈な生活が始まるのは目に見えています。結局それから宿坊に入るまで、恵姫たちは門前町をそぞろ歩き、姫札を使って存分に飲み食いしたのでした。
日暮れ近くになってようやく宿坊に入った恵姫一行。いきなり思い掛けない話を聞かされました。
「いらっしゃいませ。間渡矢の恵姫様五名でございますね。お連れの方が先にお見えになっております」
「お連れ? 誰の事じゃ」
不審に思いながら案内された部屋に向かいます。割り当てられた部屋は四人部屋がふたつ。そのうちの一部屋にお連れが寝転んでいました。
「よう、来たな」
毘沙姫でした。やはり斎主の召集は七人全ての姫に対して行われていたのです。
六人になったので三人ずつ分かれる事になりました。お福、黒姫、才姫で一部屋。残りが毘沙姫の居る部屋です。
「これで布が戻ってくれば七人か。どちらの部屋に入るにせよ、ちと窮屈じゃな。いつものように二人部屋を用意してもらうか」
「ああ、布は戻って来ぬ。今夜は斎主宮に厄介になるそうだ」
「何じゃ、布にも会ったのか。もしかして二人一緒にここへ来たのか」
その通りでした。二人は連れ立って門前町にやって来たのです。それは示し合わせた訳ではなく単なる偶然でした。
帆掛け船で旅を続けていた布姫は今日の早朝、伊瀬、
「久しぶりの布との道連れだ。さっさと斎主との謁見を済ませ、積もる話でもしようかと思っていたのだが、呼ばれたのは布一人だけ。私の謁見は明日に回されたのだ」
「なんと、毘沙もか。わらわたちもじゃ」
どうやら布姫に対してだけは他の姫たちとは別の話があるようです。あるいは布姫の知恵を借りねばならないような問題を斎主が抱えているのかもしれません。
「布は与太郎の時空についてかなりの知識を持っているからな。あるいはほうき星に関して、斎主様よりも詳しいのかもしれぬ」
それはあり得る事のように思われました。ほうき星はこの時空と与太郎の時空の両方に関与するもの。与太郎の時空の知識があれば別の側面からほうき星を考察する事も可能となります。
「しかし偶然とは恐ろしいものだ。別々の場所に居た我ら五人の姫が同じ日に斎主宮へ到着したのだからな。これで与太郎がやって来れば完璧だ」
「余計な事を言うでない、毘沙よ。本当にやって来るかもしれぬではないか。此度は与太郎を連れて来る必要はないと言われておるのじゃ。下手に来られてはかえって迷惑というものであろう」
前回同様今回もまた与太郎の出現を歓迎していない恵姫ではありました。
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