麋角解その五 瀬津姫の想い

 悪事が露見したと分かっても瀬津姫は態度を変えません。才姫に向かって強気の姿勢で臨みます。


「この場は見逃してくれないかねえ、姉さん。与太郎が現れればお福はすぐに間渡矢へ帰すからさ」

「呆れたよ、瀬津。月見の宴で酒を酌み交わして、頭に生やしていた角がようやく落ちたと思ったら、もう次の角が生えてきたのかい。こんな無体な真似を仕出かして見逃せるはずがないだろう」


 互いに譲らない二人。才姫はのんびりと構えていますが瀬津姫はそうも行きません。余り長引くと雁四郎や恵姫が目を覚まし騒ぎが大きくなります。


「破矢、行きな!」


 瀬津姫の合図と共に玄関の戸を開け外に飛び出す破矢姫。「お待ち!」と言って駆け出そうとした才姫の前に瀬津姫が立ち塞がりました。その右手は帯に差し込まれています。他の姫衆同様、瀬津姫もまた斎宗から与えられた神器を持っているのです。


「ここは通さないよ、姉さん。痛い目を見たくなかったらしばらく大人しくしているんだね」


 破矢姫の足の速さを考えれば、さほど時を稼がなくても逃げおおせるはずです。自分はどうなろうとお福だけは記伊に連れて行く、瀬津姫はそう覚悟を決めたようでした。


「……ふふふ、ははは」


 突然才姫が笑い出しました。毒気を抜かれたように玄関の土間に立ち尽くす瀬津姫。破矢姫は戸外の闇に紛れ、最早姿は見えません。


「な、何を笑っているのさ。破矢を追わなくてもいいのかい」

「瀬津、まだ気付いていないんだね。その右手に持った神器を使ってごらんよ」


 言われるままに瀬津姫は右手を帯から抜こうとしました。が、右手は凍り付いたようにびくともしません。いつの間にか誰かに右腕を掴まれていたのです。首筋には何かを押し当てられたような冷たい感触。同時に押し殺した声が聞こえてきました。


「お静かに。少しでも歯向かえばこの苦無が喉を切り裂きます」

「ご苦労だね、鷹。破矢はどうなってる」

「亀之助と馬之新を向かわせました。そろそろ捕えて戻って来るはず」

「くっ、城の番方を張り込ませていたのか」


 何故これほどまでに才姫が落ち着いていたのか、その理由がようやく分かった瀬津姫。才姫の用意周到さとそれに気付けなかった自分の油断、歯ぎしりしたくなるほどの悔しさが襲ってきました。


「言っただろう、与太郎が来た日から怪しいと思っていたって。今日、突然おまえが恵たちに料理を振る舞いたいと言い出したからピンと来たんだよ。まあ、あんたが屋敷に張り込んでいた奴らに気付けなかったのも無理ないさ。馬はただの番方だが鷹と亀は伊賀の忍だからね。ああ、捕まえたようだね」


 戸外で物音と声がします。亀之助と馬之新が破矢姫を捕えて戻って来たのでした。こうなっては全てを諦めるより他に道はありません。観念した様子で鷹之丞に従い、再び座敷に戻る瀬津姫です。


「騒がしいのう、何事じゃ」

「何か、事が起こりましたか」

「あれ、お福ちゃんが居ないよ!」


 恵姫と雁四郎、それに黒姫も目を覚ましたようです。一同は再び座敷に集まると才姫から何が起きたのかを説明してもらいました。瀬津姫と破矢姫は念のために縄で縛られています。


「残念じゃのう。瀬津がそのような事を仕出かすとは」


 話を聞き終わった恵姫はため息を付きました。瀬津姫を警戒する気持ちは残っていたものの、それ以上に信じていたい気持ちの方が強かったのです。しかし、結局その信頼も踏みにじられる形になってしまいました。


「瀬津よ、そうまでして与太郎を記伊に呼びたいのなら、何故わらわに相談してくれなかったのじゃ。彼奴が嫌じゃと言うてもわらわが行けと命じれば、間違いなく記伊に赴いたはず。このように力尽くの手段に出る必要などないであろう」

「ああ、そうかもしれないね。だけどいくらあんたでも理由もなくあたしの頼みを聞いてはくれないだろう。与太郎を記伊に連れて行く理由、これは教えられないんだ。ううん、知られたくないんだ。あんたたちが理由を知らなくて済むように、あたしは与太郎を記伊に連れて行きたかったんだよ」


 瀬津姫の説明は説明になっていませんでした。与太郎を連れて行きたいのは与太郎を連れて行きたい理由を知られたくないから……これでは堂々巡りです。


「瀬津、あんた月見の宴の時、記伊に戻って斎宗様に話を聞くって言ってたよね。あたしらはあれからほうき星について多くの事を知った。あんたはどれくらいの知識を斎宗様からもらったんだい。新しく手に入れた知識と与太郎を記伊に連れて行く事と、何か関係があるんじゃないのかい」


 才姫がそう問い掛けると、瀬津姫は鋭い眼差しで睨み返しました。図星だよ、その目はそう言っているように思われました。


「斎宗様は教えてくれたよ。全て教えてくれた。今まで何が起こって来たのか、今何が起きているのか、ほうき星が何か、与太郎は何者か、どうすればほうき星が消えるのか、全て教えてくれた。あんたたちも布から聞いたんだろう。与太郎は本来記伊の斎宗宮に現れなくちゃいけなかったんだ。だから連れて行くのは当然なんだよ」


 お福の場と斎宗宮の場が同じ、その為に与太郎はお福の近くに現れる、下田で布姫はそう言っていました。その点から言えば瀬津姫の説明は確かに頷けるものでした。


「恵、ここはひとつ瀬津の言う事を聞いてやったらどうだい。与太郎が記伊に行ったところで困る者は一人も居ないんだ」


 才姫も同じ事を考えていたのでしょう。そう耳打ちされた恵姫は大きく頷いて言いました。


「瀬津よ、そなたの言う事はよく分かった。ならばもう理由は問わぬ。次に与太郎が来た時、記伊に行くようわらわが命じよう。それで納得してくれぬか。お福を代わりに連れて行くような真似は二度とせぬと約束してくれぬか」

「……ふふ、ははは」


 恵姫の言葉を聞いて笑い出す瀬津姫。気でも違えたのかと思われる振る舞いに、座敷の一同の背筋が凍り付きました。今夜の瀬津姫は余りにも常軌を逸しています。


「お福だって。何を言ってるんだい。知らないんだね、何も知らないからそんな事が言えるんだ。この娘のせいなんだよ、恵や姉さんを苦しみの中に引きずり込んだのは。皆、騙されていたんだ。あたしもあんたたちも、この小娘に一杯食わされていたのさ。大人しく記伊に留まっていてくれたら、こんな事にはならなかったんだ」

「記伊に留まっていたら……じゃと」


 恵姫は畳に横たわるお福に視線を落としました。安らかな寝顔です。御典医の薬がまだ効いているのでしょう。


「どういう意味じゃ瀬津。お福は伊瀬の神宮の推挙で間渡矢に来たと聞いておる。記伊とは何の関係もないはずじゃ」

「ふっ、まだそんな事を言っているのかい。いいよ、教えてやるよ」

「瀬津、それは……」


 横から破矢姫が口を出しました。教えない方がいい、そう言いたいのでしょう。しかし瀬津姫の決心は変わりません。


「お福は伊瀬の姫じゃない、記伊の姫だ。しかもただの姫じゃない。あたしたち記伊の姫衆の頂点に立つ姫、記伊の斎宗様なんだよ」


 恵姫も才姫も黒姫も、そして雁四郎たちも自分の耳を疑わずにはいられませんでした。嘘を言っているのではないか、何かの間違いではないのか、そんな考えが頭の中を駆け巡ります。

 しかし瀬津姫は嘘を嫌う性分です。隠し事はしても偽りを述べた事はありません。そもそもそんな嘘をついたところで瀬津姫には何の得にもならないのです。


「お福が、記伊の斎宗……」


 恵姫はもう一度お福に視線を移しました。自分の周りでどのような騒ぎが起きているか知る由もなく、穏やかな寝顔で眠り続けるお福ではありました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る